第九章 | 航

 フロア一面が開放的にデザインされた地下のレストランフロアは、まるで海の底のようだった。必要最低限に抑えられたダウンライトが薄暗がりに浮かびあがり、小魚が跳ねるように、その光を弾いてあちこちのテーブルでグラスがきらきらと輝いている。

 フロントで聞いた今夜のゼミ会の会場は、そのフロアの奥の個室で、航は泳ぐようにフロアを横切って目的地を目指していた。華やいだ週末のテーブルは、熱帯魚のように色とりどりに着飾った客でざわめき、航もつられて顔がほころび、足取りも軽くなる。

 東京近郊の高校に赴任が決まってから、ここ数年は都心に出てくることも少なくなっていた。いつもなら、この時間には行きつけの居酒屋で同僚たちと与太話に笑いあっている頃だ。少しだけめかしこんで、こんなカッコいいホテルのレストランにいるなんて、浮足だって当然だった。彼女がいたら、こういうロマンチックな場所で、二人きりの特別な夜を過ごしたいと夢想もするだろうが、あいにく航にはそんな彼女はいなかったし、そんな場面を望んでもいなかった。

 気のおけない友達と騒いでいるのが、なにより一番楽しい。三十歳を過ぎてそんなことを思い続けているのもどうかと思うが、二人きりというシチュエーションにいまだに慣れず、気後ればかりが先行する。いつもの気の利いたジョークもセリフも、フリーズしたようにこわばって、ただ嫌われないようにと当たり障りなく振る舞うことしかできなくなるのだ。それならば、いっそ一人のほうが気楽だとさえ思ってしまう。

 遠い夏の日の、真紀との一件がそうさせているのかもしれないが、とにかく航は、今まで誰かに本心から告白したことがなかったのだった。


 クロムメッキの装飾が施された個室の扉を開けると、懐かしい顔がふたつ、航を振り向いた。

「おお、航!」

「久しぶりね」

 高い天井から下がったペンダントライトの下で、航を迎えたのは陽太郎と佐衛子だ。席を立って大股で航に近づいてくる陽太郎は、相変わらずというより、前にも増して精悍でカッコいい。そのまま覆い被さるようにハグしてきた。

 会うと必ずハグしてくるのは、チームメイトだったころからの陽太郎の癖だ。ゴツい陽太郎の背中にハグを返して、分厚い肩ごしに佐衛子に手を振る。

「相変わらず暑苦しいわね、ラグビー部」

 溜息と苦笑交じりに佐衛子が笑う。

 その言葉で、いつもより長めのハグを解いて、陽太郎が改めて航を見つめ目尻を下げる。誰もが虜になる魔性の笑顔だ。

「久しぶりだな、航。待ってたぞ」

「久しぶり、陽太郎、佐衛子。しかし、いきなりのタックルにはまいったな。ウォーミングアップもしてないのに」

「あれ? 高校ラグビーの監督が何言ってるんだか。それにあれはタックルじゃなくて、俺の最大級の友情の証なのに」とグラスにビールを注ぎながら、陽太郎が反論する。

「ずいぶん重そうな証なのね。受け取るほうも大変ね、航。でも、陽太郎も航も、なんだか一回り大きくなったみたい。トレーニング? それとも不摂生?」

「トレーニング」

「不摂生」

 佐衛子の問いかけに、二人の真逆の答えが重なって、三人で顔を見合わせて笑う。すぐに学生時代に戻れる、この気安さが何より嬉しい。グラスを鳴らして乾杯した後、佐衛子が口を開いた。

「でもいいわよね、男の人は恰幅の良いほうがモテたりもするから。さっき、バーで偶然会った昔の友達も、大きなクマのぬいぐるみみたいで、その安心感が魅力の一つだったりするし」

「へえ、佐衛子の昔の男の話、初めて聞くな」と陽太郎が茶化した。

「そんなんじゃないわよ。単なる友達。というより、ソウルメイトって自分では思ってるの。向こうは迷惑かもしれないけど、心の拠り所っていうか、そうねぇ、源泉掛け流しの温泉みたいに、尽きない癒しでいつも安らぎをくれる人なの」

