バーの女
先代のマダムから店を受け継いでくれないかと話を持ち掛けられた時には驚いてしまって、本当に私なんかが店を切り盛りできるのか不安だった。馴染みの客は以前から多かった。
マダムとの付き合いは十年以上になる。マダムは私の親代わりだった。幼くして私は両親を事故で失った。他に頼れる親類がいなかった私は孤児院に送られることになった。孤独な生活から私を救ってくれたのがマダムだったのだ。マダムは時に厳しく時に優しい人だった。父であり母だった。
自分はもう年で持病のことがあるから若い私に店を譲りたいと告げられた。私としては今まで育ててくれた恩があるからマダムの頼みは断れなかった。
以前からマダムの手伝いで店には出ていたが、今度のことで今までマダムがやっていた仕事を一人で受け継ぐことになり、どっと忙しくなった。最初のうちは慣れないことも多かったが徐々にそつなくこなすようになっていった。余裕が生まれるとお手伝いの子を何人か雇ったりもした。おかげで店もだいぶ切り盛りできるようになった。
お店が軌道に乗り始めてしばらくしてから先代のマダムが亡くなった。マダムも私と同じで親類がいなかったから、葬式は私が出してやるしかなかった。葬式には多くの馴染みの客が訪れた。馴染みの客は職業や年齢は皆バラバラだったけど本当に良い人だった。サラリーマンや学生、警官に軍人。色んな人が駆けつけてマダムの死を悼んだ。
辛いだろうけど頑張ってくれ、頼れることがあるなら何でも言ってくれ。皆そう言ってくれた。
葬式の会場では涙が出なかった。火葬されて骨壺に入れられたマダムの骨を抱いても涙は出なかった。悲しいはずなのに、不思議なくらいに涙が出なかったのだ。
涙こそ出なかったが辛くて心に大きな風穴が開いたように感じた。こんな気持ちでお客様の相手などきっと無理だ。私はしばらく店を閉めた。正直いつ頃また店を開けるからわからなかった。
ただもうそんなことを考える余裕すらなかった。私のことを大切にしてくれた、ずっと見守ってくれた親代わりだった人が亡くなって、本当に孤独になってしまったんだと思うと悲しくて空しくて苦しい思いだった。
店を閉めていても私の元に訪れてくれた人がいた。
その人はまだ大学生だった。眼鏡をかけたひょろ長い軟弱そうな男で大学では歴史を専攻しているらしい。お酒なんか全く飲めない人で一、二杯飲むともう顔が真っ赤になってしまう。下戸なのに何でうちに来るのか一度聞いたことがある。彼は笑いながら貴女に会いに来ているんだと答えた。逞しいなんて言葉とは無縁だったけれど、とても優しい人だった。
「お店、また始めたら僕毎日行きますから。余りお酒は飲めないけど貴女と話していると楽しいから。すみません。こんな時何て言っていいのか自分でもわからないです」
その優しさだけで十分だと言うと彼はそれ以上何も言わなかった。本当はそこで抱き締めて欲しかった。でも臆病な彼はただ無言だった。
もう一人、私の元に訪れた馴染みの客がいた。その人は無学の徒ではあったけれど、親や家族思いの人だった。鳶職で生計を立てているだけあって体格は良く、明るくて冗談の言える面白い人だ。あの大学生の青年とは対照的だった。彼は何も言わないで私を抱き締めた。私は彼の胸の中で初めて泣いた。
「……大丈夫。俺がいるんで。何でも言って下さい」
泣き散らした後彼の大きな体に抱かれて私は本当に安心した気がした。
私を応援してくれる人の為にもここで泣いているだけでは駄目だと思った。後ろ盾を亡くしたバーを何とか切り盛りした。奮起した甲斐あって店は先代が生きていた頃よりも繁盛した。以前から馴染みだったお客が新しいお客を連れてきて、それがまた新しいお客を連れてくる。毎日店はお客で一杯になり、雇った他の子でも手一杯になってしまう。
