第十三章 | 直樹
約束の時間より数時間も遅れて駅にたどり着いた直樹は、急いでタクシーを探す気にもなれず、行き交う人波を避けて、改札を出たロータリーの端で一息ついた。
散々遠回りしたはずなのに、駅前はいまだに週末の喧騒で賑わっていて、やっと到着した安堵感よりも、まだまだ終わらない一日をあらためて思い知らされたような気分になる。懐かしい友達との会合もノルマのように思えてきて、気持ちを入れ替えようと思ったのだ。
ぼんやりと雑踏を眺めていると、駅前はいつもの週末よりも一段と賑わっているように思えて、ふとそれが、街路灯に張り渡されたぼんぼりのせいだと気がついた。「さくらまつり」と書かれたピンク色のぼんぼりが、けばけばしくロータリーを彩り、その明かりのせいで、行き交う人々も淡くピンク色に染まって、一層華やいだように見えるのだった。
満開の桜ならば、こんなぼんぼりなどなくても、それだけで圧倒的に美しいのに、なぜ毎年このように人工的に盛り上げる必要があるのか、直樹にはわからなかったが、今夜はそのぼんぼりのおかげで、心なしか気分が晴れてくる気がする。
肝心の桜はどこにあるのかとあたりを見回すと、車道に面したロータリーの内側の円周に沿って、所々でほころび始めた蕾をつけた桜が、大きく枝を広げている。
そういえば、今朝のニュースで、来週が見頃だろうと言っていたのを思い出す。枝いっぱいにたわわに咲き誇る桜の花を想像して、こうやって毎年必ず冬が明けていくことに、直樹はふいに「再生」という生命の強さを感じて、新鮮な喜びとともに小さな蕾を眺めていた。
ちょうどロータリーに入ってきた車のヘッドライトで、束の間の物思いから我に返ると、通り過ぎた車の向こう側の歩道に、おぼつかない足取りでとことこと歩く男の子が目に入った。うしろから、母親らしい若い女性が小走りで男の子のあとを追いかけている。
その女性の顔を見て、直樹は思わず息を止めた。
少し秀でた額のライン、優しげな目元、片側で束ねた髪の形が、かつて一緒に暮らした恋人にそっくりだったからだ。まさかと思いながら、その遠い面影に目を凝らすが、薄闇に紛れて判然としない。近寄って確かめようと思うのだが、足が竦んで動くことができない。
歩き始めたばかりであろう男の子がつんのめるようになるたびに、母親が腰をかがめて助けようとする微笑ましい動作を繰り返しながら、ふたりの親子は自分のいる方向に向かって近づいてくる。ふと、自分たちのこどもも、産まれていれば同じような年ごろだったのだろうと想像して、胸を鷲掴みにされるような痛みが走る。その痛みから逃れようと、直樹は目の前の光景から視線を逸らした。
一昨年の冬、直樹は、何もかも失った絶望の中にいた。
学生時代から付き合い始め、二年間同棲していた優子との間に、新しい命が宿っていたことを知ったのは、彼女が切迫流産で運ばれた病院でのことだった。
小さな命が危険な状態にあるにもかかわらず、そのときの直樹は、なぜ優子が妊娠した事実を自分に隠していたのかという不信感だけで頭がいっぱいになっていた。
妊娠七週目に入っていたというのなら、その事実に優子が気づかないわけはない。それならば、秘密にしていた理由があるのだろう。ここ数ヶ月の二人のぎくしゃくとした関係を思い浮かべると、その理由が決して前向きなものでないことは想像ができた。
数時間に及ぶ検査と応急処置を施されたのち、大量の薬と安静を言い渡されて、その日は家に帰ることになった。
なんとか一命を取り止めた、か弱い命とともに乗り込んだタクシーの中でも、優子は何も話さず、ただ腹の上に置いた手のひらをうなだれたまま見つめているだけだった。その仕草は、お腹の子を庇う祈りのようにも、秘密を守る頑なな覚悟のようにも見えて、直樹は何も問いただすことができずに、暗く霞んでいく街並みを眺めていた。
その夜、底冷えのする狭いアパートの片隅で、優子は別れを切り出した。
いつのまにか仕事ばかり優先していた直樹との関係に、数ヶ月前から違和感を感じ始めていたこと。仕事に邁進する直樹を尊重したいと思いながら、そう思えば思うほど、自分と作る家族という団欒が見えてこなくなってしまったこと。そんな矢先、妊娠したことがわかって、産むべきか悩んだ際にも、なぜかもう直樹に相談するという選択肢さえ薄れてしまって、なによりもその気持ちに愕然としたこと……。
その告白は直樹の予想をはるかに上回っていて、優子をここまで思い詰めさせてしまったことに激しく後悔した。反論したいことも弁解したいこともあったけれども、憔悴しきった顔色の優子に、自分の気持ちを滔々と言い募るのも憚られ、その日は、やり直したいとだけ告げて、とにかくお腹の子のために安静を心がけるよう諭すにとどまった。
直樹としても、たった一日の間に妊娠と別れを告げられて動揺していたし、結婚という言葉が脳裏に浮かんではいたが、その一言が今の状況を救う切り札とはどうしても思えず、喉の奥に中途半端に詰まらせたまま、口に出すことができなかった。