 どこか遠い目で話す佐衛子は楽しげで、きっとその人との良い思い出がたくさんあるんだろうなと、容易く想像できる。航も楽しい気分になって佐衛子に言った。

「クマのぬいぐるみに温泉じゃ無敵だな。女子のツボを押さえてる。でも、佐衛子とぬいぐるみって何だか想像しづらいけど……」

「失礼ね。でも、ぬいぐるみ的な要素は航にもあるわよ。私、航はこの先、年を重ねるごとに、とんでもなくモテる気がしてるの」

「えっとさ、佐衛子。それじゃあまるで、今は全然ダメってことじゃない? 俺だって、彼女の一人や二人……」

「いるの?」と、佐衛子と陽太郎が同時に聞く。

「いないけど……」

 ひっかけるつもりもない佐衛子の問いかけに、すすんで自爆した形になった回答がおかしくて、またしても三人で笑いあった。


 ひとしきり笑ったところで、タイミングよく扉が開いて、菜摘が入ってきた。春らしい淡いピンクのスカートが軽やかに翻る。

「みんな、久しぶり。なにか楽しい話? 聞きそびれちゃったわ」

「んー、内緒の恋人の話かな。菜摘も混ざる?」

 佐衛子が菜摘にグラスを渡しながら、いたずらっぽくウィンクする。

「遠慮しとくわ」

 一瞬の間の後そう言って、グラスのシャンパンを一口飲んでから、菜摘が話題を変えるように明るく続けた。

「でも、なに? ここのインテリア。すごいお洒落。最近のホテルってこんなふうなのね。びっくりしちゃった」

 そう言って、部屋の中をきょろきょろと見渡す。

「そうなのよ、私もびっくり。ねえ、陽太郎、今日はどういうこと? こんな豪華な個室なんて予約しちゃって」

 佐衛子が半分呆れたように言う。

「それは、それだけのお膳立てが必要なイベントがあるってことじゃない? だって、見て。蝶ネクタイよ」

 菜摘の冷やかしに、へへっと陽太郎が笑う。そういえば、今日の陽太郎はやけに気合いの入った服装だ。アイボリーの蝶ネクタイを照れくさそうに触ってから、菜摘に問いかける。

「それはそうと、娘さん、優菜ちゃんだっけ? おっきくなっただろうな。いくつになった? 今日は旦那が子守?」

「四つになったばかりよ。オシャレにこだわるようになってもう大変。今日の私の服だって、優菜が選んだのよ。何か若ぶってて恥ずかしいんだけど」

 困ったように言いながら、菜摘はその倍も幸せそうだ。

「じゃあ、僕の服も優菜ちゃんに選んでもらえば良かったな。滅多にない高級ホテルで、何着てくか迷っちゃったよ。とは言え、最近また太っちゃって、選べるのはネクタイくらいなもんだけど」

 自嘲気味に航が菜摘に話しかけると、いつになく真面目な顔で陽太郎が切り返した。

「航は自然体で十分かっこいいよ。航みたいな先生に教えられる生徒は幸せだよな。きっと自分らしく生きることが、人生を豊かにするってことを教えてもらえる。おっと、せっかくのネクタイが歪んでるぞ」

 そう言って、陽太郎が腰をかがめて航のネクタイを直した。ものの数秒の出来事だったけれど、航にとっては思いもかけない陽太郎のセリフと行動だった。学生時代、やっかみ半分の色眼鏡で見続けて、誤解してたのは自分のほうだったのかもしれないと思い直す。それと同時に、どことなく緊張しているような陽太郎の雰囲気にも気づいて、それが航の気にかかった。


 二杯目のビールを飲み干すころには、お洒落な個室もすっかり当時のゼミ室のようになっていた。気兼ねない会話とジョークが飛び交うなか、佐衛子が陽太郎に聞いた。

「ねえ、今日は誰が来ることになってるの? 直樹は遅れるって連絡があったけど、まさかこの広い個室に五人だけなんてことないわよね?」

「サプライズゲスト? 誰かしら?」

 十中八九、陽太郎の婚約発表と決めてかかっている菜摘が、白々しく陽太郎に目配せする。

「ああ、それなら……」


「こんばんは」

 陽太郎の背後から声がかかる。ほっそりとしたシルエットにグレーのシフォンのワンピース。ショートカットの耳元には銀のイヤリングが揺れている。

 誰もが声の主を見つめたまま、言葉を失っていた。


「真紀? やだ、真紀なのね」

 佐衛子の問いかけにはなやかに微笑んで、真紀がうなずく。

「卒業以来ね。すっかりご無沙汰しちゃって。でも、みんな全然変わってないみたい。会えて嬉しいわ」

「……真紀ちゃん、別人みたい。髪切ったのね。すごく似合ってる……」

 驚きが覚めないまま、菜摘がつぶやくように話しかける。

「ありがとう、菜摘。お母さんになったのよね。話聞かせてもらうの楽しみにして来たのよ」

 そう言って、陽太郎の隣の空いている席に移動する真紀を、航はまばたきも忘れて見つめていた。

「久しぶり。よく来てくれたな、真紀。しかし、見違えちゃったよ。そうだ、えっと、シャンパンでいい? 航、悪いんだけど、そこの空いてるグラス取ってくれよ」

 陽太郎の呼びかけで、ようやく我に返る。

「お、おう」グラスを渡しながら、話しかける言葉を探して鼓動が跳ねる。

「久しぶり、真紀」

 短い航の言葉に、真紀は柔らかく微笑んだ。

「ありがとう。久しぶりね、航くん」

 卒業前のわだかまりも、痣とともに消え失せたかのようだった。目の前に座る真紀は、学生時代のミステリアスで内向的な印象などすっかり影をひそめて、凛としてしなやかな美しさが際立っていた。

 懐かしそうに陽太郎と話をする真紀を見ながら、不意に襲ってきた感情に、航は困惑していた。それは、迷いようもなく明白な恋愛感情だった。その、微笑むたびに花開くような唇が、短く切った髪から続く首筋のラインが、艶めかしく航の鳩尾辺りを熱くする。とめどなく湧きたつ思いに、抗うことさえ思いつかないまま、航は真紀から目を離せずにいた。

 今まで彼女がほしいなんて思わなかった理由が、この瞬間のためだったのだと、はっきりわかる。

 二度目だった。

 でも、前とは比べようのないほどの速さと深さで、航は恋に落ちたのだった。

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