短編集「彼岸」

武市真広

彼岸

 

 僕の恋人の木村結衣が、交通事故に遭ったと、彼女の母親から伝えられたのは、ほんの十分前のことだ。

 僕は急いでバイトを早退し、マウンテンバイクで搬送先の病院へ駆けた。

 必死にこぐ。一刻も早く、彼女の傍へ行きたい。そう心から願い、半分泣きながら、必死に自転車をこぎ続けた。

 僕が傍にいないと。幸せにするって約束したんだ。傍にいないと。

 必死にこぎ続けること、約三十分。

 病院にたどり着いた僕は、自転車に鍵もせず、彼女がいる病室へと走った。

 病室の扉を開け、中に入る。

 そこには、人工呼吸器をつけた結衣とその手を握る彼女の母親、医師と看護師がいた。

「容態は?」

 僕の問いに、母親は小さく「意識不明だそうです」と答えた。

「そんな……」

 思わず呟く。

「搬送されてきた時には、既に重体で意識が朦朧としていました。今の状態からだとなんとも言えません。早く回復することを願っております」

 誠実そうな若い医師は落ち着きを払って、そう言った。 

 力が抜け、その場に座り込む。

「ここまで走ってきてくれたんですね。疲れたでしょう」

 母親が僕に気を遣い、椅子を持ってくる。

「すみません」

 僕は一言そう言うと、椅子に座った。

 

 結衣とは、高校で知り合った。高校一年の時、友達がいなかった僕に、最初に声を掛けてくれたのが、結衣だった。それ以来、よく一緒に話したり、勉強したりして、大学も同じところを受けた。二人とも合格して、お互いに喜び合った。いつしか、僕と結衣は恋人という関係になっていた。毎日が楽しい。毎日が彼女といれたら、どれだけ幸せだろう。そうやって昔の記憶を思い出すと、急に涙が溢れてきた。優しかった彼女に、神はなんて酷いことをするんだろう。

「結衣は本当に、俊さんのことが大好きでした。家に帰ればしょっちゅう、嬉しそうにあなたの話をしていたんです」

 涙を流す僕に、彼女の母親は言った。

「だから私も、もし結衣があなたと結婚したらどれだけ幸せだろう、そう思うようになっていました」

 涙がさらに溢れる。

「でも、もしかすると、結衣は……もう」

 それ以上は聞きたくなかった。

「希望を持ってください。結衣は、絶対に大丈夫です」

 死ぬなんて絶対にない。嫌な想像を振り払うように、僕は言った。

 

 記憶が甦る。

 

「読書が好きなの?」

 人見知りで友達のいない僕に、結衣はそう声を掛けてくれた。

 休み時間はいつも読書していて、本が友達のようなものだった。

「……うん」

 どう返したら良いのか判らず、ただそう言った。

「どんな本読んでるの?」

 興味深そうに、僕の本を覗いてきた。

 僕はファンタジー小説が好きだった。架空の世界に憧れていた。自分が主人公だと想像しながら読むのが楽しかった。

「面白そう。今度貸してよ」

「いいよ」

 最初はこんな他愛もない会話からだった。でも、ちょっとずつだけど、結衣と話す時間の方が長くなっていった。ずっと話していたい。結衣と一緒にいれば、落ち着く。そう思うようになっていた。

 偶然、家が近かったこともあって、放課後に彼女の家で一緒に勉強することも多かった。彼女の両親とも、高校以来の付き合いということになる。

  

 高校一年の冬休みのある日、僕は風邪で寝込んでいた。僕の両親は共働きで、家にいない。家の近くの薬局で市販の風邪薬を買い、ずっと自分の部屋のベッドで寝ていた。体がとても重かったのを覚えている。

 もうすぐ昼になろうとしていた時だった。

 ピンポーン。チャイムが鳴った。

 こんな時間に何の用だろう? そう思いながら、重々しい体を動かし、玄関まで向かった。

 扉を開ける。寒い風が入り込んで来た。

 そこには、ビニール袋を持つ、結衣の姿があった。

「大丈夫? ごめんね、無理させて」

 だるそうな顔をする僕を見て、心配そうに言う。

「あ、あれ? なんで?」

 僕は訳がわからなかった。どうして?

