第一章
第1話 白鷺の騎士
暗闇に、鳥が明るく燃える。
鳥は白く輝きながら火の粉を散らし、宙を滑るように飛ぶ。鋭く夜を切り裂くのは、剣のようなその翼。
鳥が駆け抜けていった後には、闇がざわりと動き出す。真昼の空を覆い夜に変えたのは、
彼らは常に群団となって移動し、巣の周りを一体となって旋回する。その羽音が幾重にも重なると、まるで砂嵐の中にいるかのよう。
その黒い渦を、鳥が一直線に突っ切っていく。蟲は音もなくばらばらに、地に落ちて逃げていった。逃げまどう蟲たちは、燃えさかる自らの巣を見て、風のように唸る。
彼らが土や生き物の死体で作り上げた巣。空からしか侵入できない難攻不落の塔。それが今や、あちこちから火の手が上がっている。黒煙が空を覆い、赤い炎がぬらぬらと動く。
鳥は、崩壊する城の頂上に静かに舞い降りた。
一度、深呼吸するように翼を伸ばし、――そして自らを包むように、内側へ。
再び翼が広がった時、現れたのは片膝をついた白い騎士。俯いたまま、ゆっくりと立ち上がる。
身につける甲冑は、騎士の高潔さを表すような白銀。鎧を縁取る飾りは、魔を払う銀。胸の左には、白い星を散らした聖木ルーナを、右にはスズランと鹿の紋様を刻む。
長い腰布がはためいて、騎士が顔を上げる。
見えているのかと不思議になる、細い切れ目があるだけの兜。表に無駄な装飾はなく、後頭部には周囲を威圧する魔物の顔が刻まれる。さらに水牛のような角が生え――鋭く尖った先は、静かに炎が燃えていた。
騎士は、静かに腰の大剣を抜く。その刃は、白の騎士の持ち物と思えぬほどの漆黒。柄から刃まで、全て同じ素材で鍛えられた鋼の剣。
人は、この剣を
『賭けますか?』
ふいに、涼やかな声が、響く。
『あなたが、ここから無事に脱出できるかどうか』
言われて、騎士は眼下を見る。巣から飛び去る蟲たちが雲のようになり、地上はまるで見えない。
『今まで、数千もの蟲の幼生から逃げ延びた者はおりませんよ。ここは
騎士は、右手を静かに上げる。
「――賭けよう」
『何を望むの?』
「休暇をよこせ」
低くよく響く声で、騎士は答える。
『――承認されたわ。プロクス=ハイキング、我が王よ。三十秒以内にここから脱出して』
それを聞くや否や、白鷺の騎士――プロクス=ハイキングは、そこから飛び降りた。背中で噴煙が上がる。
内側からの熱に耐えきれず、巣が破壊される。岩や細かい石があたりに飛び散った。
プロクスは、風を切りながらまっすぐ落ちていく。飛び去る蟲の合間を縫いながら。その内の一つの影に狙いを定めて、剣を振り下ろし――見事、縫い止めた。背中を貫かれた蟲は悲鳴を上げたが、逃げる速度は変わらない。
そうしてプロクス=ハイキングは、魔窟を脱出したのだった。
✧ ✧ ✧
プロクス=ハイキングが三代前の王から騎士王を拝命し、はや五十年。たくさんの妖魔を屠り、国を守り続けてきた。昔なら騎士たちを率いて戦ってきたものを、今はたった一人で仕事をこなす。
「良い風だ」
そう呟くプロクスの足下で、蟲は相変わらず「ギョォォ」と喚いている。
雲の切れ目から見知った村が見え、プロクスは蟲から剣を抜いてふわりと飛び降りた。その頭上で蟲が甲高い悲鳴を上げて、あっけなく砕け散った。他の蟲も同様に、手のひらで握りつぶされたかのように砕けてしまう。
まるで、見えない壁にぶつかったかのように――ではなく、実際に魔法の壁があった。
女神ハルディアの守りの壁、【
子供とその母の守護者たる女神は、このサンクトランティッド帝国において厚く信仰される、建国神話に登場する一人だ。
大戦後、国に侵入を続ける妖魔を阻むため、女神ハルディアが精霊と契約し、与えられたのが【
精霊は言った。【戦火】が燃え続ける限り、この国は守られると――。
【戦火】は各地の神殿に配置され、昼も夜も燃え続け、結界の力の源となった。
その一方で、結界の外である荒れ地は空白地帯と呼ばれ、異形の潜む土地となった。今では帝国から人は立ち入らず、また入るにも通行証が必要だ。
