第十章 | 勇造

 バーカウンターに伏せていたスマートフォンから、お馴染みのメロディが流れ出す。エイトが好きな、エドなんとかという歌手の曲で、エイトが勝手に勇造の携帯に設定してしまった、エイト専用の着メロだ。電話でもメールでも、エイトからの連絡には毎回この甘く切ないメロディが流れる。しかし、いささかスピーカーの音量が大き過ぎたらしく、近くのカウンター席にいた数人の外国人客が驚いたように勇造を振り返った。

 慌ててスマフォを手に取りホームボタンを押すと、画面にエイトからのメッセージが光っていた。

『そろそろ個室にお越しください』

 敬語かよ。苦笑いしながら、勇造は『承知いたしました』とわざとこちらも敬語で返信した。四分の一ほどグラスに残っていたビールを一気に飲み干し、バーテンダーにチェックを頼む。先ほどの佐衛子の分も合わせて会計し、「よし」と小声で気合を入れてスツールから立ち上がる。


「俺の大学時代の友達に会ってくれない? 勇造さんを正式に紹介したいんだ」

 エイトからそう言われたのは、三週間ほど前のことだ。新宿三丁目の居酒屋のテーブル席で、エイトは珍しく緊張した面持ちで切り出した。

「正式に紹介っていうのは、つまり友達に話すってことかい? つまりその、カミングアウトすんのか?」

 枝豆を口に運ぶ手を止めて、勇造は尋ねた。自然と「カミングアウト」という言葉だけが小声になる。二丁目に近いこの居酒屋で、そんなことを気にする必要もないのだが。

「うん。今度大学時代の親友たちを集めて、飲み会をやるんだ。前に話したよね? 毎年やってるゼミ会のこと」

「ああ、ゼミ仲間と定期的に集まってる飲み会のことだよな?」

「そう。再来週の金曜日の夜にやるんだけど……、そこに一緒に来てくれないかな?」

「……どうして、急にそんな気になったんだ?」

 ゲイにとってカミングアウトは大きな問題だ。するかしないかで、大げさに言えば「人生」が変わってしまう。カミングアウトすることで、周囲に嘘をつかずに生きて行けるというメリットもあるが、根強く残る同性愛者への偏見や差別を、真正面から受け止める覚悟も必要だ。どちらが良い悪いということではないが、少なくとも単純な思い付きでできるものではない。

 勇造はこれまで、カミングアウトしようと思ったことは一度もない。古稀を超えた両親に告げたら、それこそ寿命を縮めてしまうかもしれないし、ようやくフリーで軌道に乗り始めたライターの仕事も、悪くしたら契約解除、そこまで行かなくても仕事の質が変わってしまう可能性は高い気がする。そんなリスクを取ってまで、カミングアウトする必要性は、勇造にはまったく見当たらない。

 エイトが勇造を連れて、友達にカミングアウトするということは、間接的に勇造も見知らぬ相手に、自分はゲイだとカミングアウトすることになる。それはそれで、勇造にとっても覚悟の要ることだし、エイトはそれも承知で頼んできているはずだ。

「どうしてって……」

 エイトは滑りの良くない舌に油を差すように、冷たいビールを一口飲んだ後、勇造の目をまっすぐ見つめてこう言った。

「勇造さんが、俺の『最後の人』だからだよ」

 飲みかけていたジョッキから、思わずビールを吹き出した。

「きったねーな! 勇造さん!」

「すまん、すまん」と、慌てて手元のおしぼりでテーブルを拭きつつ、上目遣いにエイトを見上げると、百人いれば百人が一瞬で恋に落ちるような、人たらしの笑顔がそこにあった。

「だから、一緒に来てほしいんです」

 思い切り抱きしめたくなる衝動を、勇造はかろうじて堪えた。この笑顔に抗う術を、勇造は知らない。恥ずかしくてもうエイトを見ることができず、小さく何度も頷きながら、テーブルを拭き続けた。