「だって井上君が風邪って聞いたから。ご飯食べた?」

「まだだよ」

「じゃあ、私が作るよ。井上君は寝ていて」

 そう言って、靴を脱ぐと、家に上がりこんだ。

「木村がそう言うなら。包丁とかまな板は台所にあるの使って」

 僕はそれだけ言うと、自分の部屋に戻った。

 ベッドの中で大人しくしていたのだが、しばらくして頭痛までしてきた。今までの風邪と違うかもしれない。そう思ったほどだ。

 

 三十分程経った頃だろう。良い匂いがしてきた。

「できたよ!」

 お粥を持ってきてくれた。

「ありがとう」

 体を起き上がらせる。

「熱いから気をつけて」

 そう言って、スプーンを渡す。

 ふぅ、ふぅと息を吹きかけ、一口食べた。

「美味しい」

 心からそう思った。

「ホント? 嬉しいな」

 本当に嬉しそうな顔をする。

 あまりの美味しさに、十五分程で平らげてしまった。

「薬あるでしょ?」

 そう言って、結衣は水の入ったコップを差し出した。

「ありがとう」

 受け取って、市販の薬と一緒に飲む。

「洗い物もやっとくから」

「何から何まで、本当にありがとうね」

「気にしないで、いつも勉強教えてもらっているし」

 そう言って、微笑む。

 本当に結衣は優しかった。

 高校二年、三年も僕と結衣は同じクラスだった。

 僕と結衣はどんどん仲良しになっていった。いつからだったのだろう。僕はいつしか、結衣が好きになっていた。

 高校三年の夏休み。

 いつものように、僕は結衣の家に勉強を教えに行った。

「俊ってどこの大学に行くんだっけ?」

 不意に、結衣が訊ねてきた。

「僕は、豊国大学かな」

 僕の志望校だ。高校に入ってすぐ、この大学に入ると心に決めていた。

「偶然だね。私もだよ」

 本当に奇遇だ。

「一緒に合格できると良いね」

 僕は心の底からそう思った。

「それでさ、お願いがあるんだけど」

 唐突に結衣は言った。

「何?」

 どんなお願いなんだろう?

「もし合格したら、私と付き合ってほしいんだ」

「えっと、それって、その」

 突然のことに、戸惑いが隠せない。

「嫌……かな?」

 恥ずかしそうに顔を赤らめる結衣。

「嫌じゃないよ。むしろ、嬉しいっていうか」

 僕も恥ずかしくなり、照れ笑いを浮かべた。

「じゃあ、約束だよ」

「ああ」

 そう言って、ゆびきりをした。

 受験当日は、とても緊張した。言葉にならないほどだった。これまでの全てをここで発揮して、必ず合格してやる。

 僕は、やれるだけのことは必死にやった。

 

 そして、合格発表の日。

 僕と結衣は一緒に、合格発表を見に行った。

 自分の受験番号がないか、睨み付ける。

 あった。僕は思わず、「やった!」と声を上げた。

「私もあったよ」

 直後、結衣からも歓喜の声が上がった。

「よっしゃ!」

 僕は、周りの目も気にせず、大きくジャンプした。

「約束通り、その、私と……」

 約束した。彼女と付き合うと。

「うん。わかっているよ。絶対に、僕は君を幸せにする。約束だ」

 僕は約束したんだ。彼女を幸せにすると。

「ありがとう」

 結衣は笑顔でそう言うと、僕に抱き着いてきた。

「ちょ」

 周りがにやつく。僕はとても恥ずかしくなった。

 約束――。僕は、約束を守れていない。彼女を幸せにできていない。

 ごめんね、結衣。本当に、ごめんね。

 

 ピッ、ピッ、ピ――――

 

 心電図の波形が、一直線になる。

 

 嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。僕は信じないぞ。

 医師と看護師が慌しく動き出す。

 見たくない。信じたくない。聞きたくない。僕は、目を閉じ、音が聞こえないよう耳を塞いだ。

 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。

 結衣が死ぬはずない。

 

 しばらくして、僕は目を開いた。

 医師と看護師は暗い顔をし、彼女の母親は両手で顔を押さえている。

 

「午後十一時二十三分。永眠されました。心より、お悔やみ申し上げます」

 医師と看護師はそう言って、深々と頭を下げた。

「嘘でしょ。嘘だと言ってください。結衣が死ぬわけない」

 僕は医師にそう迫った。

「手は尽くしました。本当に申し訳ありません」

 うっすらと涙を浮べながら、医師は謝った。

「…………」

 確かに、医師達は最善を尽くした。彼らに当たるのは、筋が違うだろう。じゃあ、何に怒りをぶつければいい?

 本当に、ごめん。約束、守れなかったよ。

 僕は、大声で泣いた。

 

 それからのことは、よく覚えていない。

 気が付けば、一カ月が経過していた。

 結衣は本当に優しかった。僕に声を掛けてくれた。恋人になってくれた。そんな彼女に、僕は何か一つでも恩返しをしたか? 幸せにすると約束しておきながら、結局僕は何もできなかった。僕は無力だ。

 結衣に会いたい。もう一度、彼女と話したい。彼女を幸せにしてやりたい。

 どうやったら、もう一度彼女と会える?

 そうか、僕から会いに行けばいいんだ。でもどうやって? 

