第八章 | 佐衛子
ホテルのエントランスを抜けると、金色の照明に包まれた広いロビーラウンジには、多くの人々がグラスを片手に、ソファやテーブル席で寛いでいた。
おそらく半分以上が外国人客で、さざ波のように響く会話の中には、佐衛子の耳に馴染みのない言葉も混じっていたが、これから始まる週末を前に、誰もが華やいだ表情に見えた。
佐衛子は、入り口近くのコンシェルジュカウンターに向かい、今夜のゼミ会の会場を尋ねた。恰幅の良いアッシュブロンドのコンシェルジュが、端末で予約を確認したあと、流暢な日本語で「ご案内します」と佐衛子をエレベーターホールへと案内した。
エレベーターを降りると、正面に大きなバーラウンジがあり、アイランド型に設置された巨大なカウンターの周りでは、ドレスアップした人々が食前酒を楽しんでいた。
(こんなところに来るなら、もう少しお洒落してくるんだったわ)
ベージュのパンツスーツに、セルジオロッシのパンプス。決して恥じるような格好ではないはずなのに、この空間にいると自分の身なりがやけにみすぼらしく感じる。
いつものゼミ会は、居酒屋か、ちょっと贅沢しても小洒落たイタリアン程度なのに、今回に限ってこんな一流ホテルのレストランだなんて。おそらくホストの陽太郎が、フィアンセを紹介するのに思い切り背伸びしたのだろう。
(会費は割り勘だっていうのに)
小さくため息をつきながら、それでも心が浮き足立つのを佐衛子は感じた。仕事のことも、布留川のことも、失礼なタクシー運転手のことも、このゴージャスな空間にいる時間だけは忘れられそうだ。
ふとバーカウンターに座る一人の男性客に目が止まった。佐衛子と同じく気後れしているのか、大きな体をすぼめるようにして、一人でビールを飲んでいる。その横顔に見覚えがあった。
「お知り合いの方ですか?」
すぐに佐衛子の目線に気づいて、コンシェルジュが足を止めた。
「ええ、そうみたい……」
チラリと腕時計を確認したコンシェルジュは、佐衛子に言った。
「まだご予約のお時間より少し早いようです。お話しになって行かれますか?」
佐衛子は少し逡巡したが、直樹も遅れるようだし、時間通りに行く必要もないだろう。夜は長いのだ。
「そうね。そうします」
コンシェルジュは近くにいたスタッフを呼び、何か小声で手短に指示をした後、人好きのする笑顔を佐衛子に向けた。
「会場に向かう際には、バーテンダーに声をかけて下さい。他の者に案内させます。では、素敵な夜をお過ごしください」
コンシェルジュが立ち去るの見送ってから、佐衛子はバーカウンターに向かった。男の背後に回り、そっと声を掛ける。
「勇造さん」
男の背中が数センチほどジャンプした。その勢いで危うく倒れかけたビールグラスを慌てて両手で押さえながら、男は恐るおそるといった様子で振り向いた。その顔の口髭にビールの泡がついていて、佐衛子は思わず吹き出してしまった。
「やだ、勇造さん! あははは」
「え? サエちゃん? なんでここに? え?」
バーテンダーがにこやかに近づいてきた。佐衛子は笑いながら勇造の隣りの席を指す。
「ちょっとだけご一緒してもいい?」
「もちろんいいよ! え? でもなんで?」
まだ動揺を隠せない勇造の隣りに腰掛けて、佐衛子は白ワインをオーダーし、ようやく笑いを収めた。
「ああ、面白かった。勇造さん、ちっとも変わらないですね」
「こんなところで会うと思ってなかったもん。サエちゃん、どうしたの?」
「今夜は友達と食事会。勇造さんは?」
「俺もそんなとこだよ。いや、まさかこんなトコでねぇ」
ようやく落ち着いたらしい勇造は、懐かしい笑顔で佐衛子の顔を覗き込んだ。
「何年ぶりだ? サエちゃん、少し痩せたか? 髪型のせいかな?」
「勇造さんの送別会以来だから、二年ぶりくらい? 痩せてはないと思うけど、髪型は確かに変えたかも」
かつて大手出版社に勤めていた勇造は、人気月刊誌の編集者として活躍していた。その雑誌のデザイン制作を佐衛子の会社が受託していて、アートディレクターとしてアサインされたのが佐衛子だった。年齢は一回りも違っていたが、打ち合わせやゲラ校正のやりとりなどで会う機会が多く、仕事を通じて自然と親しくなった。
