第2話

 夢から覚めた僕を迎えたのは、狭くて暑苦しい自分の部屋だった。その部屋で、僕はタオルにくるまり、間延びした下着姿という格好で布団に横になっていた。

 彼女が口にしたのは、僕の中学の時からの親友の名前で、由紀とは最近同じアルバイト先で知り合い、付き合い始めたのだった。

 自他ともに認める女好きで、人を魅了する性格をも兼ね備えた真人は、あっという間に彼女を恋人にしてしまった。別の高校に通っていたから、彼女に寄せていた僕の思いなど、真人が知るはずもなかった。

 二人を祝福しようと決心したのは、今も消えることのない彼女への思いと、矛盾した過去の穴埋めをしたかったからかもしれない。そう決心した時ほど、自分の勇気が信じられたことはなかった。

 その勇気も、あの美術の時間に感じた勇気と同じように、偽りに過ぎなかった。偽者と叫んだあの声は、僕に向かって投げかけられていたのだ。

 夢から覚めてしまったことで、由紀は僕から去っていったというのに、彼女の肌の温もりだけは、いつまでも消えずに残っていた。

 一人ベッドの上でひざを抱えて体を丸め、甘美で残酷なその感触を吹き飛ばそうとしたが無駄だった。

「僕は真人じゃない!」

 そう心の中で叫ぶと、僕は声も出さずに泣いた。


 窓から差し込む朝日のまぶしさに再び目を覚ますと、部屋はもわっとした空気で満たされ、まるで砂浜で体を焼いたまま寝過ごしてしまった時のように、顔や腕や足の皮膚がヒリヒリと痛んだ。

 くすぐったいような感じがして、ふと腕を見ると、脚の先までびっしりと毛の生えた丸っこいクモが這っていた。

 僕がじっと目を凝らすと、まるで自分はここにいませんよとでもいうように、じっと動きを止めてこちらの様子をうかがっている。できればそんな考えはしたくなかったけれど、あんな夢を見たのが、このクモが全身を這い回っていたせいで、由紀のものと思っていた髪や柔らかい唇の感触、それらが全部毛むくじゃらの足に撫で回された結果だと思うと、僕は全身の皮膚をかきむしらんばかりだった。

 しばらくは呆然として動くこともできなかったが、ようやく体を起こし、クモをのせていないもう一方の手でティッシュペーパーを手に取ると、すばやくクモをくるんで捕まえた。

 いつもなら、七時半には家を出て駅に向かわなければならないというのに、枕元の時計はすでに七時を回っていた。慌てて飛び起きて急いで着替えを済ますと、朝食も取らずにあたふたと家を飛び出した。まだ頭がはっきりせず、何もかもがぼんやりとしていたが、遅刻を避けようとする習慣だけは、僕に駅までの道のりを走るよう命じるのだった。


 夏真っ盛りの八月の太陽が、駅までの道を強烈な日差しで容赦なく照りつけ、僕は目を瞬かせながら走らなければならなかった。右腕を日傘代わりにして目の前に上げると、腕の表面に生えた毛の一本一本がチリチリと焼けるようだった。

 本当に煙がくすぶりはじめているんじゃないかと心配になった頃、僕は胸ポケットの荷物のことを思い出し、空き地に生え放題になっている草むらの前で足を止めた。

 丸めたティッシュペーパーを取り出して静かに開いてやると、中から毛深いクモが顔を出した。いきなり外に連れ出されて驚いたのか、最初は身動き一つしないでじっとしていたが、小さな花をたくさん咲かせた、枝が丸く刈り込まれた木の上に乗せてやると、ゆっくりと這い出していった。そのクモは枝の感触を確かめるように歩きまわり、次にすべき行動を探しているかのようだった。ずっとそうやって彼のすることを眺めていたかったが、自分が置かれた差し迫った状況のことを思い出した僕は、駅に向かってまた走り出した。


 その夢を見てから数日の間、僕は教室の隅に置き去りにされたボロぞうきんのような気分だった。

 世界中の宝物をいっぺんに手に入れたような幸福を与えてくれたあの夢が、自分ほど哀れな男はいないと思い知る現実と重なる時、涙がこみ上げるのを抑えることができなかった。馬鹿馬鹿しいと唾を吐き、きれいさっぱり忘れてしまうには、彼女の思い出はあまりにも長く僕の中に留まりすぎていた。

