第6話 王帝・オリオン

「今日は王が目覚めておられるのか?」


 二人に背を向け、しばし歩いた後にプロクスはウェールスに問う。


「はい。……しかし、もう体を起こせぬ状態で」


 そうか、とプロクスは頷く。王の体調が思わしくなくなったのは、半年前からだ。


 彼女が案内されたのは、神殿近くの離宮。白く煌めく石造りの平屋で、風通しが良い。目隠しに掛けられた薄い布地が、ゆっくりと揺れていた。周囲を緑と花に囲まれ、鳥がさえずっている。ウェールスは中庭を通り、小川が側に流れる東屋の前に立つ。


「陛下、ご案内いたしました」


 ウェールスはそう言い、後ろに下がる。配下の騎士たちは、それぞれ庭の定位置に収まった。ルーカスだけが所在なげだったが、ウェールスに肩をつかまれ一緒に下がった。


「……オリオン」


 白いやわらかな掛布の向こう、寝台に横たわる王オリオン・アトラス=サンクトランティッドがいた。その頭部の金の髪は白髪へと代わり、肌は血の気がなく青白い。とりわけ異様なのがその目だ。白い飾りのような睫の下は、ガラスをはめたように真っ黒だった。


「グラディウス侯! 待っていたのよ」


 王の側に侍っていた女、王妃バージニアはプロクスに駆け寄った。子が二人いる母親だが、王宮の秘宝、と呼ばれるその美しさは健在だ。歩く度に金色の巻き毛がふさりと揺れ、空色の瞳が濡れたように光った。

 彼女のすぐ側には、金髪に濃紺の瞳を持つ男の子がいる。五歳になる、シエル王子だ。


「良き知らせがあると言って頂戴。サーティス=ヘッドに、王を癒す薬は……!」

「バージニア。プロクスをここへ」


 寝台から、弱々しく王が声をかける。その声に、王妃は慌てて王の側に戻る。


「プロクス、よく無事に戻った。診てくれるか」


 プロクスは無言で王の側に立つと、彼の額に触れ、その目をのぞき込む。たくさんの星のような光が浮かんだ両眼は美しく、きらきらと輝いている。

 本来、王族の【夜】の目は左右どちらかのみに現われる。オリオンも最初は左目のみ【夜】を所有していたが、一年前に体調を壊したのをきっかけに、右目にも【夜】が現われた。それから、彼の体の硬化が始まった。


 ――両目が【夜】になるのは、死の予兆されていた。【夜】の目の力が、人の肉体には重すぎるのだ。


「……前よりも、星の減りはゆるやかになったようだ。最初に言っていた時より、ずっと長く生きられるかもしれない。君はよく頑張っている」


 プロクスは王の目を見、そしてその額に優しく手を置いた。


「前もそう言っていたのでは?」


 王はくすりと笑みを浮かべた。


「だが、父よりはましか。明日は私の誕生日だからな。四十になる」


 プロクスは、王の枕元にいる白い烏に目をやる。烏の両眼は王と同じ夜色。彼女は、王に祝福した日をふと思い出す。側にその時の王によく似たシエルがいるからだろう。


「……慌てて戻ってきたのではないか、プロクス。仕事だったのだろう」

「いや、いつも通りだよ。それと、休暇をもらえた。明日の君の誕生日のお祝いに出席させてもらおう」

「それは嬉しいな。あなたはいつも飛び回っているから」


 プロクスは笑い、その痩せた手を取った。


「私は、あなたの代で退官になるだろう。約束の日まで、生き延びておくれ」


 プロクスがオリオンと約束した期限は三年後で、オリオンも次代の王に位を譲る予定だった。


「あぁ、頑張って生きるよ。あなたを自由にすると、子供の頃に決めた。私が駄目なら、ライラが」


 その名をオリオンが口にした瞬間、バージニアが一瞬眉を寄せた。ほんの小さな変化だったが、周囲の人間は気付いた。


「あなたの弟子の顔を見せてくれ。来ているのだろう?」


 微妙な空気の変化に気付かず、オリオンは話を続ける。


「かしこまりました。ルーカス、おいで」


 呼ばれて、外でぼんやり立っていたルーカスは慌てて服を正して薄布の前に立った。王に謁見するとあって、ひどく緊張していた。シエルが、興味津々、と言った風に目を丸くしてルーカスを見る。


「ルーカス・グラディウス、こちらに」


 オリオンはルーカスを手招きすると、自分の頭近くまで来させた。そして、優しくルーカスの手を取った。


「……ルーカス。伝説の騎士王の最後の弟子になれるとは、幸運な子だ」


 ルーカスは口をぱくぱくさせた。声が出ないらしい。だが、ややあって、そっとその枯れ木のような手に自分の手を沿わせた。


「私には娘と息子がいる。守ってくれるな?」

「……ッ、あ、もちろんです」


 ルーカスは緊張しつつ、何とか返事をする。


「命にかけて、お守りします」


 ほぅ、とルーカスの後ろで師匠のプロクスが呟いた。

 王は再度ルーカスの手を強く握ると、そっと緩めた。目をぎゅっと閉じ、もう一度ルーカスを見る。


「王よ、お休みなさいませ」


 プロクスが優しく言うと、オリオンは目を閉じた。

 手の力が緩み、ルーカスはそっと手を寝台の上に置いた。彼が顔を上げると、すぐ真向かいにいたバージニアと目が合った。その鋭い眼差しに、一瞬息をのむ。だが、次の瞬間にはとろけるような優しい笑みを浮かべた。


