死
ああ、どうしてこうなってしまったのだろう。全部自分のせいだ。家族は皆死んでしまったというのに、自分だけがのうのうと生きている。それが許せない。自分一人だけが生きたいなんて思わない。けど、自分から命を絶つ勇気もない。何度も死のうとしたけど死ねなかった。死を直前にしたらどうしても怖くなってしまうのだ。臆病者と笑われるだろうが、僕は自分自身を殺すことができなかった。生きる希望もない。死ぬ勇気もない。だから僕は神に殺される道を選んだ。自分で自分を痛めつけるのではなく、自然に命が潰えるのを待つことにしたのだ。
空は青く、不揃いな雲が所々浮かんでいる。蝉の鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。日差しが強くて、汗が吹き出る。ハンカチで汗を拭った。持ち物は薄汚れたハンカチ、一銭も入っていないぼろぼろの財布、そして壊れかけている腕時計の三つだけだ。ハンカチは父が誕生日にくれた物で、財布は母が二十歳を迎えた僕にプレゼントしてくれた。腕時計は祖父からの贈り物だ。時計は辛うじて動いているが、修理にも出せずにいたのでいつ壊れてもおかしくない。けど、今もこうやって僕に正確な時間を示してくれている。だが、もうそれもどうだっていいことだ。時間なんてもうどうでもいいのだから。
僕は今、人生を終えるためにある場所へと向かっている。死ぬならあの場所と決めていた。
都心からかなり離れた樹海。昔は家族でキャンプしによく来たっけ。最後に訪れたのはもう何年も前のことで、詳しい道はよく覚えていない。
森の入り口を探す。歩くことしばし、ようやく入り口を示す看板を見つけた。森の入り口から奥を見る。薄暗くて、よく見えないが昔訪れた時とは雰囲気が違うように感じた。いや、昔もこんな感じだったのかもしれない。しばらく来ないうちに僕の見え方が変わったのだろう。しばらく遊歩道を歩くが、やはり昔家族で来たときのことは思い出せない。歩くこと数十分、周囲に人がいないことを確認し、僕は遊歩道から林道に出た。林道に入る手前に、自殺者への呼びかけが書かれた看板があった。「一人で悩まず周囲に相談を」。相談できる友人など誰もいない。僕はずっと独りだった。もうどうしようもできないんんだ。僕はそう呟くとゆっくりとした足取りで林道へと歩いていった。
遊歩道から数百メートルも歩けば、周囲はただの木々ばかりで同じような景色にしか見えなくなった。今更引き返すことなんてできないだろうし、そのつもりもない。これからどうしようかなんてことも考えていない。ただただ歩くだけ。そうすればいつか僕の命はなくなる。
何時間も歩き、そろそろ日が傾いてきた。夕日が木々の間から差し込む。夜になれば、森は完全に暗闇に包まれ、足下もきっと見えなくなるだろう。それでも僕は歩き続けるしかない。この広い森には僕だけしかいない。僕は独りだ。
ついに日は落ち、夜になった。薄墨色の空にはまだ月はかかっていない。昼間でも薄暗かった森は夜になるとより暗くなり、陰鬱さを増していた。
空腹という感覚を感じてはいたが、意識には留めなかった。空腹はまだ我慢することができた。だが喉の乾きだけはどうにも抑えることができない。自ら死を求めておきながら、喉の乾きを癒したいと心のどこかで思った。「生」への執着なのだろうか。喉が乾けば乾くほど、「死」へと確実に近づいていくというのに。宛もなくただただ広く深い森を歩き続ける。地面は平坦になったかと思えば、急に足場が悪くなったりする。それでも歩みを止めない。歩き続けることが、僕の人生を終わらせることになるのだ。きっとそうだ。自分に言い聞かせ、死ぬために歩く。
もう何時間歩いたかわからない。歩く早さは森に入った時と違って、かなり遅くなっていた。耳に入ってくるのは、ざくざくと草を踏む自分の足音と虫の鳴き声だけ。疲れているのかすら認識できなくなり、視界が少しずつぼやけてきた。ついに僕の足は止まり、糸が切れた人形のようにその場に倒れ込んだ。冷たい土と草の感覚が頬を伝う。ついに死ぬのか。そう覚悟したその時だった。ぼんやりと誰かの白い足が見えた。足の主の顔を見ようとしたが、体全体に力が入らずそれはかなわない。まるで眠るように。僕も意識は深く沈んでいった。
真っ暗な世界に僕一人。誰もいない暗闇の世界。必死に足を動かしても、前に進んでいるのかわからない。いや、地面すら存在せず、足をついているのかすら認識できないと言うべきだろう。何もない無の世界。水なんてないはずなのに、急に溺れるように息が苦しくなってきた。嫌だ。死にたくない。苦しいの嫌だ。だがどんどん息ができなくなり、意識が少しずつ離れていき、僕は「死んだ」。