優子がその言葉を望んでいたのかどうかは今でもわからないが、正直なところ、直樹は自分の家族を養っていくという責任を負うことに躊躇ったのだ。優子との関係を繋ぎ留めたいと思いながらも、そして、自分の子が確かにここでか細く息づいているにもかかわらず、自分の至らなさのせいで、自分を頼る家族を不幸にしてしまうのではないかという心配だけが先行して、大切な人を守る力も自信もない自分を憐れむだけで、どうしても前に踏み出すことができなかったのだ。
それから数日後、優子は流産した。
直樹はようやく自分の身勝手さと未熟さに気づいたが、何もかも手遅れだった。大切に育んできたすべてが両手からぽろぽろとこぼれ落ちていくのを必死で掬い上げるように、もう一度やり直したいと何度も訴えたが、優子の気持ちが変わることはなかった。
最後の朝、優子が出て行ったあとの部屋は、息づくもののひとつもない凍てついた箱のようだった。初雪が小さな窓に結晶を作って、そのままこの部屋を世界から覆い隠してしまうような気がした。
モノクロの世界の中で、そこだけが暖かな灯のように、テーブルの上には大粒の蜜柑と書置きが残されていた。そこには丁寧な文字で、こう書かれていたのだった。
『さようなら、直樹
あなたと出会えたことは、私にとって、これまでの人生で一番嬉しい出来事であり、一番悲しい出来事であったように思います
奇跡があるならと何度祈ったかわからないけれど、その奇跡がいつかあなたの未来に降り注ぎますように』
ふいに鳴り響くクラクションに視線を上げると、駅前のロータリーは相変わらずピンク色に浮足立っている。
近づいてくる親子の顔もピンク色に染まって、今ではその顔立ちもはっきりとわかる。さっき優子かと思った母親は、まったくの別人だった。相変わらず、男の子を先頭にして、かわいらしい行進を続けている。
直樹のいる場所まであと数歩というところで、つまづいた男の子が大きくバランスを崩した。手にした鞄とコートを投げ出して、直樹が両手でしっかりと男の子を抱きとめると、同じく手を差し伸べた母親と、子供を挟んで至近距離で目が合った。
柔和なまなざしに微笑みを浮かべて、若い母親が「ありがとうございます」と会釈を返す。そのまなざしに「いいえ……」とだけ短く告げて、直樹は立ち上がった。
いいえ……、ありがとうと言いたいのは自分のほうだ。一言も感謝の言葉も告げられず、ましてや心からの優しい言葉も謝罪の気持ちも伝えることができなかった。その後悔がずっと心に住み着いて離れない。この痛みは多分生涯消えないのだろう。
それでも、その痛みを抱きながら、僕らは前に進むしかないのだ。
あのとき、確かに僕らを繋いでいた絆こそが、奇跡だったのだと今ではわかる。ならばこんなふうに、何もかも投げ出して、抱きとめれば良かったのだ。守るべきものの前で、それ以上に必要なものなどあるはずがないのだから。
そんなことも気づかず、つまらない見栄のせいで、取り返しのつかない失敗をしてしまったけれど、それを悔いて、いつまでも凍てつく地面にうずくまってもいられない。何度悲しみに心が閉ざされても、僕らは誰かとの絆を求めて生きていくことをやめられないのだ。そうやって立ち上がることが、きっと僕らを再び次の季節に向かわせる力になるのだから。
「ほら、ナオキ、お兄さんに言うことがあるでしょ?」
母親に促されて、はにかみながら、男の子が直樹を見つめて声を上げた。
「ありがとうございました!」
ふいに柔らかな春風が、直樹たちを撫でるように吹き抜けていった。直樹は、自分を見上げる男の子の目線までしゃがみこんで微笑みかけた。
「どういたしまして。ちゃんと自分で言えるなんて、えらいね」
そう言って、自分と同じ名前の男の子の頭を軽く撫でる。傍らのコートと鞄を拾い上げて立ち上がると、荷物を持ったはずなのに、なぜか気持ちは軽くなった気がした。
「それじゃあ」
にこにこと自分を見つめる親子に手を振って、直樹はロータリーのタクシー乗り場に向かった。
タクシーに乗り込む前に、もう一度ほころびかけた桜の蕾を見上げると、満月に切り取られた枝の先で、小さな花がひとつ咲いていた。
ホテルへ向かうゆるやかな坂道を、タクシーが滑るように上ってゆく。
後部窓に頭をもたせかけて、直樹は今日一日の様々な出来事を思い浮かべていた。たった一日のことなのに、なんだか長い旅をしてきた気分だったが、その不思議な出来事のどれもが優しさに彩られているようで、穏やかな気持ちで目を細めた。
ぼんやりと沿道を眺めていると、ふと坂道を下ってくる人影が目に入った。記憶の中の面影とは随分違ってはいたが、うつむかせたその横顔に見覚えがあって、思わずタクシーを止める。料金を支払うのももどかしく、あわててタクシーを降りると、ほっそりとした後姿に声をかけた。
「真紀?」
重たかった印象の髪は軽やかなショートに変わっていたけれど、振り向いた表情は昔のままだ。形の良い眉を押し上げて、驚いたように真紀が直樹を見つめている。
「あぁ、良かった。人違いかと思ったよ。ずいぶん……」
そう言って駆け寄りかけて、直樹は坂の途中で立ち止まった。直樹を見つめる真紀の瞳が涙で盛り上がり、月の光に潤んでいた。
「直樹……」
足早に近づいた真紀が、何も言わず両腕を直樹の肩に回して抱きしめた。戸惑う直樹の肩口で、顔を埋めた真紀の首筋からは、ほんのりと桜の香りがした。
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