第十七章 | 勇造

 菜摘の隣に真紀、直樹の順に座ると、カウンターはちょうど満席になった。

 おもむろに航が立ち上がると、かしこまったように軽く咳払いをしてから、口を開いた。

「ようやく全員揃ったところで、僭越ながら、僕が乾杯の音頭を」

「あら、どうして、あんたなのよ」

 すかさず佐衛子が茶々を入れる。

「いいじゃん! 俺にも一言言わせてよ。えーっと、陽太郎、勇造さん、ほんっとにおめでとう! こんな晴れの日をみんな揃ってお祝いできるなんて、なんか感無量でさ。やっぱり学生時代の仲間って居心地がいいもんだななんて、さっきからしみじみ思ったりしてるんだ。ようやく直樹も到着したし、今夜は朝まで楽しく飲み明かそう! カンパーイ!」

 陽気な掛け声で、グラスの鳴る音があちこちで響いたが、それと同時に、「朝までとかないから」とか「まったく独身男性特有の発言よね」なんて揶揄する声が、笑い声に交じって聞こえる。

 楽しげな笑顔に囲まれて、勇造も久しぶりにほのぼのとした気分になって、隣の菜摘とグラスを交わした。数時間前に緊張した面持ちでドアを開けたのが、もう遠い昔のようだ。


「勇造さんは朝まで付き合ってくれますよね?」

 振り向くと、叱られたワンコのような表情で航が勇造に問いかけてくる。

 その表情がかわいくて、笑いながら「俺で良ければ」と返すと、見えない尻尾をぶんぶん振って、「やったー」と嬉しそうに破顔する。

「航ー、勇造さんはすごい呑兵衛だぞ。なんたって、その人当たりの良さと鉄の肝臓で、二丁目一稼ぐカリスマ店員なんだから。同じペースで飲んだら潰されちゃうぞ」

 そう言って、陽太郎が勇造に向かって片目をつぶる。まったく、何が鉄の肝臓だよ、と苦笑すると、少し酔ったふうな航が、勇造にもたれかかるようにして呟いた。

「潰れないっすよ。だって今日は俺にとっても大事な日なんだから」

 そう言いながら、無防備に太ももを勇造の膝に寄せてくる。体育会特有のはち切れんばかりの重量感に思わず身を引いて、勇造は目の前のグラスに口をつけた。まったく、これだからノンケは困る。


 気を逸らそうと左隣に目をやると、菜摘の子育ての話に耳を傾ける真紀の向こう側、このバーで初めて会う顔と目が合った。

「はじめまして」

 若者らしい溌剌とした笑顔で、勇造に向かって軽く頭を下げてくる。

「はじめまして。えっと、私はエイトの……」

「パートナーさんですよね。僕は直樹と言って、みんなと同じゼミの仲間です。今日は予想外の出来事が色々あって、せっかくの大事な日に遅れちゃってすみません」

 恐縮したような表情には、理知的なだけでなく、どこか老成とした影が差していて、個性的な今日のメンバーの中に、また面白いキャラクターが加わったなと、勇造は思った。

「いえいえ、そんな。自分こそ、みんなの久しぶりの再会に水を差しちゃったみたいで、申し訳ないなと思ってたんです。でも、エイトの友達はみんな楽しい方たちですね。前向きで一生懸命で、何か自分の青春時代を思い出して、図々しくもさっきから一緒に仲間入りした気分になってます。あ、私は勇造と言います。よろしく」

 身振り手振りで楽しげに話す菜摘に、真紀が笑顔で口を挟みながら、盛り上がる二人の女性の背中越しに、勇造は直樹と話を始めた。反対側では、佐衛子の話に航と陽太郎が耳を傾けている。

「勇造さんだって、そんな歳上には見えないですよ。陽太郎とはもう長いんですか?」

「二年前に知り合ったんです。僕の一目惚れ」

「そうなんですか? 逆のような気がするけどな。陽太郎は押すと引いちゃうタイプだから」

 おっと、こりゃまた勘のいい男だな、と感心して、勇造はふと学生時代のエイトのことをこの男に聞いてみたくなった。

「エイトは大学ではどんな感じだったんですか? 私はラグビー部の主将だったくらいしか知らないんで……」

 ちょっと思案した後、直樹が口を開いた。

「陽太郎は、すごいモテましたよ。意識してそう振る舞っているというより、もともと彼に備わった磁石が人の目を惹きつけて離さないって感じかな。ただでさえそうなのに、持って生まれた社交性で誰に対しても気さくに接するもんだから、二乗三乗にファンが増えちゃって、ずるいなーなんて思ってました」

 懐かしい日々を思い出すように、笑いながら直樹が続ける。

「でも、押すと引いちゃうんです、さっきも言ったように。ずっと誰かを待っていて、その人以外には興味がないような感じで。だからきっと、自分と引き合う磁石を持った人に出会ったら、陽太郎のほうがその人を離さないんじゃないかなと思ってたんです」

