屋敷

 

 

 蝉の鳴き声が至る所から聞こえる。

 

 どうして、俺はまた戻ってきたのだろう。

 実家を目の前にして、そう思った。

 もう二度と、ここには帰ってこない気でいたのに。 

 

 意を決して、チャイムを鳴らす。

 しばらくして、母の声がインターホン越しに返ってきた。

 「俺だよ」

 母は驚いたように、「すぐ開けるわ」と言って、すぐさま玄関の扉を開け、出迎えてくれた。

 久しぶりに会う母は、少しばかり老けたように感じた。

 年を取ったということもだが、顔に深く刻まれた皺を見ると、俺のことでかなり心痛していたことが伝わってくる。

 それもそうだろうな。両親には本当に申し訳ないことをした。

 

 それも全て、十五年前のあの日からだ。

 

 子供にありきたりな冒険心から、誰もいない「屋敷」に忍び込んだあの日。あそこで何があったのか、思いだそうとしてもどうしても思い出せない。ただ覚えているのは、言葉にできないほどの恐怖と女の声だけ。なんと言っていたのかはわからなかったけど、女の声だったことは確かだ。

 

 あの日何があったのかを知るために、もう一度俺はあの「屋敷」に行く。

 怖くないというと嘘になるが、今日ここであの日を記憶と向き合って、克服できれば、もう二度と苦しむことはなくなる。

 

 母がお茶を入れてくれている間、父と話した。

 「お前がここに戻ってくるとは思いもしなかったよ」

 「うん。俺も帰らないつもりだった。でも、あの日のこととちゃんと向き合わないとって思ったんだ。だから、あの屋敷の鍵を貸してくれ」

 父は驚いた表情を浮かべ、「本当に良いのか?」と聞き返してきた。

 覚悟はできていた。

 「ああ」

 父もそれを察してくれたらしく、鍵を探しに席を立った。

 程なくして、母が麦茶を持ってきてくれた。

 「ありがとう」

 コップに入った麦茶を一口飲む。外は蒸し暑くて、背中が汗で蒸れていた。

 「母さん、俺あの屋敷に行くよ」

 これ以上心配させたくなかったから、黙っておこうと思っていたが、やはり打ち明けることにした。遅かれ早かれ知られることだ。

 「大丈夫なの?」

 俺は黙って頷いた。

 「……そう」

 心配そうな顔をする母。俺も黙り込む。

 しばらくして、鍵を取りに行った父が戻ってきた。

 「これだ」

 静かにそう言って古びた一つの鍵をテーブルの上に置いた。

 手に取って、それを眺める。

 「本当に大丈夫なのか」

 再度父が確かめてくる。

 「うん」

 ここまで来た以上、行くしかない。

 

 

 屋敷へは一人で行くことにした。

 両親は途中まで俺を見送り、引き返していった。遠くなっていく二人の姿に、本当に一人で大丈夫かなとまるで子供のような不安がわき上がってきた。

 だが、俺はもう子供じゃない。そう自分に言い聞かせて、屋敷への道を歩く。

 日差しは強く、蝉の鳴き声は一層盛んになった。

 

 屋敷。

 地主だった俺の曾祖父が持っていた土地を、ある商人が買い取り、そこに建てたのがあの屋敷だ。その商人が謎の病気で死に、跡取りもいなかったことから、祖父が再びその土地を買い戻したのだが、屋敷は取り壊されず、そのままの状態で何十年も経ち、今では荒れ放題になっていた。

 

 俺がまだ小学生だった頃、ずっと気になっていた屋敷に冒険心から一人でこっそりと入ろうと思い立った。屋敷を遠くから眺めることはあっても、中を見せてもらったことはなく、どうなっているのかどうしても気になった。うちの土地だし、誰もいないだろうし、大丈夫だろうと考えた俺は夏休みのある日、友達の家に遊びにいくふりをして家を出た。両親からは近寄ってはならないと言われていたが、幼い自分には両親のそんな忠告がより興味を掻き立てたのだ。

 塀を越えて、大きな玄関から中に入ったことまでは覚えている。

 だが、それから何があったのか、そこの記憶だけが抜け落ちているのだ。

 屋敷を目の前にして、もう一度思い出そうとするが、やはりどうしても思い出せない。

 

 父からもらった鍵で門を開け、いよいよ屋敷に入る。この屋敷を建てたという商人はよほどの金持ちだったのだろう。今見てもかなり大きいと思う。

 がらがらと玄関の扉を開ける。

 外は明るいのに、光が入らないのか、中はかなり暗い。 

 当然、電気など通ってはいないから、持ってきた懐中電灯だけが頼りだ。

 やはり建てられて何十年も経つからか、ずいぶんとぼろぼろになっている。木製の床は腐食し、抜け落ちていて、歩く度にみしみしと音をたてる。壁にもいくつもの穴が開いて、天井には蜘蛛の巣ができている。埃っぽくて、お世辞でも居心地が良い場所とは言えない。トラウマを受けた場所というのもあるからか。少し気分が悪くなる。

