第十四章 | 航
なかなか到着しないエレベーターに焦れて、航はホール脇の階段を駆け上った。ロビーに着くと、人混みをかき分けて入り口近くのカウンターに駆け寄り、恰幅の良いコンシェルジュに息を切らしながら尋ねた。
「今さっき出て行った女性! ショートカットでグレーのワンピース着てたすごい美人! どっちの方に行きました!?」
「は? お客様、どうなさいまし……」
「もういいっ!」
航は転がるようにエントランスを出た。すでに空は群青色に染まり、ぽっかりと口を開けたような満月が中空に浮かんでいた。車寄せで左右を見回したが、車道を行き交うヘッドライトと、歩道を行く人々のシルエットが見えるだけで、目的の姿は見当たらない。航はロータリーから歩道に下りる階段を一段抜かしで駆け下りて、駅へと向かう道を走り始めた。真紀がタクシーに乗っていたら追いつくことは不可能だが、徒歩で駅に向かったのなら、まだ間に合うはずだ。
街の灯に照らされて、金曜の夜の街は、昼間のように明るかった。歩道は幸せそうにそぞろ歩く人々で溢れ、その頭上を街路樹として植えられた桜の枝が、恥じらうように小さな蕾を揺らしている。航は人と人の隙間をバタバタと走り抜け、誰かとぶつかりそうになるたびに「すみません!」と大声で謝りながら、夢中で真紀の姿を探し続けた。
真紀があの個室に現れた瞬間、今まで直視できなかった自分の中のモヤモヤが、すっと霧散されていくのを感じたのだ。
自分は、奥手でも臆病でもなかった。
女性が苦手なわけでもなかった。
俺はずっと真紀を待っていたんだ。
九年前の雨の日、人を貶めることで自分の価値を上げようとした自分を、航はずっと後悔していた。誰かを好きになりそうになるたびに、あの情けない自分がまた表層に浮かんできてしまうのではないかと、ずっと恐れていた。そしてそのトラウマは、他のどんな女性を相手に克服しても意味のないことだった。
真紀に認めてもらう以外に、航が望むものはなかった。醜態を晒したあの日の自分を、真紀の中の航として定着させたくなかった。
つまるところ、ずっと真紀を想い続けてきたのだ。今日真紀に再会して、本当に遅ればせながら、航はようやくそのことに気づいた。
真紀が陽太郎の告白を聞いて個室を出て行った時、航も追いかけたかったが、佐衛子に先を越されたことで、立ち上がるタイミングを逸してしまった。カミングアウト直後に三人もが同時に部屋を出て行ったら、陽太郎が傷つくのではないかという咄嗟の配慮もあった。気づくと、真紀の座っていたテーブルの上に、シルバーのイヤリングが片方だけひっそりと残されていた。航はそのイヤリングをすくい上げ、丁寧にハンカチにくるみ、上着のポケットにしまった。
今、そのもう一方のイヤリングが、小さな生き物のように、手のひらの中で息づいているのを感じる。真紀に会えたら、いっとき離ればなれになったこのイヤリングたちを、真紀のもとに戻してあげよう。そして、自分の想いを伝えよう。どう伝えるのか、何を言うのか、まだその言葉は見つかっていないが。
もうすぐ駅が見えてくる辺りの緩やかな坂道で、航は不意に足を止めた。道路を挟んだ向かい側の歩道に、人目も憚らずに抱き合う男女の姿があった。男の方は背中しか見えないが、街灯に照らされた女性は、見覚えのあるショートカットに、ロングコートの裾から覗いているのはグレーのワンピースだ。
行き交う車が邪魔をして、二人の姿は途切れとぎれのフィルムのように、航の視界に現れては消えた。やがて男の言葉に小さくうなずくような仕草を見せた後、真紀はその男性に肩を抱かれたまま、駅の方角へ歩いていくのが見えた。
航は急いで近くの横断歩道を渡ろうとしたが、赤信号に止められた。目の前を車が流れてゆき、その向こう岸で、二人の姿は人波の向こうに消えてゆく。ようやく信号が青に変わった頃には、目的の背中はどこにも見当たらず、航はもう走り出すのをやめていた。
ぼんやりと横断歩道の手前で佇んでいると、ポケットの中の携帯が震えた。取り出してみると陽太郎からのメッセージで、『航、どこにいるんだ?』とあった。正直、このまま一人で帰ってしまいたい気分だったが、個室に鞄を置いたままにしていたし、せっかくの陽太郎のお祝いなのだと思い直し、『すぐに戻る』と返信して、航は元来た道を戻り始めた。
手のひらのイヤリングは、もう息づいてはいなかった。
個室に戻りドアを開くと、いきなり佐衛子の尖った声が響いた。
「菜摘、本気なの?」
驚いて立ちすくむ航を見て、陽太郎が小走りで寄ってくる。
「航、おかえり! どこに行ってたんだよ?」
「どうしたんだ?」
「いや、それが俺にもよくわからなくて……」
テーブルの上には冷めきった大皿が並べられ、それを取り巻くように、菜摘、佐衛子、そして陽太郎の恋人である勇蔵が座っている。
「そんなに責められるようなこと? 同級生と久しぶりに会うだけよ」
「ただの同級生じゃないでしょ? 元カレなんでしょ?」
「元カレじゃないわよ。片思いだったもん」
「同じことじゃない」
「佐衛子は何をそんなムキになってるんだ?」と、陽太郎。
「一体なんの話?」と、航が口を挟んだところで、佐衛子は椅子から立ち上がり、低い声で言った。
