深い森の中で

 

 深い森の中で

 

 父と喧嘩した。きっかけは些細なことだ。僕の態度が気に入らないという。父は時に非常に理不尽なことで怒ることがある。気分屋な父が大嫌いだった。他の子たちはみんな親から愛されている。しかし、僕だけが違う。父は家族に当たり散らし、母はそれに黙って耐えるだけ。僕はかつて母が他の男と一緒に歩いているのを見て、深く失望した。母は母なりに幸せを見つけようとしているのだと自分に言い聞かせたが、裏切られたような気がして、それが余計に僕を物憂げな少年にした。僕は小さい頃から独りだった。公園の隅で砂遊びをしていた。みんなは僕を嫌っていた。僕もみんなが嫌いだった。他人から嫌われることにも慣れた。今では何とも思わない。強がりだと言われても何も感じない。そうだと言われればそうだろうし、そうではないと言われればそうではないのだろう。僕は毎日をただ何となく生きているに過ぎない。人生において大きなイベントがあっても、決して僕が真ん中に位置することはなく、常に主役を羨ましそうに眺めているだけの存在だ。

 

 頭の中で嫌いな奴を殺す。頭の中なら何をやっても自由だから。父も学校の連中もみんな頭の中で何度も殺した。それで我慢していた。

 

 この村には決して立ち入ってはならない森がある。村の大人は子供が入れば化け物に食べられてしまうと言って脅かした。そんなものは嘘に決まっている。何を馬鹿なことを言っているのだろう。僕は幼いながらにそう思っていた。化け物よりも現実の人間の方が遙かに悍ましいと思った。

 

 父と喧嘩して僕は逃げるように家を飛び出した。勿論行く宛なんてない。所詮は無力な子供だ。僕は走り続けた。村も飛び出した。月の下、畦道を駆け抜けた。蛙や虫の鳴き声がさらに心を掻き立てた。真っ暗な夜道をただ走り続けた。

 

 気がつくと僕は森の中にいた。いつ入ったのかもわからない。あるいは知らず知らずのうちに入ってしまったのかもしれない。

 

 深い森の中。

 辺りを見渡しても木々があるだけで他には何もない。僕は歩いた。北に向かっているのか南に向かっているのか。照っていた月も森の中に入った途端に光を失った。空を見ても木々が覆っていて、僅かな木の葉の隙間から見える空も真っ暗である。心を掻き立てるほど鳴いていた蛙や虫たちの声もない。森は死んだように静かだった。死んだように。

 

 どれだけ歩いても変わらない景色。ずっと同じ場所を歩いているような気がした。体力だけがただ消耗されていく。僕は疲れてしまって、その場に座り込んだ。

 父は心配しているだろうか。いや、心配などしていないだろう。いつになったら森から出られるのだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えていた時だった。

「……もう無駄よ」

 年上であろう女の声がして、思わず心臓が跳ね上がった。四方を見回しても声の主の姿は見えない。

 声はそう遠くないところから聞こえてきた。

「上よ」

 見上げると、木の上にその女はいた。太い枝から上半身をだらりと垂れている。よく見ると、蛇のような暗い色の長い胴が木の幹に巻き付いている。女は化け物だった。

 僕は後ずさった。

「そんなに驚かなくてもいいじゃない」

 そう妖しく笑う女。背中に冷たいものが走った。女は木の上からぬるりと下りてきた。

 上半身は白い着物を着た女の体だが、下半身は巨大な蛇だ。

 僕は疲れなど忘れて全速力で駆けた。後ろを振り返る余裕などなかった。でこぼこした道を何度も転んでは立ち上がって走り続けた。

 

 息が上がって、とうとう僕は立ち止まった。後ろを振り返るとあの女の姿はなかった。僕はすっかり安心してしまって、またも座り込んだ。深く腰を下ろした。

 そして一つ大きく息を吐いて、何気なく顔を上に向けた。すぐ目の前にあの女の顔があった。まるで小動物を眺めるような顔だ。僕は恐怖と嫌悪が混ざり合って、なかなか体が動かなかった。

 僕は再び走り出そうとしたが、できなかった。女の長い胴が体を締め上げた。力が吸われていくように抜けていった。

「もう鬼ごっこはおしまい」

「離せ!」

 振り解こうとしたが、力が出ない。女もより強く締め付けてきた。

「本っ当、可愛い子。迷い込んでくるなんて……。久しぶりなのよ」

 獲物でも捕まえたように嬉しそうな顔をしている。

「人間が迷い込んでくるなんて久しぶり。もう狂いそうなくらい待っていたの。貴方はもう逃げられない。ああ可哀想」

 細い指先で僕の鼻に触れる。

 次に僕の頬に、そして首筋。

 まるで人形を撫でるような優しい手つきで。

 

 ああ、僕はこれから食われるんだ────。

「……大丈夫。痛くしないからね」

 女はそう言って、僕の首筋に舌を当てた。ざらざらした生暖かい感触。長い舌が僕の首を這い回る。気持ち悪いが、逃げたくても逃げられない。

「……それじゃあ、いただきます」

 それが最後の言葉だった。

 女の言ったとおり、痛みはなかった。首筋に歯が当たったかと思うと、ズブリと食い込んでいった。血が滴り落ちていくのが見えた。少しずつ力が抜けていき、視界がぼやけていく。何もかも薄れていく。木々も地面も女の顔も。そしてついに何も見えなくなった。

 意識が薄れていくにつれ、僕は女と一体化していくような気がした。

 

 体という存在が消えて、意識も感覚も女の中に取り込まれていく。それがただただ暖かくて、もう何も考える必要がなくて──。

 

 終

 

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