 

 台所や居間、物置に書斎など、しばらく屋敷の中を歩き回るが、やはり何も思い出せない。

 二十分ほど歩き回り、もう帰ろうかと玄関に向かおうとしていた時だ。

 まだ入っていない部屋を見つけた。他の部屋と同じく、ぼろぼろの襖なのだが、なぜだろうか、嫌な感じがした。だが、あの日のことを思い出すためにも、入らないわけにもいかない。ゆっくりと襖を開ける。

 真っ黒な空間に懐中電灯を向けてみるが、果てしなく続く闇は光ですら照らすことができない。足下に注意しつつ、歩みを進める。

 

 数歩歩いたところで突然、懐中電灯の光が明滅し始めた。電池切れか。懐中電灯を少し叩いてみるが、ついに光は途切れた。明かりがなくなり、何も見えない。予備の電池もなかったから、どうにかして出るしかない。

 引き返そうと襖に手をかける。

 しかし、開かない。力を入れてみても、開かない。

 「なんでだよ!?」

 思いっきり蹴飛ばしてみるが、びくともしない。まるで俺が出るのを阻むかのように、襖は堅く閉ざされていた。

 

 「もう逃げられないよ」

 すぐ後ろでそう声がした。

 振り返るが何も見えない。

 誰かいる。この部屋に。

 「今度こそ逃がさない」

 耳元で囁かれるようにして聞こえた。

 この声だ。俺が十五年前に聞いた声は。

 

 不意に腕を掴まれ、床に押し倒された。身動きができない。誰かが俺を押さえつけているのだ。

 「私を覚えてる?」

 暗闇に目を凝らす。女の顔が目の前にあった。互いの息がかかりそうなくらい近い。

 冷たい手と血色の薄い顔。直感的に死人の顔だとわかった。

 こいつは生きた人間じゃない。

 そんな冷静な分析をしていても、状況は変わらない。力を入れても身動きができず、どうすればいいかわからない。

 「君は十五年前とほとんど変わらないね」

 薄ら笑いを浮かべる女。

 

 その瞬間、俺は全てを思い出した。あの日、何があったのかを。

 そうだ。俺はあの日も、この部屋に入ったんだ。何も知らずに。そして、あの時もこうやって閉じこめられて、この女に迫られたんだ。俺は何とか逃げ出して、急いで両親のところに戻った。全て、思い出した。

 

 記憶が戻るのと同時に、酷い頭痛が俺を襲い、思わず顔をしかめてしまった。

 「また戻ってきてくれるなんて」

 どうして俺は、戻ってきてしまったのだろう。

 何で俺は……。何で。

 「お前は、何なんだ?」

 あの日見た時と変わらない姿形。あの時と全て同じ。

 「ずっと待ってたのよ。また君が来てくれるのを。死んでから随分経つけど、やっと理想の人と出会えたの」

 意味がわからない。だが、唯一わかったことは、こいつはもうこの世の人間ではないということだ。

 頭痛がより酷くなった。頭が割れそうなくらい痛くなる。少しずつ視界が歪み、呼吸が荒くなる。

 女はぶつぶつと何か言っていたようだが、あまりの痛さに内容が入ってこない。

 「あの時も、こうやって近くで話したよね。覚えてる?」

 ああ。覚えてるさ。忘れられない傷として。今までの人生で、俺の鎖として。

 憎しみのような感情が湧き上がってきた。頭痛に顔を歪ませながらも、鋭い目で女を睨む。

 「まだ混乱してるのかな。顔、怖いよ?」

 俺の気持ちも知らないで。この女は、今も笑ってる。

 言葉で言い表せないような濁った感情。混ざり合う意識。

 不意に唇に冷たい感触がした。

 「君の体温感じるよ」

 次の瞬間頭の中がびりびりと電流が流れるように痺れた。そして、頭の痛みが言葉に言い表せないような快楽に変わった。 

 女は再び俺に口づけした。今度は長く、そして深く。

 痺れはより強くなる。意識が剥がれていく。

 

 ……もう何も考えられない。

 

 この女に立ち向かうこともできず、こうやって少しずつ意識を削がれ、体を浸食されていくのか。

 

 「今度こそ離さないよ。もう二度と」

 ぎゅっと抱きしめられた。

 じわりじわりとこの女に浸食されていく。もう抵抗はできない。このまま落ちていくしかないのだ。

 

 少しずつ少しずつ、俺の意識が落ちていき、唯一残った全身の感覚だけが、肉体が何かに取り込まれていくのを感じさせた。

 

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