 直樹の言葉に、勇造は胸の奥がじんわりとほどけていくような気がした。エイトのような魅力的な男が自分を選んだことに、いまだに半信半疑だったけれど、もし直樹の言うように、エイトにとっても、自分が「正しい相手」だと思ってくれているなら、どんなに幸せなことだろう。

 場違いな場面での急な乙女心の発現に照れて、緩んだ目尻を悟られないようにカウンターに向き直ると、カノンがにやにやしながら、勇造を見つめていた。

「Man in love. いつもながら、わかりやすいわね、ユーゾー。羽が生えてどこかに飛んで行っちゃいそうよ」

 カノンの言葉でますます顔が赤くなる。おいおい、どんだけ惚れてんだよ。これじゃあバレバレだろ。


「でも、なんでエイトなんです?」

 ちょうどそれぞれの会話の継ぎ目だったのか、直樹の問いかけが偶然生まれた沈黙の隙間に響いて、全員が勇造を見つめた。

「そうそう、私も気になってたの。大学では誰も陽太郎をエイトって呼んでなかったし」と、菜摘が首を傾げる。

「わかった! ラグビーのポジションだよ。陽太郎はナンバーエイトだから、そのエイトだよ。ね、勇造さん?」

 隣から、得意げに航が同意を求める。

「あたり。みんなとは逆に、僕たちの仲間うちでは、みんなエイトって呼んでるよ。由来はナンバーエイトかもしれないけど、業界じゃナンバーワンのモテぶりだよ」

 さっきの仕返しに勇造が軽口で返すと、みんなからヒューヒューと囃し立てる歓声が沸き上がった。

「そんなことないって。まったく、勇造さん!」

 陽太郎が照れたように慌てて声を上げる。いつもの自信満々な風情では気がつかないが、こういう素の表情をするときだけ、陽太郎の左頬には小さな笑くぼが浮かぶ。その笑くぼを見るたびに、勇造はこの二年の蜜月が、かけがえのないものに思えてくるのだった。

「なぁんだ、ラグビーのポジションだったのね。聞き慣れないあだ名だったから、二人だけの間での呼び名なのかと思って、さっきからどんな意味なんだろうって色々想像しちゃった」

 どこかがっかりした様子の佐衛子の言葉に、陽太郎が面白がって身を乗り出す。「へえー? たとえば、どんな?」

 ちょっとはにかんだような顔を勇造に向けてから、佐衛子が口を開いた。

「あのね、八ってそもそも末広がりじゃない? そのうえ数字の8の字を横にしたら∞になるのよね。そういうずーっと続いていくイメージのある数だから、無限大とか永遠の愛みたいな意味だったら素敵かなと思ったの」

「おー! 佐衛子にしてはなんと乙女チックな!」

「やだ、すごいロマンチック!」

 途中から小声になった佐衛子に、陽太郎と菜摘から声がかかる。

「にしては、って何よ、にしてはって。あのね、単なる言葉遊びよ。私の豊富な博識と鋭い感性がダダ漏れになっただけ」

 顔を赤らめて開き直る佐衛子に、みんなが一斉に笑い声を上げるなか、カノンが優しく微笑みかけた。

「No worries, サエコさん。ナンバーエイトなんかより、ずっと素敵な解釈だわ。日本語には奥深い意味があるのですね。It’s amazing. サエコさんのような若い女性にも、そういったSenseが受け継がれていくのは、とても素晴らしいことね」

 思いもよらない褒め言葉に戸惑う佐衛子の隣で、航が独り言のように呟いた。

「無限大の愛かぁ。うん、それいいな。そんなふうに呼び合える相手がいるって、前はそんなこと考えもしなかったけど、やっぱりいいもんだよな……」

 そう言いながら、真紀の顔をこっそり伺う。つられて勇造も真紀の方を振り向くと、視線に気づいた真紀と目が合った。

 その機会をずっと待っていたかのように、軽い会釈のあと、真紀が勇造に話しかけてきた。

「あの……、さっきは失礼な態度で飛び出してしまい、本当に申し訳ありませんでした。もしよかったら、あらためてお祝いさせてもらえませんか?」

 黒目がちな大きな瞳を優しく細めて、勇造に向かってワイングラスを差し出す。ゲイであってもドギマギするような優美な仕草に、わけもなく慌てて手のひらを腿で拭ってから、勇造は二杯目のモスコミュールのグラスを手に取った。

「陽ちゃんをよろしく、勇造さん」

 真紀の一言が柔らかくその場を包んだ。一瞬、家族のみんなから祝福されたような気がして、勇造がぼんやり手を止めていると、真紀のほうからグラスを重ねてきた。

 カミングアウトなんて、デメリットばかりで、得になることなど何もないと思っていた。惚れた男の一世一代の覚悟に同席するのが嬉しくて誇らしくて、そんな動機だけで今夜ここに来たけれど、こんな気持ちになれるなんて、勇造は、思いもよらないプレゼントを陽太郎からもらえた気持ちになっていた。

