第十一章 | 菜摘
「この人は、俺の恋人です」
束の間の静寂のあと、みんな一斉に驚きの声を上げたけれど、菜摘はその実、陽太郎の言葉の意味がわからなかった。恋人って、この髭面の熊みたいな男の人が? 男同士なのに?
そんな菜摘の疑問が消化されないまま、陽太郎の言葉が続く。
「今日みんなに紹介したかったのは、彼なんだ。俺はゲイで、できれば彼とこれから先ずっと一緒に過ごしていきたいと思ってる。それを誰よりもみんなに伝えたくて、この場を借りることにしたんだ」
照れくさそうに、でも毅然と顔を上げて、陽太郎は全員を見回した。
「ずっと黙っててごめん。でもこれってやっぱ勇気のいることで、俺にその勇気をくれたのが、ここにいる勇造さんなんだ。彼がいるから俺は俺らしくいられるし、そうなれることが何よりも大切なことだって気づいたんだ。今までの俺が嘘だったわけじゃない。でも黙っていることもやっぱり俺らしくない。だから俺は俺の最愛の人を紹介することで、迷いなくみんなと今後も過ごしていけたらと思っている。もし良かったらだけど……」
何を言っているの? 今日は婚約者の紹介とばかり思っていたのに。
わけのわからない突然の告白に戸惑いを隠しきれず、菜摘は周りのみんなを見渡した。
唖然とした表情のまま微動だにしない佐衛子。どこか興奮した顔で陽太郎とその恋人を交互に見つめる航。真紀は、悄然と面差しをうつむかせて、右耳のイヤリングをいじっている。まるでそこを避雷針にして雷にでも打たれたかのように、唇を震わせながら。
誰も何も言わないまま数秒が過ぎるころ、ようやく菜摘にも状況を飲み込む余裕ができてきた。要は、陽太郎は男の人が好きで、私たちをずっと騙してきたのだ。
学生時代、何十人もの女友達に「紹介して」と頼まれるたび、「伝えてみるわね。でもあまり期待しないで」と答えながら、陽太郎の近くにいる自分に密かな優越感を覚えていたことも、急に鼻白んだ思い出として蘇る。
何か言わなきゃと思いながら、心に浮かぶのは負の要素ばかりだった。どうして今なの? 結婚はしないの? 子どもを持つことより、その男の人といることのほうが大切なの? 次から次へと大量の疑問があふれて窒息しそうだ。だって、私の大好きだった陽太郎が……。
沈黙を破って、航が大声を張り上げた。
「おめでとう、陽太郎!」
そう言って全員を振り向く。
「だって、そうだろ。一生を一緒に過ごす伴侶を見つけられたんだったら、それは、すごくめでたいことじゃない? しかもそれを一番に僕たちに伝えてくれたなんて、やっぱとても嬉しいことだと思うんだけど」
航の言葉に我に返ったように、佐衛子が落ち着いた声で続ける。
「そうね。婚約者のサプライズ登場より数百倍も驚いたけど、ふたりが幸せならば、それ以上とやかく言うことなんてないわ。おめでとう、陽太郎、勇造さん。私ずっと勇造さんが好きになる人ってどんな人だろうって思ってたの。まさかこんな近くにいたなんてね」
いつになく優しく目を細めて、佐衛子がふたりに歩み寄る。
「それにね、なんとなく合点がいったみたいで、すっきりした気分なの。陽太郎をよろしくね、勇造さん」
そう言って手を差し伸べる。
「サエちゃん……」
丸っこい手で、はにかんだように勇造が佐衛子の手を握り返したところで、航が声をあげた。
「そうとなったら、もう一度乾杯しなきゃだね。ふたりのこれからと、僕たちの変わらぬ友情に」
おどけたように微笑む航の合図で、菜摘もぎこちなく傍らのグラスを手に取った。
その時だった。ちょうど菜摘の正面に座っていた真紀が突然立ち上がった。椅子が床に擦れて、軋んだ音が鳴る。