「私は嫌なの、いい加減な関係が。結婚しているのに、外に恋人作って、遊びのくせに恋だの愛だのって、自分を正当化する、そういうだらしない人が」
テーブルに置いてあったワイングラスを取り、半分くらい残っていた赤ワインを佐衛子は一気に飲み干した。
「菜摘は家族が大切なんでしょ? 娘さんが洋服選んでくれたって、さっき嬉しそうに言ってたじゃない。そんな幸せな家庭があるのに、なんで不倫みたいな真似するのよ?」
「会うだけよ? 会うだけでも不倫なの?」
「そうよ。だってあなた、遅くなってもいいなんて言ってたじゃない。そのつもりなんでしょ?」
「違うわよ!」
「ちょっと待った!」と、勇造が声をあげた。
「とりあえず、一旦座りな。サエちゃん」
勇造は、佐衛子のために椅子を引き、スイングボトルから新しいグラスに水を注いで、佐衛子に持たせた。
「らしくないな。どうしたんだ、サエちゃん?」
受け取ったグラスの水を一口飲んで、佐衛子は大きくため息をついた。
「ごめんなさい。バカみたいね。菜摘、ごめんね……」
もう一口水を含んだ後、グラスをテーブルに置いて、佐衛子は両手で額を押さえた。
「たぶん私、菜摘に嫉妬してるんだと思う」
「嫉妬? 佐衛子が? 私を?」
菜摘が心底驚いた顔で聞き返した。
佐衛子は顔を上げ、テーブルのグラスを見据えたまま話し出した。
「私、子どもの頃、母に捨てられたの。母が浮気相手に本気になって、家を出て行ったのよ。それ以来、ずーっと母を恨んできたし、あんな風な女になりたくないと思って生きてきたのね。だからさっき言った、浮気してるのに本気の恋だとかなんとか言って、自分を正当化している人が嫌いなのは、本当」
「私はそんな……」と言いかけた菜摘を、佐衛子が制した。
「でも、今日勇造さんや真紀と話して、気づいたのよ。私は結局、母を憎むがあまり、母とは違う生き方を求めすぎて、結果、母に嫉妬し続けているの。恋に溺れる女になりたくなくて、結局誰も本気で愛せなくなった自分を悔やんでいるの。今付き合ってる人だって、本当は家庭があるのを知っていて、でも気づかないフリして、これは不倫じゃないって、自分を騙して……」
「もういいよ、サエちゃん」と、勇造が佐衛子の肩を握った。
「君は、不感症なんかじゃないし、誰も愛せないわけでもない。ただ単に、正しい相手に巡り会えてないだけだ」
そういうと勇造は、スイングボトルを持ち上げ、佐衛子のグラスに水を注ぎ足した。
「俺は、三十過ぎまでずっと女性と付き合ってきたんだ。でも、いつもどこかしっくりこなくてね。『何かが違う』っていうモヤモヤがいつもどこかにあったんだ。だから、自分がゲイだって気付いた時には、うれしかったよ。やっと答えが見つかった気がしてさ」
陽太郎が、話し始めた勇造の横顔を、じっと見つめている。
「三十五で初めてゲイの世界に入って、『よし、これから本物の恋愛をするぞ!』って意気込んでさ。でも、何人かと立て続けに付き合ってみたりしたんだけど、やっぱりしっくりこないんだ。なんでだろう?って。相手を男性に変えれば、すぐに本気の恋ができるって思ってたのに、全然そんなことなくてさ。そもそも俺は人間として欠陥があるんじゃないか? なんてさ」
勇造は立ち上がり、サイドテーブルから新しいグラスを取り出すと水を注ぎ、一口飲んだ。
「そんな時に、エイトに会ったんだ」
勇造はグラスを手にしたまま、陽太郎の側に立った。
「最初は分からなかった。こんな若いイケメンが俺のことを相手にするワケないだろうって思ったしな。でも、付き合い始めてすぐに気付いたよ。『あ、こいつが正しい相手だ』って」
「正しい相手」と、佐衛子が呟く。
「誰も本気で愛せないってサエちゃんは言うけど、本気でする恋は、しようと思ってするもんじゃない。サエちゃんにとっての正しい相手が現れれば、自ずと本気になるもんだよ。いつかサエちゃんも必ず正しい相手に出会う。今まで君が抱えてきた、孤独や苦悩に見合うだけの、深くて大きな相手に必ず会える。俺がこいつに出会えたようにね」
勇造はそう言って、陽太郎の肩を叩いた。
「なんであんたが泣いてんのよ?」と菜摘に指摘され、航は自分が涙ぐんでいることに気づいた。自分でもよく分からない感情が、胸の中を熱くしていた。
陽太郎が急にポケットから携帯を取り出し、一読したあと全員に言った。
「今、直樹から連絡が来た。なんでか知らないけど、真紀と一緒にいるんだって」
「真紀と一緒!?」と、航は驚いた。じゃあ、さっきの男は……。
「ここに来るって?」と、佐衛子。
「いや、真紀が戻りたくないって言ってるらしい。あわせる顔がないって」と、陽太郎が携帯の画面を見せながら言った。
「どういうこと?」と、菜摘。
「はい!」と、航が手を上げた。みんなが航を注目する。
「今から二人と合流して、みんなで二次会に行こう!」
自分が真紀にとって「正しい相手」なのかどうかは分からない。でも、確かめる前に逃げるのはもうやめよう。今夜、もう一度真紀に会えたら、この気持ちをちゃんと伝えるんだ。
頭上に上げた手のひらを拳に替えて、航は大きくうなずいた。
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