 個室に向かう前にトイレに寄り、洗面台で顔を洗った。鏡を見ながら、最近目立ち始めた白髪を手櫛で隠し、エイトに指定されたお揃いのジャケットの埃を払い、慣れないネクタイの結び目を整えた。引きつった頬を両手で一つ叩いて、もう一度気合を入れる。間接的とはいえ、勇造にとって生まれて初めてのカミングアウトなのだ。

 廊下の突き当たりにあるプライベートルームの場所は、ホテルに到着した直後に確認していた。ブルーを基調としたシックな円卓の部屋だ。今日の参加メンバーは、全部で七人。勇造以外は全員同級生だというから、年齢もみんな三十前後だろう。こんなオッサンがエイトの恋人だと紹介されたら、みんなはどういう反応をするだろう。せめてエイトに恥をかかせないように、飲み過ぎにだけは気をつけよう。


 トイレを出てプライベートルームの前まで行く。深呼吸をしてから、真鍮の把手を引きドアを開ける。それまで和やかに会話していたらしい空気が、入り口に現れた見知らぬ中年男をみて、潮が引くように静かになる。勇造は入り口で立ち尽くしたまま、ぎこちなく笑顔を作ってみた。『招かれざる客』のシドニー・ポワチエの気分だ。

「勇造さん?」

 聞き覚えのある女性の声が、勇造を呼んだ。張り付いた笑顔のまま、声の方向に目をやると、ついさっきバーで再会したばかりの佐衛子がそこにいた。

「なに? どうしたの?」と佐衛子が立ち上がる。勇造は頭が真っ白になった。「え? 佐衛子、知り合いなの?」

 勇造を紹介しようと立ち上がったエイトが、出鼻をくじかれた表情で二人を見比べた。

「この人がさっき話してたソウルメイトよ。え? 勇造さん、どうしたの? 何かあった?」

 自分に用があって現れたのだと信じて疑わない佐衛子に詰め寄られ、勇造は完全にフリーズした。

「佐衛子、違うよ。俺が呼んだんだ」と、取りなすようにエイトが言った。「え? 陽太郎が? どういうこと? 知り合いなの?」

「今日のスペシャルゲストだよ」

 エイトが、佐衛子ではなく、勇造を見つめてそう言った。

「え〜? 今夜って陽太郎の婚約発表会じゃなかったの?」と春らしいパステルピンクのワンピースを着た女性が不満そうな声をあげた。

「え? 陽太郎、婚約したの?」と、隣にいた猪首の男が驚いた顔でパステルピンクに問い返す。ラガーマンのような体型に髭面の芋顔。こいつはゲイ受けするタイプの男だなと、真っ白な頭の隅で勇造は思った。もう一人、エイトの隣に座ったショートカットの女性は、言葉を発さず、ただ印象的な大きな黒い瞳で、エイトだけを見つめていた。 

「婚約発表? 俺、そんなこと一言も言ってないだろ?」

「だって、知らせたいことがあるんだって言ってたじゃない。誰だって婚約か結婚の話だと思うわよ」と、パステルピンクが言った。

「じゃないとすると……」

 ラガーマンがそう呟くと、全員が勇造に視線を集めた。

「えっと……私は……」

「俺の恋人」

 勇造の言葉に被せるようにエイトが言った。

「は?」

「え?」

 パステルピンクとラガーマンは目を見合わせて声をあげた。

「ちょっと待ってよ。なんの話よ。勇造さんは私の友人よ?」

 未だに状況を把握できていない佐衛子が、陽太郎を責めるような口調で言った。

 ショートカットがエイトの横顔を穴があくほど見つめている。

 エイトはその視線から逃れるように入り口まで歩いてきて、勇造の隣に立った。テーブルを囲んで立ち尽くす同級生たちを見渡し、勇造の肩を掴んでもう一度言った。

「この人は、俺の恋人です」

 一拍の間を置いて、四人が一斉に声をあげた。

「えーっ!?」

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