第十六章 | 菜摘

 二次会に向かう身支度を始めた旧友たちを横目に、菜摘は小さくため息をこぼした。

 せっかく夫に子守を頼んで、春色のワンピースで参加したゼミ会なのに、今夜は少しも楽しくない。

 そもそも菜摘の予想では、今夜は陽太郎が婚約者を紹介する会になるはずだった。大学時代、菜摘がほのかな想いを寄せていた陽太郎の結婚。そんな甘酸っぱいシチュエーションに、密かな妄想を描いていた。


 モテ男の心を捉えた若く美しいフィアンセ。彼女は妊娠している。陽太郎が急に召集をかけてきた理由は「デキちゃった婚」だったからだ。頭を掻きながら、照れた笑顔で菜摘に話しかけてくる陽太郎。

「この中で結婚してお母さんになってるのは、菜摘だけだよな。いろいろ教えてくれよ。急展開すぎて、自分でもピンと来てないってゆうかさぁ」

 嬉しさと不安が混じり合った表情の陽太郎に、余裕の笑顔で応える菜摘。

「ウチの旦那も子供が出来た時、おんなじこと言ってたわ。男は子供が生まれて初めて父親になるけど、女は十ヶ月前からお母さんだからね。今、何ヶ月ですか? つわりは?」

 菜摘は、美人妻に優しく声をかける。

「四ヶ月なんです。もう少しで安定期に入るんですけど、つわりが大変で」

「私も大変だったの。でも、急に胸が大きくなって、それだけが嬉しくて」

「分かります!」

 三人がそんな会話をしている様子を、独身メンバーたちは眩しげな表情で見つめている。グループの中心人物だった陽太郎が身を固めることになり、内心誰もが焦りを感じ始めているはずだ。キャリアだ恋だとはしゃいでいた季節は過ぎ、結婚や子育てという次なる扉が開く。それまでのゼミ会では、聞き役が多かった菜摘が、ここに来てようやくみんなの耳目を集めるのだ。

「菜摘、結婚の決め手ってなんだった?」

「菜摘の子供って、いくつになったんだっけ?」

「子育てって実際どう?」—— おい、菜摘。


「おい、菜摘、どうした? 菜摘も行くだろ?」

 我に返ると、目の前に航の笑顔があった。

「なあ航、二次会って、どこか場所のアテはあるのか?」

 紺色のジャケットを羽織りながら、陽太郎が尋ねる。今更ながら、ジャケットが勇造とペアルックなことに菜摘は気づいた。男同士で! 信じられない。

「えー、俺、店なんて全然知らないよ。どうしよう、陽太郎」と、航が分かりやすく眉毛を八の字にする。

 そんな航を見て、勇造が笑いながら助け舟を出す。

「この近くで僕の知り合いがやっている静かなバーがあります。ちょっと電話で聞いてみます」

 太い指で携帯を操作しながら部屋の端に移動し、短いやり取りの後、すぐにみんなを振り返る。

「ちょうど団体客が帰ったばかりだそうです。席押さえてもらったから、タクシーで行きましょう。ここからなら十分くらいで着きます」と勇造。

「じゃあ、俺から直樹に連絡するよ。どこの店?」などと、携帯の画面を覗き込みながら、親しげに頬を寄せる陽太郎と勇造。まだ信じられない。この二人が恋人同士だなんて。


 暗くて地味な存在だった真紀が輝くばかりの美貌で現れ、陽太郎が連れてきたのは熊のような中年男。それだけでも十分「妄想外」なのに、菜摘の電話を盗み聞きした佐衛子から、お門違いな理由で責められ、傷ついているのは菜摘の方なのに、みんなは佐衛子の話ばかり。勇造の慰めの言葉に、自分のことでもないのに涙ぐんでいた航は、勝手に出て行った真紀の居場所がわかった途端、突然二次会だなんだとはしゃぎ始めている。


 はぁー。

 今度は先ほどよりも大きめのため息が落ちた。なんなのよ、もう。


 菜摘だって、妄想がそのままリアルになるなんて思ってはいない。でもそれを差し引いても、今夜はひどすぎる。誰も菜摘のことなんて気にしていないのだ。さっきまでは「真紀よりはマシ」だと思っていたが、心配してくれる航がいる分だけ、真紀のほうが恵まれているように思えてくる。