 僕が向こうの世界に行けば、彼女に会える。僕が行けばいいだけのこと。

 僕が行けば……。

 

 そして、僕は自ら命を絶った。

 

 川のせせらぎが聞こえ、眠りから覚めるようにゆっくりと目を開ける。目の前に赤い川が流れていた。見上げると、空も朱色

だった。澄んだ空気に、僕は深呼吸した。

 見たことのない風景だ。草木は一切生えていない。砂利道が水平線の彼方まで続いている。

 

 ここが、あの世なのか?

  

「……僕は」

 死んだはずだ。だが、生きている。生きているのか?

 それに、ここはどこだ?

 僕以外には誰もいない。

 「会えないのか」

 また涙が溢れてきた。僕は結衣と会えないのか?

 その場に座り込む。

 結局、駄目なんだ。僕は大事な人を幸せにするどころか、会う事さえ出来ない。自分の無力さにただ腹が立った。

「どうして、泣いているの?」

 聞き覚えのある声に顔を上げる。

 目の前に立っていたのは、結衣だった。

 いつもと同じ服装、同じ髪型、間違いなく結衣だ。

「あれ? どうして俊が」 

 見上げた僕の顔を見て、結衣は驚いてそう言った。

「結衣に会いに来た」

 僕は一言そう言った。ようやく、結衣に会えた。約束を守る為だ。必ず幸せにすると。

「じゃあ、俊も死んだの?」

「そうなるかな」

 死んだ時の記憶は曖昧だった。思い出せない。自分がどうやって死んだのかもよくわからなかった。

「約束しただろ。君を幸せにするって。だから、会いに来た」

「私のために、どうしてそこまで?」

「結衣が好きだからだよ」

 ただ、好きだから。大好きだから。それ以外に理由はない。

「だからって、何も死ななくても」

 薄らと涙を浮かべながら、結衣は言った。

「君に会いたかった。それだけさ。気にしなくていい」

 しばらく、沈黙が流れる。

「これからどうする?」

 沈黙は僕の一言で破られた。

「私もどうしたらいいかわからない。ずっと考えていたの」

 この何もない場所で、何をどうしろと言うのだろう。

「あの川の向こう岸って何があるの?」

 赤い川の対岸を見る。

「行ったことないからわからない」

「じゃあ行ってみようよ」

 向こう岸に行けば、何かあるかもしれない。

「でもどうやって向こう岸まで行くの?」

 そこまでは考えていなかった。砂利の地面、目の前に流れる川、朱色の空。ここには何もない。

 流れはそう早くない。直接渡ろうか。深そうにも見えない。

「渡ろう」

「大丈夫なの?」

 心配そうに川を見る結衣。

「大丈夫だよ。濡れたら嫌だろ。僕が抱っこするからさ」

 そう言うと、僕は結衣を抱き上げた。

 軽くもなく重くもなく、丁度良い。顔を見ると、照れているのか赤かった。

 僕達は川を渡った。

 やはり、川はそう深くなかった。僕の膝程だ。

 渡りきると、僕は結衣を地面におろした。

「何もないね」

 川を渡っても、さっきと同じく砂利の地面、何もない。

「とりあえず、歩くか」

 僕と結衣は、歩き始めた。

 

 何もない場所をただただ歩く。

 もう何分歩いたかわからないが、何故か疲れはなかった。死んだからか?

 しばらくして、巨大な扉が見えた。そして、その前に、一人の男が立っていた。男はネクタイを締め、スーツを着ていた。

「お待ちしておりました」

 慎ましい声で、男は僕と結衣に言った。

「あなたは?」

 僕の問いに、男は「私は案内人の××です」と言った。

「案内人?」

「ええ。ここは、この世とあの世の中間に位置する場所です。死んだ人間は、まずここに来ます。この扉を通ると、あの世です」

 ××という男は、そう説明した。

 この扉を越えればあの世なのか。何だか、実感がわかない。

「あの世ってどんな所なんですか?」

 結衣が訊ねた。

「良い所ですよ。嫌なこともなく、面倒なこともない。理想郷といった所でしょう」

 理想郷。一体どんな場所なのか。でも、僕にとったら、結衣と一緒なら、どんな所でも理想郷だ。

「それでは、参りましょうか」

 坂東はそう言うと、扉を開けた。

 眩しい光が扉から入ってくる。

 扉の向こうは、光で、真っ白だった。

「この扉を越えれば、もう戻ることは出来ません。心の準備は宜しいですか?」

 僕は結衣と顔を見合わせ、小さく頷いた。

「はい。お願いします」

 僕はそう言った。

「それでは、どうぞ」

 僕は結衣と手を繋いで、扉へと歩みを進めた。

 

 これからは、結衣と一緒に幸せな日々を過ごせる。理想の日々が。思い描いた日々が。

「ずっと一緒だからね」

 結衣は、微笑んでくれた。

「ああ。一緒さ」

 僕もそう言って、微笑み返した。

 

 終

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