川のせせらぎが聞こえる。瞼の隙間から僅かな光が見えた。
意識を失う前と違い、感覚ははっきりとしていて、体は軽かった。さっき見たのはただの夢だったのか。怖い夢だった。死ぬとはああいうものなのか。考えていたよりも恐ろしいものだった。死ぬのは一瞬で、死ねば楽になると思っていたけど、ずっと苦しいのだな。
……後頭部の感触からして、誰かに膝枕してもらっているらしい。どうすればいいのかわからず、とりあえずゆっくりと目を開ける。
見知らぬ女の人の顔が目の前にあった。顔は色白で整っていて、とても綺麗な女の人だ。年は僕よりも上だろうか。どうやら森の中のようだが、僕が死ぬために入った森とは何だか違う感じがした。全体的に明るくて、気持ちがいい。
どうして僕はこんな人に膝枕してもらっているのか。
「やっと起きたね」
こちらの顔を見つめ、女の人は言った。
「あの、あなたは?」
僕はそう尋ねるしかなかった。他に言葉が浮かばなかった。
「私は、ここの守り神と言ったところかな」
女の人は優しい声でそう答える。
ここが死後の世界か。思っていたより明るくて、気持ちの良い場所だな。何というか包まれるような感じがする。母に抱かれるような、懐かしい感覚だ。
「あなた、死にかけていたの。森の中で倒れていて」
死にかけていたという言葉から、ここは死後の世界ではないのだろう。この人、倒れていた僕をわざわざ担いできたのか。
「あの、ここは?」
「ここは、そうね、生と死の間にある世界。生死の瀬戸際に立たされて、彷徨う者が来る場所なの」
「じゃあ、僕はまだ死んでいない?」
「そうなるわね」
途端に、心が萎えるのを感じた。
結局、僕は死ねなかったのか。最後まで僕は中途半端なままだ。いつも僕は何も出来ず、ただただ流されるばかり。自分から何かをしようと踏み出しても、悉く失敗してしまった。そしてついには仕事を、家族を、家を失った。僕は何を間違ってしまったのか。今にして思えば間違いしかなかったようにも感じる。僕の人生とは一体何だったのか。
答えのない問いが堂々巡りして、何も言葉が出ない。
「あなたはどうして命を絶とうとしたの?」
不意に女の人はそう尋ねてきた。あまりに突然で不本意な質問に、少し戸惑ってしまい、答えに詰まってしまった。
どうして死のうとしたのか。自分でもわからない。確たる理由はない。ただ何となく、これ以上生きていても仕方ないと思ったからだ。それに、死んだ家族のところに行ける。そうとも思ったからだ。
「生きていても良いことなんてないから」
細々とした声で僕はそう答えた。
「そう」
女の人はただ一言そう答えて、それ以上はなにも言わずに僕の頭を撫でだした。
心に跋扈していた負の感情が少しずつ消えていった。不思議だ。この人の白い腕に撫でられていると、妙に落ち着く。癒されるというのが適切だろうか。
「命は大切にしなさい」
優しい口調で諭すように女の人は言った。
母のような、大いなる包み込むような存在。そう強く感じさせるこの女性は、僕という一人の人間に対してそう忠告してくれている。命を大切にせよ、と。
そう言われて、僕は初めて気づいた。僕はただ逃げていたんだって。嫌なことから全部逃避していただけだって。家族が死んで、家がなくなり、仕事を失って、そして全てから逃げていたんだ。僕は何と恥ずべき人間なのだろうか。そう思うと、自分がとても情けないように思えてきて、自然と目の奥から涙が溢れてくるのを止められずにはいられなかった。
「いいのよ、泣きなさい。思う存分」
僕は思いっきり泣いた。それこそ今までにないほど泣いた。家族の死、家や仕事の喪失など、今までの不幸な出来事への悲しいといった感情が涙として表面化した。
僕の過去を察してくれたのか、女の人は慰めの言葉をかけてくれた。
「ここまでよく頑張ったわね」
「ええ、あれは仕方ないことだったわ」
わかっている。いくら仕方ないことだったとはいえ、僕は自分で「死」を選んだのだ。嫌なことから逃げるために。この世から逃げようとしたのだ。
そう思うと、ますまず恥ずかしく思えてきた。
僕は慰めてくれる女性の言葉を、手で遮って言った。
「全部僕が悪いんです。僕は死のうとした。嫌なことから逃げようとしたんだ。僕は恥ずべき人間です。僕は一体どうなるんですか?」
神に縋るように、声を絞り出して僕は言った。
「……どうなるか、私にもわからない。私は生も死も司っているわけじゃないから、どうすることもできない。全てはあなたが選ぶことよ。私にできるのは、あなたをどちらかの道に送り届けることだけだから」