お店をもっと広くしようかと真剣に考えていた頃、戦争が始まった。軍人のお客からもうすぐ大きな戦争が始まるかもしれないという噂を聞いていた私はまさかと思っていたが、ある朝ラジオから背戦争が始まったという話を聞くとついに現実のものとなってしまったかとただ漠然と恐ろしい気持ちになった。
男たちは兵士として戦地に赴くことになった。お客たちの多くにも赤紙が届いた。一人また一人、店にやってきては自分が戦地に征くことを告げて、マダムに会えなくなるのは辛いと泣き言を零す。
かの大学生の青年も戦地に赴くことになった。明日出征らしい。最後のお別れをしたいと店に来て最初に言った。
普段は余り飲まないで静かに話す彼が、今日は珍しく何杯も飲む。やがて顔が真っ赤になっていつになく饒舌になった。明らかに酔っていた。でも最後はいつになく真剣な面持ちになって酔いは抜けていた。
「僕は御国の為に死にに行って誇りであります。父母兄弟の為にも立派な男として華々しく散ってきます。ようやく何の取り柄もない僕が御国の為に役に立てる。僕は嬉しいんです。例え肉片となろうとも一人でも多くの敵兵を殺してきます。マダム、貴女にはお世話になりました。僕は死んできます。どうか、僕のことを忘れないでください。僕という人間がいたことを。ただ、それだけを」
彼はそれ以上言葉を継がなかった。私は彼の手を強く握った。今まで見たことないくらい気迫に満ちていた。怖いくらいに。優しかった彼からは想像もできないくらい変わってしまったと思った。
数日後、今度はかの体格の良い鳶職の男が来た。普段なら陽気な彼がこの日ばかりは顔を曇らせていた。言わずとも理由はわかった。私は何も言わないで、いつもの通り彼が頼む酒を差し出した。彼はいつもより飲まなかった。
「……マダム、俺兵隊に行くことになったんだ。今日仕事の仲間にも赤紙が届いたことを話した。皆頑張れとかしっかりやって来いと言うんだけど、正直俺戦争に行きたくない」
意外だった。彼からはもっと勇ましい言葉が聞けると思っていたから。
「……俺は死にたくない。俺が死んだら誰が家族を守るんだ? 誰が弟たちの面倒を見るんだ? 俺がいなくなって死んだことがわかれば家族はきっと悲しむ。俺は嫌なんだ。死んだら終わりじゃないか。確かに国の為に戦うことは立派だけど、死んだら守るべきものも守れないじゃないか。俺は死にたくない」
「生きて帰ってきてよ。また一緒にお酒飲んで、下らない冗談言い合って笑おうよ。まだ死ぬと決まった訳じゃないんだから」
慰めにもならない言葉をかけてやることしかできなかった。女の私にはどうすることもできないから。
「私待ってるから必ず帰ってきて」
「……わかった。俺、絶対帰ってくる」
彼は笑ったけど、その笑顔はいつもの陽気な笑みとは違ってどこか悲しいものだった。
戦争は激しさを増していった。ラジオからは優勢しか伝えられないが、本土が空襲されるようになると誰もが今戦況が最悪であると悟った。しかし、誰もそれを口にしない。店は何とか焼けずに済んだが、当分店は開けそうもなく財産を切り崩して何とか生活していた。バイトで来ていた子の中には家が焼けたり、家族が死んだりした者もいた。機銃掃射で命を落としてしまった子もいた。
早く戦争が終わって欲しい。そう心の中で願った。
そして、戦争は終わった。私たちの国が負けた。焼け野原となった街を見て私は絶望的な気分になった。店は何とか残ったが、商売ができるような状態ではなかった。でも、必ず帰ってくると約束したかつてのお客が何人もいた。その人たちの為にも立ち止まる訳にはいかない。進駐軍相手に酒を売り、かつてほどではないものの店も盛り上がってきた。
しかし、かつての馴染みの客は誰一人帰ってこなかった。
終
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