第十二章 | 佐衛子

「ちょっと待ってよ!」

 エレベーターホールで真紀に追いつき、佐衛子はその細い腕を後ろから掴んだ。

 振り向いた真紀の顔を間近に見て、ふいに言葉の接ぎ穂を失った。大きな瞳にうっすらと涙を滲ませ、下唇を噛んだその表情は、同性でもドキッとする色気があった。

(真紀、本当にきれいになった)

 あまり容姿に関して人を妬んだり羨んだりしたことのない佐衛子だが、久しぶりに会った真紀の美しさには、同じ女として軽い敗北感すら覚えた。学生時代の、ロングヘアに隠れるように辺りを伺っていた真紀と比べれば、まるで別人のようだ。ネックラインが大きく開いた襟元からは、整えた眉のような鎖骨が見え、肌は抜けるほどに白い。マッシュショートの髪を押し上げるように、当時は見ることのなかった形の良い耳が覗いている。

 その先端に先ほどまで光っていたシルバーのイヤリングが、右耳にだけないことに、佐衛子は気付いた。

「真紀、イヤリングが片方ないよ?」

 そんなことを言うために追いかけてきたわけじゃないのにと、自分でも半ば呆れたが、他の言葉が見つからなかった。

 真紀は探るようにそっと右の耳たぶに触れたあと、「ほんとだ」と小声で呟いた。

「きっと、個室で落としたんだよ。戻ろう?」と促すと、「いいの。安物だし」とうつむきながら頭を振った。艶のある髪の毛が揺れ、上品なフレグランスが香った。

「あのね、真紀。陽太郎の話に驚いたのは分かる。でもあんなふうに部屋を飛び出すのは、失礼だと思わない? 嘘でもお祝いしてあげなきゃ。友達ならそうすべきよ」

 ようやく言いたかった言葉を口にすると、真紀は一瞬驚いたような表情を浮かべたあと、クスッと笑った。

「佐衛子って変わらないね」

「なにがよ?」

「学生時代からよく言ってたわ、なになに『すべき』って。この本は読んでおくべき。あの映画は観ておくべき。どこそこへは行っておくべき」

「そうだったっけ?」

「私が陽ちゃんを好きになった時も言われたわ。『もっと冷静になるべき』って」


 学生時代、陽気でアクティブな佐衛子と、地味で内向的な真紀とは、重なる部分が少ない分だけ、肩肘張らずに付き合える友人同士だった。なにかとつるみたがる同年代の女子たちが苦手、という共通点もあり、意識的に距離を取りながら、付かず離れずの関係を保っていた。

 大学三年で、真紀が陽太郎に恋をした時も、佐衛子は傍観者を決め込むつもりだった。それまで何人もの男に言い寄られても靡かなかった真紀と、学部イチ人気者の陽太郎。面白い組み合わせだとは思ったが、自分には関係ないし、口を挟むいわれもない。

 ところが真紀は暴走した。当初は、陽太郎の方が真紀に気があるように見えていたのに、いつの間にか攻守が入れ替わり、突然陽太郎の分のランチボックスを持って来たり、一人暮らしの自宅に陽太郎を誘ったりと、積極的な真紀のアプローチが始まった。それは側から見ていても幼稚で一方的な求愛で、陽太郎も戸惑っているように見えた。

 もちろん真紀に悪気があったわけではなく、それまでの恋愛経験値が低いだけなのだったが、その露骨かつ強引なアプローチは、陽太郎の取り巻きたちから強い反感を買った。数名の女子たちから、あからさまな嫌がらせを受けた真紀は、落ち込むどころか、さらにエスカレートした。「陽太郎の住むアパートの最寄駅で、待ち伏せしている真紀を見かけた」という噂を聞いた時には、さすがにマズいと佐衛子は思った。

「もっと冷静になるべきよ、真紀。そんなやり方じゃ気持ちも伝わらないよ?」

 真紀を呼び出して佐衛子が注意すると、

「佐衛子まで邪魔するの? あなたも陽ちゃんが好き?」と真顔で問われた。

 その顔が、家を出て行った時の母の表情と被り、佐衛子はこれ以上関わるのはよそうと思った。


「佐衛子はいつも冷静よね。正しくて冷静」

 あの頃よりもずっときれいで、でもあの時と同じ表情をした、現在の真紀が言った。

「憧れるけど、私には無理。大好きだった人がゲイだったって聞かされて、知らないおじさんとイチャついてるところを見せつけられて、佐衛子みたいに冷静になんていられないの」

「別に私だって、冷静ってわけじゃ……」

「じゃあ、不感症?」

 佐衛子は絶句した。

「動じないし、本音出さないよね、佐衛子って。冷静っていうより、不感症って感じ」

 二の句が継げない佐衛子から視線を外し、真紀は細い指先でエレベーターのボタンを押した。

「それに、私にとって未だに陽ちゃんは『友達』じゃないの。相手が男でも女でも、お祝いなんてする気になれない。そんな感情も、佐衛子には分からないでしょうね。不感症じゃあね」

 チンと鈴の音がなり、目の前のドアが開いた。真紀は内側に乗り込むと、左耳に残ったイヤリングを外して、ドア越しに佐衛子へ手渡してきた。

「これ、あげる。多分個室に片方あるから。実はそこそこ高いの。じゃあね」

 佐衛子が引き止める間もなく、エレベーターが閉まった。

 鈍く光る鋼鉄のドアを呆然と見つめたまま、しばらく佐衛子は佇んでいた。右手には片方だけの銀のイヤリングが、小さなオブジェのように残されていた。


 エレベーターホールから個室に戻りながら、佐衛子は真紀に言われたことを考えた。

(不感症?)