 しかし、高校時代の同級生からの電話に出たのは迂闊だった。気持ちが弱っているタイミングでの着信に、思わず「応答」ボタンを押してしまったが、長話ができるはずもなく、慌てて会う約束を取り決めているところを、佐衛子に聞かれてしまったのだ。

 懐かしい声で「なっちゃん」と呼ばれ、胸がときめいたのは事実。おそらく相当ニヤついた顔で個室に戻ったのだろう。佐衛子から問い詰められ、「高校時代の初恋の人に会うことになった」と、正直に答えたのもバカだった。でも、あんなに責められるなんて……。

 菜摘が彼と会う約束をしたのは、浮気がしたかったからではない。そんなことは、絶対にしない。ただ……。

 ただ、ほんの少しの息抜きが欲しかっただけだ。


 結婚して五年。生活は満ち足りている。克哉は変わらず優しいし、子育てにも協力的だ。娘の優菜は親の贔屓目を引いたとしても、平均以上に可愛い子供だと思う。両親も健在。義父母との関係も悪くない。

 それなのに、いつも少しだけ息苦しい。

 ときめきやチャンスや冒険とは無関係の、凪のような生活。子供の教育と噂話にしか興味がないママ友たちといても、青春を延長して謳歌しているような旧友たちといても、どこにも自分の席が見当たらないような気がする。

 贅沢な悩みなのはわかっている。おそらく専業主婦なら誰もが同じような気持ちを抱え、なんとか折り合いをつけながらやっているはずだ。わかっている。でも……。

 初夏のグラウンドで、セーラ服のまま芝生に座り、野球部のエースの一挙手一投足に胸をときめかせていたあの日々が懐かしい。恋人にはなれなかったが、妹のように菜摘に接してくれた初恋の人。実際に会ってしまえば、がっかりするだけなのかもしれない。それでも……。


「なっちゃん、ちっとも変わらないな。相変わらず、ちっちゃくて癒し系だ」

「からかわないでよ! これでも人妻なんですからね」

「そんな高校生みたいなルックスで、子供までいるなんて信じられないよ。ちゃんとお母さんできてるの?」

「失礼ね。ちゃんと主婦業やってます!」

「ごめんごめん。なんか想像つかなくてさ。主婦業ってどう? 俺でよかったら愚痴でもなんでも聞くよ?  なっちゃん」—— 菜摘、着いたわよ。


 気がつくと、タクシーは小さなお店の前に到着していた。助手席に乗っていた航が会計を済ませているあいだ、佐衛子と一緒にタクシーを降りる。

 大通りから一本入った静かな住宅街。古いマンションの半地下に入口を設えたそのバーは、目につく看板もなく、知らなければたどり着けないような店構えだ。

 もう一台のタクシーで先に着いていた陽太郎と勇造が、ドアの前で手招きをしている。菜摘は、佐衛子と航の後ろについて、店の前まで行った。何の飾りもない木製のドアに、小さく『Canon』と店名が彫られていた。


 ドアを開けると、中はカウンター席のみの小さなバーで、カウンターの内側に、薄紅色の花びらをつけた桜の生け花が飾られていた。その両脇を挟むようにボトル棚が置かれ、あらゆる種類のカラフルな酒瓶が、博物館のように整然と並べられている。美しい白木のカウンターテーブルは、等間隔に天井から吊るされたペンダントライトの光で、ミニチュアの檜舞台のようだ。客席は無人で、カウンターの中にはタキシードを着た白人の女性バーテンダーがひとり、桜の花々を背負うように佇んでいた。

「いらっしゃいませ」

 口元に上品な微笑を浮かべ、バーテンダーが低頭した。ベリーショートのブロンドの髪に、化粧気のない小さな顔。贅肉のない痩身で、胸も薄い。高い鼻梁と射るようなグレーの瞳が、知的でクールな印象を与える。年齢は、菜摘よりは上、くらいしか掴めず、三十代にも四十代にも見える容姿だった。

「この店のオーナーのカノンさんです」と勇造が全員に紹介した。

「Reserveしておきました。自由に座ってください。It’s all yours」

 カノンと呼ばれたバーテンダーに促されるまま、カウンター席の奥から、陽太郎、佐衛子、航、勇造の順に座り、最後に店に入った菜摘は、自ずと一番端の席、勇造の隣になった。

(よりにもよって……)

 菜摘は、胸の内で本日三つ目のため息をついた。

「菜摘さんは、何にしますか? お酒は何がお好きですか?」

 菜摘の不機嫌を知ってか知らずか、勇造が感じの良い笑顔で菜摘に話しかけてきた。そもそもバーで酒を飲むこと自体、菜摘にとっては非日常すぎて、何をオーダーすればいいのかわからない。

「……じゃあ、モスコミュール?」

 とりあえず知っているカクテルの名前を、菜摘はクイズの解答者のように答えた。モスコミュールなんて、素人丸出しの注文だと思われただろうか。こういう大人な店に場慣れしていない自分が恥ずかしい。

「いいですねえ。僕もそうしよう」

 勇造はそういうと、「カノンさん、俺と彼女はストリチナヤのモスコミュールで」とオーダーしてくれた。菜摘だけに恥をかかせないように、気を使ってくれたのだろうか。だとしたら余計に恥ずかしい、と思っていたところに、さらに屈辱的な出来事が起こった。

 カノンさんが、菜摘を不思議そうな表情で見つめた後、

「お酒、飲めますか? Can I see your ID?」と聞いてきたのだ。

 菜摘は絶句した。一拍置いた後、陽太郎と佐衛子と航が、弾けたように笑い出した。

「アハハ! カノンさん、勇造さん以外はみんな俺と同い年だよ。しかも菜摘は唯一の既婚者かつ子持ち!」と、奥の席にいる陽太郎が大声で口を挟んでくる。陽太郎はこのバーテンダーと顔見知りなのだろう。

 菜摘は恥ずかしすぎて、そのまま席を立って帰ろうかとすら思った。年齢より若く見られることは、菜摘にとって自慢のひとつだが、それとこれとは意味が違う。来なきゃよかった、こんな店。

 しかしカノンさんは悪びれた様子もなく、「Really? 信じられない」と真顔で呟いたあと、 「I'm so sorry. だって、あんまりCuteだから、高校生くらいかと思いました。ごめんなさい、ナツミさん」と微笑み、ウィンクをした。

 女性とはいえ、白人のバーテンダーから「キュート」と褒められ、ウィンクまで投げられて、菜摘は再び絶句してしまった。そして、先ほどとは違う種類の羞恥心で、頬が熱くなるのを感じた。


 全員に飲み物が渡り、乾杯が終わると、陽太郎と佐衛子と航は三人で盛り上がりはじめ、勇造が壁になって向こう側に混じれない菜摘は、仕方なく勇造と話すしかなかった。


 先ほどのレストランでは、一言も会話をしなかったし、ゲイの男性と会うのも初めてだ。いや、違う。陽太郎はゲイだったのだ。でも、そうだと知って、一体何を話せばいいのだろう。

 正直、聞きてみたいことはいろいろある。いつからゲイなのか。きっかけはあったのか。親は知っているのか。男同士って、いったい……。

 でも、余計なことまで聞いてしまい、失礼な女だと思われるのも怖い。

「そうか、菜摘さんは唯一の既婚者でお子さんもいるんですね。子育てって実際どうですか?」

 菜摘が会話の糸口を掴みかねていると、勇造の方から話題を振ってきた。しかも、菜摘の妄想通りの質問だ。

「どう……かな。楽しいです……。娘も可愛いし」

「いいですねー。羨ましいです」と勇造がニッコリと笑う。

「さっきサエちゃんが、菜摘さんに『嫉妬してる』って言ったでしょう? あれ、なんとなく分かるんですよね、僕」

「え?」

「誰かと巡り合って、恋愛して、結婚して、子供を作って、育てて、家庭を築いていくって、すごいなあって思います。今挙げただけでも六個くらいステップがあるわけでしょ? それを全部、難なくクリアできる人って羨ましいんです。サエちゃんにも、そして僕やエイトみたいな人間にとっても」

「そんな……普通のことです」

「菜摘さんが普通だと思ってることは、少しも普通じゃないです。今夜、いい歳の大人がこれだけ集まって、あなたしかいないくらい特別なことですよ」

 勇造はそう言って、横顔で笑った。

 出会い、恋愛、結婚、出産、子育て、そして家庭を築く。

 佐衛子は出会いで悩み、真紀は恋愛で傷つき、陽太郎と勇造が、結婚以降のステップを実現するのには、一体どれだけのハードルがあるのだろう。菜摘には想像もつかない。確かに、ろくな苦労もなくここまで来れたのは、ラッキーなことなのかも知れない。

 でも、と菜摘は思う。今日、ホテルに行くまでの道のりで、ぼんやり考えていた不安が唐突に口をつく。

「でも、だとしたら全部終わっちゃった私は、この後どうなるんでしょう? 家事や育児ばっかりの、退屈な出来事の繰り返ししかないんでしょうか?」

 突然の菜摘の悩みに、勇造がきょとんとした顔になる。

(ああ、変なことを言っちゃった)

 菜摘は慌てて話題を変えようとしたが、

「Are you kidding?」

 いつの間にか菜摘の正面に立っていたカノンさんが、口元にクールな笑みを浮かべたまま言った。

「全部終わったんじゃなくて、全部揃ったところから始まるんですよ。家庭を理想的なSweet homeにできるか、誰も寄り付かないHaunted houseにさせるかは、ナツミさん次第。責任重大です」

「ホンテ?」

「Haunted houseです。お化け屋敷のこと。冗談です。Mother Teresaはご存知?」

「マザー・テレサ?」

 唐突に話が飛んで、菜摘は当惑する。マザー・テレサ。インドで人道的な活動をした有名な修道女。

「知ってます……。詳しいことはわからないけど」

「彼女がノーベル平和賞を受賞した時の会見で、記者から質問されたんです。『世界平和のために私には何ができますか?』って。なんて答えたか知ってます?」「さあ……?」

 カノンさんは、一語ずつ読み聞かせるように、ゆっくり発音した。


「Go home and love your family」


 角度によって色を変える宝石のような瞳で、カノンさんは菜摘を見つめながら言った。

「家事や育児は、世界平和を成し遂げるための重要なMissionです。それは一見、単調で孤独なJobですが、ひとつずつBatonを繋いでいくように、確実に未来へと繋がっていきます。ナツミさんみたいなCuteな女性が、この国の未来と平和を支えてるなんて、日本は素敵な国ですね」

 カノンさんはそう言って、テーブルの上にあった菜摘の手の甲を、包むようにそっと撫でてから、陽太郎たちの方に移動していった。

 菜摘は、カノンさんに触れられた自分の手を見つめた。久しぶりに家族以外の他人の体温を感じた気がした。胸がドキドキしているのと同時に、温かい白湯を飲んだ時のように、体の内側にほんのりとした熱を感じる。

「菜摘さん、目がハートになってますよ?」

 隣で勇造がおかしそうに笑った。その笑顔につられ、菜摘も笑ってしまった。

 この店に来てから、ほんの短い時間で、今夜菜摘が欲しかったものをすべて与えてもらった。他人からの興味と、ほんの少しのドキドキと、やさしい労いの言葉。言葉にすると陳腐でくだらない欲求だが、今の菜摘にはどうしても必要なものだった。それは、砂地に降る雨のように心に染み込み、滋養に変わり、朝顔の蕾が早回しで開いて行くように、菜摘を笑顔にしてくれた。

 初対面なのに、自分でも思いがけず悩みを話してしまったのは、おそろく勇造の険のない人柄のせいだろう。そしてなにより、勇造がいなければ、今夜このバーには来れなかった。

「勇造さん、ありがとう。私、今日来てよかった」

 先ほどまで菜摘を取り巻いていたモヤモヤは霧散し、今は澄んだ気持ちで、隣に座る熊のようなゲイと、不思議な外国人バーテンダーに、心からお礼を言いたい気持ちだった。妄想していた夜とは全然違うが、ずっと良かったかもしれない。ゴー・ホーム・アンド・ラブ・ユア・ファミリー。本当にそうしようと、菜摘は思った。


 静かにバーのドアが開き、明るい声が響いた。

「ここかぁ! 看板ないから迷っちゃったよ」

 スーツ姿の直樹が現れ、みんなが歓声をあげる。

「直樹、遅すぎ!」

「今まで何してたんだよ!」

 口々に野次が飛ぶ中、直樹がドアを押さえながら言った。

「なんか謝りたいって言ってる人がいたから、連れてきたよ」

 直樹が体をずらすと、後ろから真紀が顔を出した。

「真紀!」

 航が勢いよく立ち上がり、座っていたスツールが大きな音を立てて倒れる。航はあわあわと立て直す。

 その様子を見て、勇造が菜摘の耳元でそっと囁いた。

「あっちにも、目がハートになってる人がいますね」

 菜摘は吹き出しながら、勇造に笑い返した。

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