――そんな危険な森に、プロクスはまっすぐ落下する。空中で体勢を変え、ガツンと剣を突き立てて着地した。
プロクスが静かに立ち上がり、一歩踏み出すと、足の先から白い炎が上がった。それは全身をみるみる覆い、唐突に消える。
すると、現われたのは騎士の時よりも頭三つ分ほど小さくなった人物。
口と目をのぞき、頭のてっぺんまでくまなく覆う白い頭巾。白い簡素な服、袖は肘までの長さで、そこから見える白い肌には朝顔の蔦が這うような紋様が見える。それは螺鈿のように輝く。細い両手首には銀の輪が填められていた。
ぷはぁ、と――ふいに、可愛らしい声が響いた。彼女は、顔を覆う布を勢いよく引き上げて、ほんの少し顔をさらす。
そうして露わになる、天使のように愛らしい顔。
透き通るような肌、整った鼻梁、やわらかな口元。子供のようなあどけなさの残る、優しい顔立ち。年の頃なら、十八、九ぐらいに見える。弧を描く眉、長い飾りのような睫の下に、夏の夜のような青い瞳。光を透かさずとも、その不思議な眼は星を散りばめたよう。
「良い天気……あ、声が」
プロクスは咳き込みながら、自らの喉に手をやる。そこにはきらりと輝く円形の小さな魔方陣がある。
プロクスがあー、あ、あ、あー、と一人で発声練習をしていく内、高い声から低い男性のものへと変わる。ようやく納得の低さになると、プロクスは布を戻した。
彼女はとことこと歩いて、引っかけていた草色の膝丈のフード付きのローブを身に着け、短剣の長さに縮めた雷蹄をベルトに差す。そして、最後の仕上げに麦わら帽子を被る。
森を出て、伸びきった草の間を歩く。先ほどの戦闘が、嘘のような静かな土地。指先で、やわらかな青い葉に触れながら、プロクスはゆっくりと深呼吸する。
タッタ、と軽快な足音が近づいてきた。
道の向こうから、ロバがこちらに歩いてくる。あたたかそうな灰の毛並み、黒い鬣。目の前にやって来たロバは、差し出されたプロクスの手に自らの頭をすりつける。
「アシリータさん、今日もお迎えありがとう」
ロバのアシリータは、プロクスがここの領主である「グラディウス侯」となり、四十年目を記念して領民から贈られたものだ。領民たちは、侯爵を親しみ込めてこう呼ぶ。
――ロバの騎士様。
三代前の王の時代に起きた大規模な妖魔発生を食い止めた英雄。竜に跨がり敵と戦った勇壮なる騎士。
そう讃えられたプロクスは、王から望みの褒美を与えると言われ、大好きなロバを所望した。
もちろん、王はそれだけでなく、プロクスが暮らすための土地もくれた。まさしく余生に相応しい、静かな土地。
この穏やかな生活は、退官まで守らねばならない。
そのために、プロクスは不老のこの顔を、決して人前でさらしてはならないのだった。
プロクスはロバのアシリータと共にのんびり家路を行く。なだらかな斜面、その左右には畑。そして、その奥にある家も周囲は緑で満ちていた。赤茶の屋根のどこにでもあるような小さな家だったが、彼女はとてもここが気に入っていた。
「はい、お疲れ様でしたアシリータさん」
プロクスは家の隣にある馬小屋で、アシリータを解放した。アシリータがそのままお気に入りの干し草のベッドの上に座ると、プロクスも一緒に腰掛ける。
そのあたたかな背中に身を預け、プロクスはふふっと笑った。
「……賭けは、私の勝ちだ」
彼女は夢見ている。
翼を獲て、虹色の海を渡るのを。
そのために、たくさんの勝負に挑んできた。時には負けることもあったが、こうしてプロクスは生き残ってきた。老後は安泰、願いを叶えるのはもうすぐ。
だが、そうそう世の中うまくいかないものだ。
二週間後――。
プロクス=ハイキングは、冷たい牢の中にいた。
生臭い風が吹く薄暗い塔の中、真っ暗な底なしの場所に吊されて。鎖が揺れる空を見上げ、差し込む強烈な光に目を細める。
(どこで、私は選択を間違えた?)
彼女が「弟子」に囚われるまで、あともう少し――。
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