 長いこと育んできた仲間たちとの絆や信頼が、こんなに暖かい場面を作るのだとしたら、それは、今までの陽太郎が間違っていなかったことを労うご褒美なのに違いない。

 そんなふうに、自分を信じて歩んで行きさえすれば、幸せになるのはきっと容易い。ほんの少しの勇気と、誰かを心から愛する強い気持ちがあれば、大抵の問題は乗り越えてゆけるものなのだと、勇造はカウンターの端で微笑む陽太郎の横顔を愛おしく見つめた。


「ま、真紀!」

 ガタっとスツールを鳴らして、不意に航が立ち上がった。

「これ……」

 そう言って、くしゃくしゃになったハンカチに丁寧にしまいこまれたイヤリングを真紀に差し出す。

「忘れていっただろ? さっき急いで追いかけたんだけど見失っちゃって」

 差し出した右手とは裏腹に、左の拳は強く固く握られていて、いよいよ覚悟を決めた航に、勇造は心の中で声援を送った。

「ありがとう、航くん」

 つぶらな瞳を輝かせて真紀がイヤリングを受け取った。その場で首を傾けて片耳に両手を添える。艶やかで女性らしい仕草に、航が小さく唾を飲み込んでから話し始めた。

「真紀、覚えてる? 学生時代に喫茶店で話した時のこと。いや、覚えてなくてもいいんだ。そのときに俺、真紀から『らしくないよ』って言われて、自分らしいってどういうことなんだろう、真紀には俺がどんなふうに映ってるんだろうって、ずっと考えてきたんだ。生徒にはさ、自分らしく生きろなんて、つい最近も説教しておきながら、もしかしたら、今までそうしてこなかったのは俺のほうだったんじゃないかって気づいたんだ。自分らしいってのも、いまだに曖昧にしかわからないけど、あのときの俺は、断じて俺らしくなかったって、それだけははっきり言える。それを今でも後悔してるんだ。だから、もし嫌じゃなかったら、もう一度チャンスをくれないかな。一人よがりかもしれないけれど、今日真紀と再会して、今度こそ俺らしく、ちゃんと真紀に伝えたいことがあるんだ。だから、その、もう一度俺と、デートして下さい!」

 静まりかえった店内で、誰もが固唾を飲んで真紀の返答を待っていた。

 驚いたように航を見つめ返していた真紀の唇が、蕾を開くようにほころんで、絹のようにしなやかな声が響く。

「またこの店に連れてきてくれる? できればその、桜の生け花が散ってしまう前に」

 安堵の溜息と歓声とが、それぞれの笑顔から湧き上がる。勇造も思わず立ち上がって、程よく脂肪の乗った航の丸い肩に手を回した。どさくさ感がないこともないが、いつの間にか、弟の門出を祝う兄のような気分になっていた。

 嬉しそうにはにかむ航と真紀に、カノンからも声がかかる。

「Congratulation. いつでも歓迎よ。でも本当にマキさん、You are so attractive. 変な虫が寄ってきても、私が守ってあげるから、安心して飲みに来て」

「いや、そのときは僕が守りますから!」

 間髪入れず右手を前に伸ばして、航が牽制すると、カノンが笑いながら逆襲をかけてきた。

「Another man in love. 本当にCuteね、ワタルさん。Dateが成立したところで言うのも何だけど、ウチの常連さんの一人が大好きなタイプだわ。もし、ワタルさんが男性にも興味があるのなら、紹介するけれど?」

 ちょうど飲もうとしていたハイボールを吹き出しそうになりながら、航が慌てて首を横に振る。

「ご、ごめん、それはちょっと。残念ながら……」

 そう言ってから、思い出したように、もごもごと話を続けた。

「あのさ、この前、ラグビー部の生徒に突然告白されたんだ。先生が好きですって。よくわかんないんだけど、もしかして、俺って、その、ゲイから結構モテるほう?」

 思わず勇造が陽太郎を振り向くと、目が合って同時に口を開く。

「うん、モテる」

 二人の答えが重なって、みんなが一斉に笑い出した。カウンターの中の桜が、呼応するように軽やかにその花びらを散らす。

「ね、言ったでしょ。航はこれから先、すっごいモテる気がするって」

 笑い涙を人差し指で拭いながら、佐衛子が声をかけた。

「ねぇ、陽太郎。勇造さんとの馴れ初め、まだ聞いてなかったわよね。どんなロマンチックな出会いだったのか、是非聞きたいわ」

 誰もが好奇心に満ちたまなざしを陽太郎に向けた。

 今日一段と輝いて見える恋人の左頰に、小さく笑くぼが浮かび上がるのを、勇造は幸せな気持ちで見つめていた。

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