 一度は少なからず心を寄せた勇造が実はゲイだった。立場は真紀と同じなのに、佐衛子はそれを聞かされて驚きはしたが、動揺はしなかった。不感症なのだろうか?

 布留川と大人の関係になってすぐに、彼が妻帯者だと知った。その時も、佐衛子は憤らなかったし、傷つきもしなかった。それも不感症だから?

「いつか佐衛子も分かってくれる日が来ると思う」

 ふいに、家を出て行った時の母親の言葉が耳元をかすめた。高揚したようなあの表情も目の前に浮かんだ。

 真紀や母のような女から見れば、確かに私は不感症なのかも知れない、と佐衛子は思った。母が家を出て行ったあの日から、心の一部に蓋をしている自覚はある。色欲、嫉妬、傲慢、堕落。母が陥った暗く深いそれらの穴に吸い込まれないように、感情を律しコントロールしてきた。誰かを愛しすぎて、現実を見失うような女にならないよう、十分に注意してきた。望み通りになっている気がしていたが、実はその副作用が「不感症」として現れているのかも知れない。

「許してあげてください。あなたのためにも」

 あのタクシー運転手はそう言った。

 個室のドアまであと数メートルの、ダウンライトに照らされたホテルの通路で、佐衛子は立ち止まった。

 私は母のようにはならなかったが、母より幸福になれているだろうか?


 不意に柱の陰から誰かが電話をしているらしい話し声が聞こえた。

「わかった。来週の土曜で。場所は正和さんにお任せします。うん、そうね。でもその日なら、ちょっとくらい遅くなっても大丈夫かも」

 柱の向こうでパステルピンクのワンピースの裾が、風にそよぐ花びらのように揺れていた。鈴を転がすように話すその声を、佐衛子は聞かなかったふりで行き過ぎ、個室のノブを回した。


 個室では男三人が酒盛りをしていた。

 戻ってきた佐衛子を見て、すでに少し酔っ払ったふうの航が、真っ先に声を掛けてきた。

「佐衛子、おかえり! あれ? 真紀は?」

「帰った、みたい」

「えー!? なんで?」

「なんでって……。あ、それよりこのイヤリングの片方落ちてなかった?」

 握ったままだったイヤリングを見せると、航は弾かれたように席を立ち、佐衛子の指先からイヤリングを奪うと、大慌てで個室から飛び出して行った。

 バタンと閉じられたドアを見つめ、陽太郎と勇造、そして佐衛子は、お互いの顔を見合わせた。

 先に視線を逸らして、俯いた陽太郎が、独り言のように言った。

「真紀は帰っちゃったのか。やっぱ、そういう反応になるのかな……」

 佐衛子はわざと明るい声で、陽太郎ではなく勇造に話しかけた。

「真紀はね、学生時代、陽太郎が好きだったのよ。だから、ちょっとビックリしちゃったみたい。私だって相当ビックリしたけどね」

 佐衛子はそう言って、自分でグラスにシャンパンをそそぎ、陽太郎を押しのけて勇造の右隣に座った。

「さあ、全部聞かせてもらうわよ。私にはその権利があるわよね? 勇造さん!」

「わあ、こいつが一番怖いんだよな。二人が知り合いだったなんて、あり得ねえよ!」

 気を取り直したようにおどけて席を立った陽太郎が、テーブルの大皿から料理をつまんでいる間、勇造はじっと佐衛子の顔を見ていた。そして、陽太郎には届かないくらいの小さな声で、佐衛子に言った。

「サエちゃん、どうした? 大丈夫かい?」

 心配そうに佐衛子の顔を覗き込む、勇造の丸い顔を見ていたら、不意に泣きたいような、甘えたいような気分になった。

「勇造さんが私と付き合ってくれなかったのは、勇造さんがゲイだったからなの?」

 からかう口調で言ったつもりだったのに、思った以上に湿った声が出てしまい、佐衛子は恥ずかしくなった。

 勇造は少し考えたあと、小さな声でこう言った。

「それもあるけど、サエちゃんは本気では俺に惚れてなかっただろ? そのくらい俺でもわかったよ」

 反論しようと息を飲んだが、言葉が出てこなかった。さっきバーカウンターで別れたあとに感じた、胸の温もりを思い出した。あの温もりに、激しい恋の名残はなかった。勇造は、頼りになる戦友で、心を許せる親友ではあったが、恋い焦がれたかと問われれば、確かにそれほどではなかったかも知れない。送別会で見せてしまった醜態は、恋慕というよりは、取り残されてしまう寂寥感の方が強かった気がする。

「私って、不感症だと思う?」

 通じないとは思いつつ、聞かずにはいられなかった。

「不感症? なんだよ、それ?」と勇造は笑った。

「あんな凄いデザイン作れるサエちゃんが、そんなワケないだろ? サエちゃんはまだ、本気で愛せる人と巡り合ってないんだ。ただそれだけだよ」

 通じないはずの質問なのに、勘の良い勇造は的を得た返答をしてきた。

 本気で愛せる人。

 駅前で見送った布留川の後ろ姿が浮かんだ。その背中はまるで恋のように赤く染まっていたが、それは夕日が映し出した、ただの見せかけだった。だからこそ、呼び止めもしなかったし、追いかけもしなかったのだ。

「何の話?」

 シャンパンを片手に戻ってきた陽太郎が、佐衛子の右に座った。

「サエちゃんの不感症疑惑の話」と勇造が笑った。

「不感症? 佐衛子が? んなワケねえじゃん!」と陽太郎も笑った。

 両側を旧友かつゲイのカップルに挟まれて、佐衛子は柔らかな毛布に包まれているような気持ちになった。同時に、呆れるほど単純な事実に気づいてしまった。


 私はまだ誰も本気で愛したことがない。


 中の様子を伺うように、個室のドアがそっと開き、ようやく菜摘が戻ってきた。

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