誰もいない丘
俺が小さかった頃はもっと違ったんだけどなぁ。
家族と一緒に山へハイキングに出かけた時、親父は突然そんなことを言った。山の中なのに虫がいない。俺が小さかった頃は夏休みには友達と虫取りに出かけたものだが、最近だと虫なんて殆ど見なくなった。父がそう嘆くと母は、あらいいじゃない、家に虫が出なくてと無関心そうに言った。父は納得できなさそうな顔をして、それ以上は何も言わなかった。
親父が死んでからもう十年経つ。あれから社会、世界、環境、何もかもが変わってしまった。
人間の数は減り、仕事は全て機械がするようになった。
誰もいない丘から僕は街を見下ろす。かつて活気のあったこの街も今では死んだように静かである。
人間は人間らしさを失った。人を思いやる心や優しさが消えて、機械のように単調な人間しかいなくなった。かつて存在した人情の面影などどこにもなかった。
機械化や産業化が進むことで生活が豊かになると誰もが信じていた。しかし、現実は非情にも真逆の方へと進んだ。機械が全てをこなすようになってから人間は何もできなくなってしまった。今まで人間が自分でやってきたことを全て機械任せにしたことで決断力を喪い、先人が築き上げてきた生活する術も喪った。人間は人間でなくなったのだ。
幼い子供は機械仕掛けの虫を追いかける。不自然な動きの動物や昆虫を見ては嬌声を上げる子供たちを僕は気の毒そうに見つめた。彼らは本物の動物や昆虫を知らないのである。機械仕掛けのそれらは僕には甚だ不気味だった。こんなものは生命ではない。人間が作ったものに過ぎない。そんなものを喜ぶなど人間のエゴに過ぎないではないか。虫も動物もいなくなったのは全て人間自身のせいだというのに。自分たちの生活の為だと言い訳して、今また模造品としての命を作り、自己満足に浸っている。
人は皆怠惰になり、利己的になった。己の欲求を満たす為だけに行動し、それを合理化して自制心がなくなった。機械は人間の生活を助けるだけでそれを戒めることなどできない。かつて人が人である為に打ち立てられた「自由」という崇高な思想が、今人間から人間性を取り払う為の口実に利用されているのだ。何という皮肉か! 利己的になって自制心を失うことは獣に堕することと同じであり、そこには人間性などは存在しない。
獣としての利己的な人間に機械としての単調さが加わった。人類は閉塞し、自分で自分の首を絞めている。
僕にも責任はあるのかもしれない。多くの人間がこうなると予想していなかった。一部の人間が警鐘を鳴らしても多くの人間がそれを無視した。
その結果が「今」だ。
もしもタイムマシーンがあったならば僕は昔に戻りたい。
美しい本当の自然を見てみたい。環境が死に絶えた世界になる前へ。
しかし、そんな願いも叶わない。
いずれ人間も死に絶えるだろう。無限に湧きあがる欲望を合理化して止めることをしない人類は、実に悲惨な死を遂げる。いや、もう破滅は始まっている。
街が活気を失ったのは、単に機械が人間の仕事を担うようになったからではない。人間の数が緩慢だが、着実に減り続けている。かつては子供連れで賑わっていたこの丘も今では人は誰もいない。時折こうやって訪れて街を見下ろしてみるが、やはり丘の上に人はいないのである。誰一人。
機械に全て任せるようになってから人間の数が減り始めた。かくも怠惰な人間はついに生物として種を残すということすらできなくなった。
芸術の世界でのみ描かれてきた退廃的な世界に変わった。かつて世界を蝕んだ憎しみの連鎖による地獄とは異なる怠惰故の不健康な世界である。
僕は周りの人々が機械的に感情を没落させ、動物的に欲望を満たそうとする様を見て、世界の真理が突き付けられたような気がした。人類は最初からこうなる運命であったのだと悟ったのである。豊かな生活を手に入れるという理想を追い求めても、それが実現されることはない。「今」に満足することは決してなく底なしの欲望や理想に囚われて、ついに退くに退けない所まで来てしまった。人類が最初から夢見てきた理想などはとっくに実現されていたのだ。だが、不幸にも人類はそのことに気づけなかった。それどころか更なる理想に向けてひたすら走り続けた。あらゆるものを犠牲にして。全て自分に跳ね返ってくるとも知らずに。
僕にはもう何もできない。僕が何かしたところで世界はもう変えることができない所まで壊れてしまった。環境は死に絶え、人類はそれを何とか保とうとしているが、所詮は延命活動に過ぎない。人間は直に死に絶えるだろう。自分たちで生み出した毒によって。
僕は毎日この誰もいない丘から人類が死んでいくのを見守り続けるつもりだ。機械仕掛けの虫や動物も人類が死に絶えれば動かなくなる。地上にはきっと何も残らない。
終
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます