第十五章 | 真紀

 駅前の人混みを逃れて入った店は、思いのほか居心地の良い小さなジャズバーだった。

 狭いカウンターは、真紀の肘の高さにちょうど合っていて、頬杖をつきながら咽ぶようなサックスの音色に身を委ねていると、強張っていた肩の力が抜けてくるような気がした。

 横に座る直樹は、傍らのレコードジャケットを熱心にひっくり返して眺めている。そんなふうに、さりげなくそっとしておいてくれる気遣いが嬉しかった。学生時代から、神経質そうに見えて、誰よりも飄々とした気配りのできる直樹ならではの芸当だなと思いながら、懐かしい気持ちで真紀は冷えた白ワインに口をつけた。

 十年ぶりの再会。無意識のうちに、どこかでずっと緊張し続けていたのだと、今になって気づく。

 彼はどんなふうに私を見つめるだろう。髪を切って生まれ変わった私を。

 正直期待よりも不安のほうが大きかった。それでも会えるというだけで、心の片隅で胸躍らせていたはずの気持ちが、今は跡形もなく消え失せて、ぽっかりと穴が空いたような喪失感だけが胸に広がっている。


 ちょうど直樹が手にしたジャケットが目に止まって、真紀は小声で呟いた。

「随分古いわね、『Angel Eyes』 ……。今の私にぴったり……」

 そう言われて、直樹はシナトラの色褪せた白黒ジャケットを目の前に掲げて、真紀を見つめ返した。

「また振られちゃったわ。懲りないわよね。でも、その曲の歌詞と同じように、まだ私の心の隅っこには陽ちゃんがいるの」

「うん……」

 相槌だけで何も問い返さない直樹に語りかけるでもなく、独り言のように真紀が続ける。

「今日、恋人を紹介されたの。これからの人生をずっと一緒に歩んでいきたい人。でもね、彼が誰を好きでも、私に一ミリも興味がなくても、私はあの頃と変わらず、馬鹿みたいに彼を追い求めることをやめられないの」

 どうしてだろう。卒業してこれまで、声をかけられた男は数え切れない。でも、そのたびに陽太郎の顔が思い浮かんで、誰とも本気で向かい合うことができない。まるで見えない痣を隠すように、気後ればかりが先に立って、前に進めなくなるのだ。もうそんな痣などどこにもないのに。

「痣を消して髪を切って、生まれ変わったつもりでいても、私はやっぱり醜い斑らの少女のままなの。好奇の目を逃れて、嘲笑におびえて、他人に求めるのは無関心だけだったあの頃と何も変わってないのよ」

 気づいたら涙がひとしずく頬を流れていた。自分を憐れんで流す涙なんて、もう枯れてしまったと思っていた。

 幼いころから繰り返しいじめられてきた記憶が、真紀をずっと厚い殻に閉じ込めてきた。痣を消して、呪縛から解き放たれたはずなのに、その記憶が心の痣になったまま、本当の自分を知らない人と接するときには、いつも秘密を隠し続けているようで、素直に自分をさらけ出すことができないのだ。

「陽ちゃんだけなの。陽ちゃんだけが私を救えるの」

 陽太郎とそれほど深い関係があったわけじゃない。でも、あのとき私は、初めて自分らしく他人と接することができたのだ。陽太郎の前で、痣さえも露わにしたときの正直な自分を今でも愛おしいと思う。バンビちゃんと呼んでくれた、あの甘美な瞬間が今でも昨日のことのように蘇る。

 その想いがもう永遠に叶わないと知りながら、十年間くすぶり続けてきた火種が、今また赤々と燃え始めようとするのを、真紀は止めることができなかった。


「そんなに想われるなんて、陽太郎が羨ましいな」

 それまで黙って耳を傾けていた直樹が、水割りのグラスを傾けながら呟いて、真紀に向き直った。

「真紀みたいなきれいに人にそこまで想われたら、男としては本望だと思うけど、でもね、真紀、陽太郎は結婚するんだろ?」

 真紀の頭に勇造の顔が浮かんだ。思い出したくない相手なのに、なぜか鮮明にその容姿が脳裏に映る。ずんぐりとした大柄の体つきと、髭面に愛嬌のある思慮深そうな瞳。不意に、この人が陽太郎の好きになった人なのだと痛感して、真紀は狼狽した。さっき告白されたにもかかわらず、ずっと追い求めていた陽太郎がゲイだったという事実が、眼前に突きつけられたようで、息苦しさを覚えて、大きく息を吸った。

「どうしたの、真紀?」

 心配そうにのぞき込む直樹に微かに首を振って、言葉を返す。

「ちがうの、ちがうのよ……」

 思っていたより声が震えた。直樹に陽太郎の告白を話したいけれど、自分から軽々しく伝えるのは憚られた。それに、その事実を伝えただけで、陽太郎への想いが粉々に砕け散ってしまうのが怖くて、真紀はただ眉をひそめたまま、ワイングラスの縁の一点を見つめていた。

「もしかして、陽太郎の恋人って、女性じゃなかった、とか?」

「えっ……?」

 突然の発言に、真紀は目を見張って、直樹を振り返った。

「いや、もしかしたらって思ってたんだ。あんなに格好良いのに、彼女とか浮いた話が一つもなかったから」

 瞬きも忘れたまま、真紀はただ黙って直樹を見つめ返した。沈黙が肯定の意味を伝えると気づいて、その視線を引き剥がすようにカウンターの上に戻すが、何を言えばいいのかわからない。再びワイングラスを見つめ直すと、店内の音楽も遠のいて、ただ直樹の言葉だけが胸の中で繰り返し響いていた。

 陽太郎が特定の彼女を作らないのは、そういった関係が煩わしいと思っているのだと信じていた。毎日のように言い寄ってくる有象無象の女の子たちに内心ではうんざりしていて、だからこそ、同じように無関心を求める自分にだけは、気安く接していたのだと。

 今思えば、最初からそんな思い込みなど、見当違いだったのだ。だって、陽太郎はゲイなのだから。

「それなら、どうして? どうして今夜私を誘ったりしたのよ……」

 直樹にというより自分に問いかけながら、後半は涙声になるのを真紀は抑えられなかった。

「十年間会わなかったんだから、ほとぼりが冷めたとでも思ったの? それとも友達として祝福してほしかったから? 佐衛子にも言われたわ、友達なら嘘でも祝福してあげるべきって。でも私は、陽ちゃんの数多くの友達の一人になったつもりはないの。誰にも心を開けず、ずっとひとりきりで悩んできて、それでも心の頼りにしていた人にようやく再会できたのよ。それなのに、こんなことってある? 思ってもみなかった恋人の登場を祝福できるほど、私は心が広くないの!」

 自分がみじめだった。久しぶりに会えた仲間たちに、昔とは違う自分を見せたかった。でも、こんなふうになるくらいなら、あの頃の暗い印象のままのほうがまだマシだったと、真紀は今日来たことを後悔し始めていた。


 長い沈黙のあと、直樹がぽつんと呟いた。

「真紀は、変わったね」

 振り向くと、直樹が真顔で真紀を見つめていた。

「この店に入ったとき、みんな一斉に真紀を振り返ってたよ。それに俺、さっきから羨望のまなざしってやつが矢のように刺さってるのがわかる」

 おどけたように顔をしかめる直樹に呆れて、自嘲気味に真紀が答えた。

「外見なんていくらでも変われるわ。そうしたいって願えば、誰だって」

「そうかもしれない。でも、俺が言ってるのは外見だけじゃないんだ。内面だって願って変われるし、実際真紀は変わったよ。だって、こんなふうに真紀と話したのは初めてだからさ」

 直樹が何を言いたいのかわからず真紀が黙っていると、水割りを一口飲んでから、直樹が話し出した。

「真紀は、みんなとは比べ物にならないくらい、辛い体験をしてきたのだろうと思う。それを乗り越えようと苦しんでいるのも、今真紀の話を聞いて初めて分かったよ。でも、もしかしたら、それと同じことを陽太郎も思ってきたんじゃないかな」

 陽太郎が? 眩しいくらいに学生生活を謳歌してきた陽太郎と私なんて比べ物にならない。

 反論しようと直樹を見返すと、真紀の視線を受け止めたまま直樹が話を続けた。

「だって、今日まで誰にも本当のことを言えなくて、自分らしく振舞うこともできなかったのだとしたら、それはやっぱり、僕らにはわからない悩みが沢山あったんだろうと思うんだ」

 不意を突かれて、真紀は思わず息を飲んだ。

 なぜ気づかなかったのだろう。好き好んで「無関心」を手に入れたいなんて思うのは、自分の弱みを暴いてほしくないからだ。自分がそうであったように。


 結局、陽太郎と私は同じような悩みを抱えたもの同志だったのだと、真紀は今初めて気がついた。それなのに、自分だけが甘えるばかりで、陽太郎の悩みに寄り添うことなど考えてもみなかった。

「陽ちゃんのコンプレックスは、私の痣と同じだったのね……。ずっと他人の目を気にして、本当の自分を隠して」

「陽太郎も変わりたかったんだと思うよ。真紀がそうしたように、自分らしく」

 直樹の言葉で、真紀はなぜ今回、陽太郎が卒業以来没交渉だった自分を誘ったのか、わかった気がした。

 勇造を紹介したかったのが最大の目的だったとしても、それを見せつけて私を諦めさせようとするにしては、十年間は長すぎる。逆に、友人として祝福してほしいというのも、かつて好きだと告白した女に対しては冷たい仕打ちのようで、陽太郎の性格を考えるとしっくりこない。きっと陽太郎は、自分らしく生きる道を選んだことを、真紀に伝えたかったのだ。そんな真紀の思いを後押しするように、直樹が言葉を続けた。

「誰にも言えない秘密があっても、それは決して、一生自分を苛み続ける負の材料であってはいけない。それは克服できるものだっていう、陽太郎から真紀へのエールだったのかもしれないよ」


 曲が変わって、軽快なピアノソロのイントロが流れ出した。どこか晴々とした気分になって、真紀が直樹に話しかけた。

「パーティールームから、何も言わずに飛び出してきちゃったの。みんなに会わせる顔がないわ。佐衛子にもひどいこと言ってしまって、謝らなくっちゃ……」

 そうだ、と言って、思い出したように、直樹がごそごそと鞄から何か取り出して、真紀の手のひらに乗せた。艶々と輝く大粒の蜜柑だった。

「幸運のおすそ分け。実は今日、不思議な出来事がたくさんあって、でもそのおかげで、俺は少しだけ自分を見つめ直すことができたんだ。この蜜柑をくれた行商のお婆さんがそんな機会を与えてくれたような気がしててさ。だから、真紀にも何か良いことが起こると思うよ、きっと」

 照れたように話す直樹の言葉を聞きながら、真紀は手のひらの蜜柑を見つめた。鮮やかな橙色が、心の中に小さな明かりを灯したような気がした。


 短い着信音がして、直樹が携帯を取り上げた。液晶画面から視線を外して、にこにこと真紀を見上げる。

「航からだよ。これからみんなで飲みなおさないかって」

 戸惑いながらも、もう真紀には仲間たちの誘いを拒むような、ネガティブな気持ちは芽生えなかった。

 誰もが振り向くような華やかな笑顔を直樹に向けて、真紀は小さくうなずいた。

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