短編集「供物」

武市真広

供物

 

 身寄りのない少年は生贄にされた。少年の母は彼を生んですぐに亡くなり、父も後を追うようにして病で死んでしまった。少年を育ててくれた祖母も彼が十五歳の時に死に、少年は孤独となった。

 

 身寄りのない子供が一人で生きるのは村という共同体の中では難しかった。

 ある夏の日の夕方。少年は村長に呼び出された。

 「……お前、歳は?」

 厳粛な面持ちの村長に、少年は何か不穏なものを察した。

 「十七です」

 「……そうか」

 村長は容易に口を開かない。しばしの沈黙が、少年を確信させた。

 

 唯一の身寄りだった祖父母が亡くなって孤独になった少年に、村の人々は冷たかった。少年は村の掟を破った訳ではない。しかし、貧しい上に身寄りもなく、また他者との交流も乏しい彼に友人らしい友人もいなかった。味方のいない彼は厄介者にされてしまったのだ。

 そして、村人間で厄介払いを兼ねて少年を生贄にすることが決められた。

 「お前には申し訳ないと思う。だが、誰かが行かねばならない。どうか生贄になってはくれまいか」

 少年はやはりかと思って、村長から視線を逸らした。

 そして、静かに答えた。

 「わかりました」

 どうせ断ることもできまい。そう思うと大仰に深々と頷く村長の態度が白々しく見えた。不愉快な気持ちを顔に出さないように少年は無表情を貫いた。

 

 どうせ皆、僕が消えることを喜んでいるんだ。

 

 少年は腹立たしいという気持ちより誰一人自分の味方をしてくれないことの方が悲しかった。

 

 生贄の話は以前から聞かされていた。少年が幼かった頃、祖母が話してくれた。山の神を鎮める為に五十年に一度、村から生贄が選ばれる。山の上にある洞窟の前に他の供物と共に生贄を捧げる。この話を聞いた時、幼い彼はまるで昔話を聞くような心持で、漠然と恐ろしいと感じた。まさか、自分がその生贄になるなんて。

 

 選ばれた以上は今更断ることもできない。だが、少年は嫌だとか逃げたいとは思わなかった。生贄にならなかったとしても、一生孤独を背負って生きていくことに変わりはない。ならばいっそ生贄になってしまった方がいい。来世はきっと今より良くなるだろうから。

 半ば自棄だった。

 

 生贄として捧げられる前日。

 村で宴が開かれた。

 生贄である少年に、村人たちは今までの冷たい態度を一転させて親しくしてきた。ある者は酒を勧め、ある者は賛辞を贈った。

 しかし、少年の気持ちは晴れない。白々しい村人たちの態度に憤った。お前らに俺の気持ちがわかるか。そう叫びたかった。

 少年は始終無表情を貫いた。笑えば負けだ、と思った。あからさまな村人たちへのせめてもの当てつけだった。

 酒が回った村人たちに宴はいよいよ盛り上がった。狂騒とする村人たちを見て、少年の心もいよいよ燃え上がるように怒った。日頃自分を冷たくした村人たちに怒りをぶつけたい。怒りを発露してはならぬと必死に抑え込んだ。

 

 鬱陶しい宴がやっと終わり、村長から明日の朝に迎えに行くことを告げられ、少年は家に帰った。

 誰もいない家も今日で最後だ。そう思っても何も感じなかった。祖母が最期に遺した「きっと良いことがあるから」という言葉を思い返すと、自分の人生の短さに溜息が出る思いだった。

「何も良いことなんてなかったじゃないか」

 少年は力なくそう呟くと、膝を抱えてそのまま眠ってしまった。

 

日が昇ると少年はいつものように目を覚ました。だが、今日はいつもと違って、農作業に行かなくていい。普段と違う一日の始まりにどこかむず痒いものを感じた。

昨日湧きあがった怒りも綺麗に消えていた。

夢は見なかった。せめて明るい夢でも見られれば良かったのに。

 そんなことを思いつつも村長たちが迎えに来るまでに支度を整えた。

 

 家の外に出てみると、村は普段とは違った様相を呈していた。朝の村は普段なら村人たちで賑わっているのに、今日は静まり返って人っ子一人いない。

 改めて今日が特別な日であると感じた。だが、それも今日だけ。今日が過ぎれば、また村はいつものように平穏な日々を送る。ただ自分が消えるだけ。少年は自分一人の死に大きな意味などないのだと気づいた。

 

 なんと馬鹿馬鹿しき人生か!