入稿前の数日はいつも戦場のようで、勇造と仕事をしていた三年半の間、何度オフィスで朝を迎えたのか覚えていない。でも佐衛子が徹夜をしている日はいつも、勇造も出版社のオフィスで付き合ってくれて、電話やスカイプで、励まし合いながら仕事をしていた。
一見マッチョで体育会系な勇造は、見かけによらず繊細な気配りの人で、メールの文面や電話の声だけで、佐衛子の調子や変化に気付いてくれた。仕事がうまくいかない時や、社内の人間関係に煩わされた時、佐衛子はそれを表に出しているつもりはないのに、「ディーナーミーティング」と称して食事に誘い出し、佐衛子の話を聞いてくれた。そんなさりげない優しさと思いやりに、佐衛子の心が揺れた時期もあったが、それはもう昔の話だ。
勇造が出版社を辞めると聞いた時には、佐衛子も真剣に転職を考えたし、それを全力で止めてくれたのも、ほかならぬ勇造だった。あれから二年。時折勇造のことを思い出しもしたが、あえて連絡を取ろうとは思わなかった。送別会の夜に見せてしまった醜態を思い出すと、合わせる顔がないというのが正直なところだった。
「でもサエちゃん、キレイになったね。恋人できたのかい?」
勇造が目を細めながら聞いてくる。他の男性ならセクハラとも捉えられかねないこんな台詞を、なんの嫌悪感も持たせず、さらりと言ってのけるのも、勇造ならではの技だ。
「いますよ、恋人の一人や二人」
「嘘つけ。そんなタイプじゃないだろう」
「バレたか。恋人はいません。相変わらずです」
ふと、布留川の顔が脳裏に浮かぶ。もし布留川が独身だったら、「恋人ができた」と勇造に話せただろうか?
「私のことなんかより、勇造さんはどうなのよ? 彼女は?」
勇造から付き合ってる女の話を聞いたことがない。モテないわけはないと思うし、一緒に仕事をしていた時期に、飲みの席で何度か聞き出そうと試みたこともあったが、いつもはぐらかされてしまっていた。仕事仲間にプライベートを持ち出さない主義なのかも知れないと思っていた。
「いるよ、恋人の一人や二人」
「そっちこそ嘘ばっかり」
「バレたか。恋人は一人だけできました」
「え?」
思わず勇造の顔を覗き込むと、照れたように目をそむけた。瞬間的に左手を見たが、リングはなかった。
(そういうことか)
きっと今夜は恋人の誕生日か何か(もしかしたらプロポーズかも知れない)で、特別なディナーなのだろう。今この瞬間、恋人が現れて佐衛子を見たら、いくら元仕事仲間だと説明しても、嫌な思いをさせてしまうかも知れない。
「あ、大変! もう時間だ。行かなくちゃ」
連絡がきたふりでスマフォをのぞき、佐衛子は言った。財布を出そうとすると、勇造が止めた。
「サエちゃん、急いでるんだろ? ここは俺に任せな。代わりに今度メシでも付き合ってくれよ。フリーで働いてると人恋しくてさ」
いつも、なんだかんだ佐衛子の負担にならないような理由をつけて奢ってくれる人だった。たぶん今、佐衛子のスマフォに何も届いていないことも、この人は気づいているのだろう。そういう人だ。
二年前の送別会の夜、三次会を終えて、最後に二人で飲み直そうと入った居酒屋で、悪酔いした佐衛子が想いをぶつけた時も、勇造ははぐらかしたり冗談にしたりせず、しっかり佐衛子の言葉を受け止めてくれた上で、「サエちゃんの気持ちには応えられない」とキッパリと言ってくれた。そして「酒の勢いで告白なんかしちゃダメだ。せっかくの恋心がもったいないよ」と、真剣に諭してくれた。
(この人に愛された人を見てみたいな)
でも今夜はやめておこう。アニバーサリーの邪魔をするのは無粋すぎる。
「ありがとう、勇造さん。近々お礼します」
スツールから降りると、ホテルのスタッフが来て「こちらへどうぞ」と案内してくれた。歩き出してから一度振り向くと、勇造が何やら嬉しそうな表情でスマフォをいじっている横顔が見えた。一瞬だけ胸にチクリとした痛みが走ったが、それはすぐにほんのりとした温もりに変わった。その温もりを抱いたまま、佐衛子はゆっくり奥の部屋へと進んでいった。
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