第3話
日曜日。朝六時に目が覚めてしまって、そのまま寝付かれなかった僕は、約束の時間より二十分も早くボーリング場に着いた。
相棒が来るまでどうやって暇をつぶそうかと考えていた僕が驚いたことには、二階にある入り口を入ったホールの右側、階下に並んでいるレーンを見下ろせる手すりにもたれ、何やら身もだえしながら聡が立っていた。目の前で行われているゲームにすっかり心を奪われていた聡は、僕が近づいていっても気付く様子もなく、ピンが倒れたり、ボールが溝に落ちたりするたびに、興奮しきった様子で体をぴくりと震わせていたので、あと十分も待たせたら、きっと一人でゲームを始めてしまっただろうと思われた。
僕は正気を失っている相棒の代わりに受付で手続きを済ませると、聡を指定されたレーンまで引きずるように連れていった。広大な床面積を誇るこのボーリング場のほぼ中央に位置する僕らのレーンからは、床いっぱいに敷き詰められたレーンや、高い天井に吊り下げられた照明が、まるで飛行機の格納庫にでもいるかのように見渡せるのだった。
おそらく、広すぎる部屋で人が感じる孤独感を紛らわそうとでもいうのだろう。流行りの曲が、すぐ目の前の人との会話にも困る音量で繰り返し流されていた。
僕は先日からの胸のつかえを抱えたまま、のろのろと靴を履き替えはじめた。ようやく右足が終わり、左側の靴に足をかけようというところで、気持ちよく倒れるピンの音がフロアに響き渡り、僕の耳に届いた。ハッとして顔を上げると、聡が今にも踊り出しそうな満面の笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「これだよ、これ!」
あっという間に準備を済ませ、一投目でいきなりストライクを決めた聡が意気揚々と叫んだ。
僕はといえば、左足をシューズに半分だけ突っ込み、かかとをつぶさないようにつま先立った状態のまま、始まってもいない試合の敗者のように座り込んでいた。
「いつの間に始めたんだ?」と僕は言ったが、聡がここにいることさえ、たった今気付いたような気がしていた。
「浩次が遅いんだよ。やる気がないみたいにさ」
聡の不満そうな表情や言葉には、実に嘆かわしいといった気持ちが込められていたので、何もかも僕が悪かったと素直に認めざるをえなかった。
「はぁ。ごめんごめん」
「あっ、また溜息ついた」
聡にそう言われて僕はすっかり全身の力が抜けてしまい、ボーリングシューズのかかとを踏み潰したのにも気が付かなかった。週の初めからずっと溜息ばかりついていたことに思い当たったからだ。本のページをめくっては、しおりを挟む代わりに溜息をしていたし、人と話そうと口を開けば、句読点代わりの溜息で言葉を切れ切れにした。
聡はそのことに気付いていなかっただろうが、僕が僕自身にさえ隠そうとした心理を見事に言い当てたのだった。
僕は精一杯見せかけの明るさを装い、顔の筋肉が引きつるのも構わず笑顔を浮かべて言った。
「よし、やるぞ」
僕は急いで左足にひっかけてあったシューズを履き、手に馴染むボールを探しに走った。
ずらりと並ぶボールに片っ端から指を突っ込みながら、自分に必要な勇気が与えられることを願った。せめてボーリングの一ゲームだけでも、友達と楽しくプレイできる、そんな小さな勇気でいい。やっと見つけた自分に合ったボールを抱えながら、僕は自分にそう言い聞かせた。
そんな上辺だけの明るさも、投げたボールがピンを倒したり溝に落ちたりするうちに、いつの間にか剥がれ落ちていた。今の僕にとってどうなろうと構わないゲームの進行のために、喜んだり悔しがったりの演技をすることは、どうしてもできないのだった。久しぶりに体を動かして息が切れたと言い訳をしながら、僕はゲームの間中溜息を続けたのだった。
一ゲーム投げ終わると、僕たちは冷えたジュースで渇きを癒しながら、最近の勉強の進み具合とか中学の頃の思い出話を始めた。甘い炭酸水が舌を滑らかにしたのか、僕は堰を切ったようにしゃべり続けた。楽しんでいるふりをしてゲームを続ける気力もなかったし、会話が途切れた後の沈黙を思うと口をつぐむことも躊躇われた。
望み通りボーリングを楽しんだ聡はすっかり満足した様子だったが、一レーン挟んで隣に陣取っていた一団が荷物をまとめて帰り支度を始めると、僕の顔をちらちらとうかがいながらジュースを飲み干し、意を決したように僕に尋ねた。
「話してみてくれないかな?僕なんか何の役にも立てないかもしれないけど、話したら楽になる悩み事っていうのも、あるんじゃないかな」
聡は人の気持ちを敏感に読み取ることのできる繊細な心の持ち主だった。今の場合も、僕の気持ちはすっかり見透かされていたのかもしれない。
「いや、別に」
そう言って否定したのも、今さら自分の失恋話を白状して恥の上塗りをするような真似をしたくなかったからだ。楽しそうに見せるための演技も、訳を話してしまったら、聡を騙すためにそうしたのだと認めることになる。
でもよく考えてみると、このことを誰かに聞いてもらうとしたら聡以外には考えられないし、隠す必要もないのだと気が付いた。聡は知っていたのだから。
二カ月ほど前のその日、僕と聡は一緒に真人の家にいた。
真人は恋人ができたことを僕たち二人に話し、彼女と二人で写っている写真を見せてくれた。聡と二人で真人の脇のあたりをくすぐり、冷やかすような声を上げながら写真をのぞきこんだ僕は、だらしなく笑った顔のまま凍りついた。写真の中で微笑んでいる見覚えのある彼女の顔。その顔は忘れようにも忘れられず、僕の思い出の中で今も強い生命力を持っている存在だった。髪型が変わっていても、僕にはそれが彼女のものだと見分けることができたし、少し目じりの下がった大きな瞳も、例え天地がひっくり返ったって忘れられるものではなかった。
「由紀っていうんだ。バイト先で知り合ったんだけど、聞いてみたら驚くじゃないか。浩次と同じ高校なんだよ。もしかしたらって思って浩次の名前を言ったら、同じクラスだったんだって、覚えてるか?向こうはお前が覚えてないんじゃないかって心配してたぞ」
真人が名前を口にしたので、それが高校の時から好きだった彼女と別人であるという希望はなくなってしまった。
名前は知っているけれど、髪型が変わっていてどうもピンとこない、などと言って取り繕う間も、ドキンドキンと胸が鳴り、僕を見つめている真人に嘘が見破られるんじゃないかと心配ばかりしていた。
聡は彼女の名前と顔に見覚えがあったらしく、僕と同じように驚きを隠せない様子だった。いや、本当は真人もそのことを知っていたはずなのだ。
高校時代のある日、同じように三人で集まった時だ。今好きな女の子がいるかどうかということを話し合ったことがあった。別々の高校に通っていた三人はそれぞれ好きな女の子の写真を持ち合い、酒を酌み交わしながら熱い鍋料理を囲んでいる男たちみたいに、顔を真っ赤にし、頭から湯気を出しながら、その写真を見せ合ったのだった。
あの時僕が見せた写真の女の子と、今真人が持っている写真の彼女は同一人物だった。けれど、今そのことに気付いているのは僕と聡だけで、真人は全く気付いてはいない様子だった。
真人は他人事となると、そのための脳みその皺など持ち合わせがないらしく、一度見た映画のタイトルもすぐに忘れてしまうぐらいだから、おそらくその時の女の子の顔も、とうに忘れてしまっているに違いなかった。
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