 

 少年は自分を嘲るように少し笑った。

 

 村長と村の若者が少年を迎えに来たのはそれからすぐのことだった。事前に決められていた通りの面子だ。村長の他にも村の重役たちの顔が揃っていた。

 

少年はもう何も心残りはなかった。いや、はなからこの世に残してきたものなど何もない。ようやくこの陰惨な村から離れられる。そう思うとこれから自分が死ぬことに清々しい気持ちがした。

 

 村長たちに連れられて家を後にした。もう戻ってくることもない。遠のいていく家を見ながら少年は祖母との思い出を偲んでいた。あの家は自分が死んだ後どうなるのだろう。そんなことを考えても仕方ないのに、少年は頭の中で何度もそんなことを考えていた。

 

 山の上にある洞窟へは歩いて数時間ほどかかる。整地された山道を外れてから人も殆ど立ち入らないような獣道を進む。注意して歩かなければ草叢に潜む蛇やらに噛まれることもあり、生贄である少年が傷ついてしまう訳にはいかないので、村長を始め付き添いの村人たちは用心しながら彼を守るように歩いた。

 

 そうこうしているうちに日は高く上り、強い日差しに額から汗が噴き出した。

 

 数時間の道のりは厳しいものだった。少年自身は何ともなかったが、藪から出てきた蛇に足を噛まれた村人もいた。

 少年は日の光に汗をかきつつも周りに広がる自然の世界に改めて感じ入っていた。普段から田を耕したり、山菜を採ったりと自然と身近な付き合いはあった。しかし、今日は特別である。生贄という大任を背負う少年にはいつも傍にあった自然が違って見えたのである。

人間に対して過酷な試練を課す大自然。生あるものの全てが還る場所だ。少年はそんな自然を母のように感じた。

 

 ようやく洞窟の前に辿り着いた。日の光が届かない洞窟の奥は真っ暗で肌寒い空気が流れてきた。

 少年は背筋に冷たいものが走るのを感じた。そして直観的に暗闇の奥に何かいると思った。それは人の気配というよりか何か言い知れぬ大きなものがいるという漠然とした予感だった。

 

 生贄の儀式が厳粛な空気の中で執り行われた。儀式と言っても暗闇の向こうにいるという神に向かって村長が古くから伝わるという村の経典を詠み、生贄の少年と酒やら食べ物やらの供物を並べるだけだ。

 「役目を果たせ」

 村長はそれだけ言い残すと付き添いの村人たち数人を連れて、山を下って行った。

 少年は恭しく頭を下げると、それっきり去っていく村長を見送ることはなかった。

 少年は正座しながら暗闇を見つめる。

 深い闇から涼やかな空気が流れる。少年は飲み込まれそうに感じた。

 

 これから一体どうなるのだろう。少年は疑問に感じた。生贄に捧げられたのはいいが、自分がこれからどうなるのか?

 神なんて本当にいるのかも疑問だった。

 もし本当に神がいるならば、どうして自分を救ってくれなかったのか。なぜ自分だけが孤独なのか。悔しい気持ちや恨めしい気持ちが混ざって心が重くなるのを感じた。

 

 いっそここから逃げてしまおうか。そんなことすら考えた。村長は役目を果たせと言ったが、厄介払いを兼ねて自分を追い出した村長の言葉を聞く必要もなかろう。ここにある食べ物や酒を持って逃げてしまおう。

 しかし、少年はそれをしなかった。逃げることが許されないことのように感じたからだ。生贄の役目から逃げることは運命に抗うというより己の運命から逃げることのように感じられた。

 このまま自分の命が尽きるまで待ち続けることこそが運命と戦うことのように思えた。

 