「ルーカス」


 プロクスに肩を叩かれ、我に返る。退出するよう促され、急ぎ一礼して外に飛び出す。それを見送ると、プロクスもまたオリオンに一礼してそこを出る。


「シエルはお父様といなさい」


 バージニアはふわりと立ち上がる。王子をその場に止めると、プロクスに続いて外に出た。

 目映い日の光を浴びた王妃は、一瞬その目を細めた。彼女付きの騎士が、素早くその頭上に傘を差す。


「グラディウス候」


 バージニアはプロクスの腕を取る。そのまま。二人はゆっくりと歩き出した。


「……グラディウス侯、正直に申し上げて。王は、あとどのくらい生きられそうなの?」


 バージニアは声を潜めて話す。


「もって半年だ」


 問いに、素直にプロクスは答える。バージニアはため息をついた。悲しげに目を伏せる。


「……嫌よ」

「そうだな。私もだ。彼は立派な男だ。この国になくてはならない高潔な王だ」


 プロクスは、バージニアの腕をぽんぽんと叩く。まるで小さい子にするように。


「シエルがまだあんなに幼いのに。成長をお見せできないの? 王は変わり果ててしまった。どうすればよいの? この間なんて、私が側にいるのに、夢うつつにあの女の名を呼ぶの。ひどいわ」


 バージニアはその時のことを思い出したのか、ぽろぽろと両目から涙を流した。


「月下の紅薔薇、可愛いバージニア」


 プロクスは立ち止まり、彼女の手を取ると、正面を向かせる。指先で涙をぬぐった。


「王妃よ。あなたはライラとシエルの母だろう。次代の王母になる。さぁ、凜と背筋を伸ばして。堂々として」


 言われて、バージニアは顔を少し赤くして背筋を伸ばした。


「……不安で仕方ないわ、プロクス」

「覚悟せねばならない。我々騎士団は、全力であなたと子供たちを支え、守ろう」


 プロクスは優しく言う。バージニアはプロクスの手をぎゅっと握りしめる。荒れたところのない、美しい指先と手入れされた爪。


「ありがとう、グラディウス侯」


 バージニアは言い、慌ててプロクスから手を話し、少し上目遣いに悪戯っぽく笑った。そして、自らの目の涙をぬぐう。そのまま軽く一礼し、東屋に戻った。その姿は、奔放な少女だった頃と変わらない。


 ふぅーっと側でため息をつかれ、プロクスは苦笑した。


「ウェールス」


 たしなめるように、プロクスは彼の名を呼ぶ。ウェールスはやれやれと一瞬肩を上げた。


「ライラがいなかったが、どこだ?」

「ルーナの木の下に。……王妃が側にいる時には、王女は王の側には行こうとしません」

「……騎士はちゃんと付けているだろうな?」

「選りすぐりの、忠実な者を。毎度かくれんぼになりますが」

「優秀な騎士の目をかいくぐるとは、才能がある」

「……閣下」


 今度は、ウェールスが困ったような声を出した。


「あなたはそうやって子供たちをすぐに甘やかす」

「私は全ての子供たちの守護者だからな」


 プロクスが視線をやった先には、女性の像があった。大人か子供かわからない、やわらかな表情。両手は肘の先から翼へと変じている。女神ハルディアの像だ。

 太古の女神はかつて体に美しい紋様を有し、その魔力によって翼を得て、自由に空を飛んでいたとされる。今では、遺跡にのみ翼を持つ姿が残る。


「王の庭に、なぜ女神像を?」


 急速に低くなったプロクスの声に、ウェールスははたと立ち止まる。


「王が、神殿への移動もままならないので、庭に置いてほしいと」

「そうか。王がそれで安寧を得られるならかまわん」

「……は」

「儀礼を除き、王宮に神官を入れるな。政治に決して関わらせてはならんぞ。民の平和と妖魔の侵入を阻む祈りを捧げるのが神官の役目だ」


 プロクスがそう言うのは今に始まったことではない。多くの神官と懇意にしているはずのプロクスだが、それとこれとは別らしい。


 ――昔、地方の公国で神官が王宮に入り込み、王を意のままに操ったということがあった。神官は自らの一族を国の中枢に招き、その特権を貪った。

 その結果、祈りはおろそかになり、結界ドームの管理も神殿兵の派遣もままならず、民は妖魔に怯える日々を過ごすこととなった。国境に増えた妖魔の始末に腹を立てた隣国が、軍を派遣し神官一族を殺害したことにより、事は収束したのだった。


「エーデルメタルの二の舞にはなるな。王宮を血で汚さぬように」


 滅びた不吉の国を例に出し、プロクスはそうやって周囲を戒める。それが、神殿と懇意にしている貴族や軍人の反感を買っているのを近衛騎士団長たるウェールスは知っている。


 高潔な騎士王プロクス=ハイキングを恐れ、疎ましく思っている者たちがいるのは確かだった。

 しかし、プロクスは忠告をやめることはなかった。


(若い者は特に閣下に舐めた態度を取る)


 ウェールスは苦々しく思いつつ、プロクスの言葉に頷いた。

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