Case 1ー1


 『come back home』の事務所の電話が鳴ったのは、朝まだ早い時間だった。


 ほんの数時間前まで晴れていた空は、今にも降り出しそうな黒い雲に低く覆われている。

 窓の外を眺めながらコーヒーを淹れていた熊谷ユキは、給湯室の蛍光灯がちかちかと不規則に点滅するのを見て、そろそろ替え時なのかもしれないと思った。

 昨夜はネットカフェで過ごしていた為、少しうとうとしただけで、あまり寝ていない。頭を軽く振ると、カフェインを含んだ芳ばしい香りを肺いっぱいに吸い込んだ。


 天気予報は、晴れだったのに。

 

 携帯をひらいてみれば、予報は晴れから曇り時々晴れに変わっている。倉部がよく言っている台詞が、ユキの脳裏に過ぎった。


 天気予報はハズれないように出来ているってことは、当たらないようにも出来ていると言える。


 人を食ったようなことを言っては、周りを煙に巻くのが倉部という人物だ。その倉部は、今朝はまだ事務所に来ていない。

 意外にも、事務所に一番早く来ていたのは鬼海で、ユキが事務所の扉を開けるとデスクの上に足を上げた格好でコンビニで買ったコーヒーカップを持ち上げた。どうやらそれで挨拶の代わりを済ませたようだ。

 片手を上げただけで、いつもの調子良さがない理由としてもう片方の手には事務所の電話の受話器が握られており、朝早くから誰かと話している最中だからと思われた。

 ユキは軽く会釈をすると、ロッカーに荷物を仕舞いに行き、そのまま給湯室で自分のコーヒーを入れることにしたのである。


 ドリップ式のコーヒーは、心を落ち着かせる作用があると、ユキは思う。お茶汲み仕事なんて最低だと言う友達もいたが、この事務所に来る前の会社でも、ユキはお茶汲み仕事が好きだった。

 一人で黙々と、あるいは誰かと給湯室で他愛のない話をしながらお茶を入れることは、どんなに忙しくて腹立たしい時でも、何かをリセットすることが出来た。

 そんなユキを八方美人だの、媚びているだの、ゴマすりが上手いだの、いいように使われているだけだのと、言う人達は少なからずいたが、そう思う人には何を言っても意味がないことを知っていたので、何と噂されても言われるままにしていた。

 お茶汲みが好きなんて、おかしい。

 面と向かってそう言う人にはユキは、そうですね、と軽く微笑みながら答えるようにしていた。それで大概の人はユキを小馬鹿にした目で見て満足するのだ。


 コーヒーで満たされたカップを、そおっと口もとに運ぶ。上唇を火傷しそうになりながら、ひと口。

 事務所の電話の鳴る音が聞こえる。

 程なくして鬼海さんの声。


「はい。『come back home』鬼海です」


 先ほどの電話は終わり、早くも次の電話だなんて。

 

 ユキは携帯電話に表示されている時刻に目をやる。

 また随分と早い時間だ。

 カップを持ち給湯室から出て、パーテーションに区切られた自分のデスクに向かった。


 鬼海は、受話器の向こうから聞こえる声に相槌を打ちながら、給湯室から戻ってきた熊谷ユキを見て、持っていたペンを振り合図を送った。

 その合図を理解したユキは、パーテーションを回り込み鬼海のデスクまで来ると、メモ用紙に殴り書きにされた鬼海のメッセージを読み、驚きに目を丸くする。


 行方不明

 おんなのこ

 10歳

 下校途中

 特異

 倉部


 倉部、の文字がグルグルと円で囲まれているところからユキは倉部に連絡するようにとの意図を読み取り、鬼海に向かって頷きながらその場を離れると、自分のデスクに戻り携帯で倉部に電話を架けた。

 

「……倉部さん? ユキです。……ハイ。……そうです。……ハイ。よろしくお願いします」


 ユキは携帯電話を切ると、待ち受け画面からこちらに向かって微笑む『あの人』をじっと見た。


 わたしの不在に、何を思うのだろう。

 元気でいるだろうか。


「ユキさーん? チーフと連絡とれましたか?」

 

 鬼海がパーテーションの向こうから、顔だけ出してこちらを見ていた。

 ハッと我にかえる。

 何を考えていた? 危ないところだった。


「はい。今、事務所に向かっている途中で、間もなく着くそうです。……わたしからの電話で大体のことは分かったみたいで、こっちに来てから詳しい話は聞くそうです」


「そっか、さすがチーフ。ユキさんも倉部さんが来たら、一緒に話を聞いてくれます?」

 

 ユキが頷くと、鬼海はいつになく真面目な顔で言った。


「朝イチの電話は、柴崎さんからだったんです。ここを紹介したって連絡でした。多分、直ぐに依頼主から電話が来たのは、柴崎さんが事務所の開いていることを確認後、その旨を依頼主に伝えたから……」


「依頼主さんは、焦っているんですね?」


 大切な人を目の前で失うつらさは、ユキには分からない。ユキが知っているのは大切な人達と二度と会えないつらさだ。


「そうです。この場合は、時間がモノを言うかもしれない。なぜなら、この事件『入り口』の特定が出来ているんです」


 鬼海の言葉に、ユキは思わず自分の身体を両手で抱きしめた。

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