 予備校に向かう電車の出入り口の手すりに身を持たれかけ、誰とも目を合わせずうつむいたまま、早くこの痛みが過ぎ去ってくれることを祈るばかりだった。電車が停車してドアが開くたびに、僕はホームに降りるのだけれど、そこが目的地じゃないことに気付くと、溜息をついてまた乗り込むのだった。

 結局遅刻する結果になったその日は、週の中で一番授業が多い日で、自宅近くの駅に帰り着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。駅から家に帰る道の途中にある坂道は見晴らしがよく、いつも夕焼けや曇り空、そんな天気によって表情を変える空や町並みが一望に見渡せた。高台から平地に向かって歩くと、遊園地の観覧車が山並みと空を背景にして立っているのが見える。天気がいい日には、はるか彼方の山肌が見渡せ、季節によって緑や茶色に色を変えた。いつもなら、見るたびに表情を変える風景を楽しみながら通る道なのに、今日はなんの表情も見えなかった。明かりのない畑は深い暗闇に覆われ、足を踏み外して落ちようものなら、二度と出てこられなくなる大きな穴のように見えた。


 家に戻ると電話が鳴り、習慣ですぐ誰からか見当がついた。受話器を取って聞き慣れた声が聞こえるのを確かめると、僕は言った。

「あー、やっぱりそうか。今帰ったところだよ」

「おっす、相棒」

 僕と聡の電話は、最初の二言三言をいつも同じ台詞で始めるのだった。どうせ同じことならいっそ省略してもよさそうなものだが、中学の頃から何十回となく繰り返された習慣を、今さらわずかな電話代の節約のために変える訳にはいかなかった。いつもなら、聡の台詞に駄洒落を加えた台詞を返さなければならないところだったが、どう頑張っても元気の出ない時には、これほど厄介な習慣はない。今はいつもの台詞を返しておいて、そのうち元気を取り戻したら、この悪癖から一緒に立ち直ろうと聡を説得しよう。そう考えていた時、思いがけず早くも更生してしまったのは聡の方だった。僕の出番を待つことなく、いきなり本題に入ってしまったのだ。

「今週の日曜日だけど、ボーリングに行かない?午前中だったら空いてるだろうし、朝九時集合なんてどうかな?」

 聡はいつもより浮ついた声で、おそらく電話をかける前に何度も頭の中で繰り返したのであろうその台詞を、滑らかにまくし立てた。その調子は、僕に意見を求めるように体裁を取り繕ってはいたが、明らかに独り決めするつもりらしく、僕に異議を唱えさせまいと結論を急いでいるかのようだった。そんな聡の明るさや普段の聡からは考えられないほどの積極性は、僕をますますみじめな気分にさせるばかりだった。僕は電話をガチャンと切ってやりたくなった。

「ボーリング?」

「うん。そう。おとといの夜、ボーリングやってる夢を見たんだよ。それから、あのピンが気持ちよく倒れる音が頭の中に鳴り響いて離れないんだ」

 僕は納得した。いつもの聡なら、どこに遊びに行くかとか、何時に集まるかとか、小銭はいくらくらい必要かといった些細な問題まで相手の意見を聞いてからでなければ何も決められないというのに、今日に限って電話をかけてくるなり、いきなり場所を指定してきた訳が分かった。今の僕は、わざわざ重い玉なんか転がして遊ぼうなんて気分じゃなかったけれど、ここで断ってしまうと、聡の納得のいくまでボーリングに行けない理由を説明させられるのが分かっていたので、さっさと約束してしまって電話を切ることにした。

「そういうことなら、いいよ。近所にある例のとこでいいかな?」

「うん、そうだね」

 僕は三キロのダンベルでも扱うように受話器を置くと、ふぅと溜息をついた。いつもの長電話と違って二言三言しかしゃべらなかったというのに、大きく息を吸い込んでからでないと溜息ができないほど疲れきっていた。

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