「ごめんなさい、私はちょっと……」
誰にともなく、震える声でそう残して、足早に出口へ向かう。鈍色の扉が閉まる直前、佐衛子が呼び止めたが、その声は勢いよく閉じた扉に、虚しく跳ね返された。
真紀を追って佐衛子が外に飛び出した後、部屋の中には、菜摘と三人の男と、いたたまれない沈黙が残された。
テーブルの上には、さっきまで真紀がつけていた銀のイヤリングが、朽ち果てた抜け殻のように置き去りにされている。
それを見やりながら、菜摘ががその場を取り繕うように、わざと明るい声で話しかけた。
「ねえ……せっかくだから、お料理いただかない? もったいないわ」
そう言いながら、大皿に盛られたサラダに手を伸ばす。真紀が取り乱したことで、逆に少しだけ平常心を取り戻した気分だった。
きれいに盛りつけられたサラダを丁寧に取り分け始める。学生時代から、そんな女の子らしい役回りを率先して演じてきた。ゼミの三人の女子のなかで、男勝りの佐衛子と内向的な真紀に挟まれて、気立て良く、可愛らしく振舞ってきたのに、それに見合った待遇を受けてこられなかった理由が、今ようやくわかった。ずっと自分の魅力が欠けているせいだと思っていたけど、そうではなかったのだ。航は真紀に好意を抱いているという噂を聞いていたし、直樹にはすでに恋人がいた。みんなが憧れるのと同じように、菜摘も当時淡い恋心を抱いていた陽太郎は同性愛者だったのだ。呆れるほど明白な回答に、報われない自分を苛んでいたことが馬鹿馬鹿しく思えてくる。
でも、それだけ? 心のつかえが取れた理由は。
無意識に人数分の皿にサラダを取り分けながら、心の隅に潜む感情に目を向ける。
思えば、陽太郎の告白より前に、真紀がこの会に現れたときから、胸のうちがざわざわと波打っていたのだった。
卒業以来会わなかった真紀が、目も見張るほど綺麗になって現れて、どうしようなく湧き出る嫉妬を抑えきれなかった。痣のせいで影の薄かった真紀だからこそ、どこかで優位に立てていた心の余裕が崩れていった。真紀も私を追い抜いていく、そう思うと居ても立ってもいられなかったのだ。人生を謳歌する仲間たちのなかにいて、どこか満たされない思いを抱えてはいても、真紀よりはマシだと信じていたのに。
取り分け終わった皿にフォークとナプキンを添える。こんな気の利く行為も、この場では何の意味もないと思いながら、勝手に手が動く自分が滑稽だ。
でも、それでも、今だって真紀よりはマシだとあらためて優越感に満たされる。だって、あんなに綺麗になったのに、ずっと思い続けてきた男からはやっぱり振り向いてもらえないんだもの。
気づいたら、自然と言葉が漏れていた。
「かわいそうな、真紀ちゃん」
テーブルの向こう側では、三人の男たちが打ち解けたようにグラスを酌み交わしている。なぜ男という生き物は、あんなに単純に振舞えるのかと呆れる反面、初めて覗いた自分の心の内側に、こんなにもおぞましい感情が潜んでいたことに菜摘は愕然としていた。陽太郎のことも真紀のことも、結婚していながらなお、嫉妬し続ける心の醜さに心底辟易とする。
ひとりぼっちで取り残された気がして、誰かに救いを求めたかった。自分はそんな女じゃないと慰めてもらいたかった。克哉の、それに優菜の顔が浮かんで、思わず傍らのバッグを引き寄せる。携帯電話を探し当てたのと同時に、液晶画面が光りだした。着信を知らせるその光が救いの灯火のように思えて、あわてて画面に向き合うと、そこには、あのSNSで知り合った同級生の名前が眩しく輝いていた。
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