 日も少しずつ傾き、少年の背後にあった昼の明るさも消えていった。日が暮れると夜の世界が訪れた。背後で夕日の光が消えるその瞬間、少年は自分が間もなく死ぬなと思った。死への予感は以前からあったが、その時少年は死が目前に迫りつつあることを悟った。

 

 そして夜になった。日が沈んでからは洞窟の奥から流れてくる空気がより一層冷たく感じた。

 

 少年は目を瞑って死が自分に止めを刺す瞬間を待ち続けた。しかし、死はなかなか来ない。頭の中で雑念を打ち消し、もう何も未練はないと考えた。事実少年に心残りはない。だが、いつ死が訪れるのか、それはどういった形で自分の前に現れるのか。そんなことが思考を占めるようになっていた。


死を受け入れる覚悟も曖昧な少年もついに集中力が途切れ、眠りに落ちてしまった。

 少年は夢を見た。真っ暗な世界でどこからともなく女の声が聞こえる。少年はその女の声が母親の声だと思った。勿論少年は母親の声など覚えてはいない。直観的にそう感じたのだ。優しい声だ。自という存在を包んでくれるような優しさ。少年は無条件に自分の身を委ねたいと思った。そして少年が真っ暗闇に向かって手を差し出した時、夢が醒めた。

 

 茶色の天井がまず視界に入った。見たところ和室のようだ。少年は布団に寝かされていた。身を起こすと、彼は辺りを見回した。見覚えのない部屋だ。枕元にある燭台が部屋を照らしている。部屋はそれなりに広く、光の行き届かない箇所は仄暗い。

 なぜ自分がこんな所にいるのか。少年はさっぱりわからなかった。あのまま眠ってしまい、気が付けばここにいた。夢の中で自分は母親の声を聞いた。あれは一体何だったのか。

 

 そんなことを考えていたら襖がゆっくりと開いた。背の高い上品そうな女が入ってきた。少年は思わず身を引き締めた。

 白い着物には華の模様が入っており、長い黒髪が対照的に映った。少年は綺麗な人だと思って目を伏せた。自分のような卑しい人間が気安く触れてはいけない人だと思った。

 

 女は少年の近くに寄って来て座った。少年は自分の心臓が高鳴るのを感じた。女は少年を見つめたまま何も言わない。

 少年は訝しく思ったが、目を合わせられないでたじろいでいた。

 そんな少年を見て女は何を思ったのか、女はそっと少年を抱きしめた。少年は困惑した。だが、振り払おうとはしなかった。まるで母親に抱かれているような、そんな温かさを感じて何もできなかった。ずっとこうしていたい。少年は全身の力が抜けるのを感じた。全身を包む安心感は「母親」の腕の中に抱かれている時のそれと同じだった。少年にとって母親の記憶は極めて薄かったが、この安心感が母親というものの愛情による温かさであると直覚した。

少年は泣きじゃくりたい衝動に駆られて、女の胸に顔を埋めた。

女はそっと少年の頭を撫でた。少年は微かに息を漏らして、静かに泣いた。この人になら自分の弱い所を全て包み隠さず打ち明けることができる。堰を切ったように少年は心の中に溜め込んでいた全てを吐き出した。

 女は何も言わず、少年を包み込むように抱きしめ続け、彼の告白に静かに耳を傾けていた。

 少年は告白を終えて言葉が尽き、再び泣き続けた。

 

 やがて女はゆっくりと話し始めた。

 「……大変だったのね。辛かったでしょう」

 初めて女の声を聞いた少年はその優しい言葉に何度も頷いた。

 「だから、今甘えなさい。今まで甘えて来られなかった分まで」

 少年は自分の身体が軽くなったことを感じた。今まで背負っていた重荷が消えていくようだった。

 

 少年の身体は消えかかっていた。

 「もうお休み」

 女――山の神に抱かれて少年は目を閉じた。もうこのままずっとこうしていたい。彼の力も思考も全て止まった。

 

 そして目覚めることのない眠りへと落ちていった。

 

 神は悲しく微笑んだ。

 

 少年はもうそこにはいなかった。

 

 終

 

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