あなたが選ぶこと。その言葉を何度も繰り返し、心の中で反芻する。
今更選ぶことができるのだろうか。僕にその権利があるのだろうか。全てを投げ捨て、死に逃げようとした自分に。僕はわからなくなった。選ぶとしても、僕はどちらを選ぶべきなのか。さっき夢で見たのが死だとしたら、それはとてつもなく苦しいことなのだろう。だが生きるという選択をしても、またあの救いようのない生活に戻るだけなのだ。生きるにしろ、死ぬにしろ、苦しいのだ。苦しみから逃れたいが為に、こうやって死のうとしたが、僕はますますどうするべきなのかわからなくなってしまった。もうどうでもいいのだと投げやりに考えていたさっきまでとは違う。自分には選択肢があると言われ、どちらにすべきか迷っている。それが大きな変化だろう。
数分が経ち、僕の心にある考えが浮かんできた。果たして、本当に選択肢があるのだろうかと。ここは生と死の狭間であると女の人は言っていたが、それは全て僕が見ている幻で、本当はまだ自分は生きていて、生に対してしがみつこうとして、脳がそういった幻覚を作り出しているに過ぎないのではないか。そんな気が起きてきた。僕はこんな女の人は知らないし、こんな場所も知らない。だが勝手に脳が見せている幻覚だと否定するには証拠が足りない。
生と死の選択肢はいつの間にか、目の前に広がる世界への懐疑へと変わっていた。
ふと我に帰り、自分が今何を選ばなくてはならないか立ち返った。
例えこれが幻覚だとしても、僕は選択しなくてはならない。生か死か。
生きてやり直すことができるのだろうか。死んだあとはどうなるのだろうか。
「もし選択しなかったら、どうなるんです?」
「答えないなら、あなたは一生このままよ」
そう聞いて、それも悪くないと思った。こうやって癒されるまま永遠に時が過ぎるのも悪くないと。辛いこともない幸せな世界だ。
でも、選択を迫られて、答えないのは狡いと思った。余計に自分が情けなく感じられるような気がして。
生きるか死ぬか。どちらにも希望は感じられない。前向きな気持ちになれないのだ。
自分は何か生きたことの証を残しただろうか。誰かの記憶に残っただろうか。いや、何にも残していない。何一つ。
最初から死ぬために森に入ったんだ。今更引き返せない。それに、死ぬことに未練なんかない。ここで、死ぬことへ一歩踏み出さなければ。勇気を振り絞って。自然に命が潰えるのを待つのではなく、自分から。
「もう思い残すことはありません。僕はもう」
そう言い掛けると、女の人はただ少し頷き、僕の言葉を制止した。
「わかった。それがあなたが選んだ道なのね」
今度は僕が頷いて答えた。
本当にこれで良かったのかな。一瞬そう思ったが、すぐにこれで良かったのだと自分に言い聞かせた。まだ生にしがみつくのか。お前も男なら、覚悟を決めろ。
そして僕は何も考えないことにした。考えなければ、迷うこともない。
僕は女の人に連れられ、森の中を歩いた。奥に行くに連れて、少しずつ森は薄暗くなっていき、死ぬために入ったあの森と同じような、陰鬱な感じがしてきた。
女の人は立ち止まったりすることなく、僕の前を一定の速度で歩き続けた。顔が薄暗くて見えにくいからか、何だか少し怖く感じた。無言のまま後をついていく。
程なくして、女の人が立ち止まった。前方には大きな洞窟があった。中は真っ暗で何も見えない。
「ここがあの世の入り口」
女の人は、無機物な声でそう言った。
微かに身震いした。優しかった女の人が、一気に怖い人に感じられた。恐怖という言葉が適切なのかわからないが、何とも言えない威圧的な感じがした。
「本当に良いのね?」
「はい」
僕は強くそう答えた。
「そう。あなたと話せて良かったわ。ごめんなさい。私にできるのはこれくらいだから。ここから先は一緒に行けない。あなた一人が行くのよ。生まれ変わったら、今度はましな人生だと思う。だから気を落とさないで頑張って」
最後の励ましの言葉に、僕はまた泣きそうになったが、堪えた。
「ありがとうございました」
一言そうお礼をして、僕は洞窟の先を見た。真っ暗で何も見えない。どこまでも闇が続いている。
真っ暗なこの先に、死が待っている。僕はそれに向かって、歩みを進めた。
もう振り返らない。
僕は死に向かって、歩き出した。
この先に待っているであろう死を受け入れる覚悟はできた。だから死よ、今しばらく待っていろ。
終
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