第七章 | 直樹

 ラッシュの時間にさしかかった電車は、東京に近づくにつれてその密度を増していった。通勤ラッシュならいざ知らず、帰宅ラッシュでも東京行きがこんなに混むとは意外だったが、それよりも、窮屈な車内でも他人に無関心のまま大人しく乗り続ける乗客の胆力に、あらためて感心させられる。

 二つめの橋を渡る車窓の外は、いつの間にか夕焼けに取って代わった青白い月明かりが、河川敷を薄闇に包み始めていた。

 つり革を掴む直樹の前には、その窓に軽く頭をもたせかけて、幼女を膝に乗せた若い母親が目を閉じている。傾けた首の角度が、膝の上で眠っている娘とまったく同じで微笑ましい。


 レールの継ぎ目をタタンタタンと踏み越える音を聞きながら、さっきの不思議な老婆と蜜柑の橙色を思い浮かべる。同時に、復唱できるほど読み返したあの日の書き置きの文面も。それは、決して短かったとは言えない僕たちの蜜月を締めくくる、短く残酷で、真心に満ちた最後の贈り物だった。

 混雑した車両の中でふいに孤独感に襲われて、直樹はあたりを見渡した。ここに乗り合わせた乗客は、同じ電車に揺られて同じ方角に向かっているのに、それぞれ違う場所を目指して、お互いを知らぬまま去っていく。その情景は、もしかしたら家族であっても同じなのかもしれないと、ふと想像する。幸せになりたいと願っていても、それぞれの目指す形が違えば、いつかは離れてしまうものなのではないだろうかと。

 いや、家族は違うな。家族は運命共同体だから、ともに幸せになることを目指している。それならやはり、僕たちは家族になれずに、ただ乗り継ぎの駅まで一緒に電車に揺られていただけの乗客に過ぎなかったのだろう。


 気持ちが堂々巡りして、結局ふさぎ込んでしまうのを自嘲して、切り替えようと、直樹は今夜のゼミ会のメンバーを思い浮かべた。学生時代にゼミで知り合っただけのメンバーなのに、よくぞこんなに個性的な連中が集まったものだと苦笑する。それぞれが見た目も性格も人好きのする魅力的な面々なのに、少し角度を変えるだけで、陽の当たる部分と影になる部分ががらりと変わる、そんなメンバーだった。

 今夜のホストの陽太郎は、大学一の人気者で、スポーツマンらしい爽やかな容姿に加え、機知に富んだ性格という抜群のバランスの持ち主だ。誰もが憧れる兄貴的な存在だが、その完璧過ぎるキャラクターのわずかな隙間からは、どことなく厭世観が見え隠れする。分厚い鎧を着込んでいるのに、飄々とした風情のせいで、その重さを誰にも感づかせない。

 グループ一の現実主義者で、人にも自分にも妥協を許さない佐衛子は、一目も二目も置かれるSキャラの美人だ。なんでもズバズバと本音で話し、クールに振舞ってはいるが、本当は誰よりも一番傷つきやすい。防弾ガラスのように見えて薄氷でできている心を、周囲はみんな気づいているのに、なぜか本人だけが気づいていない。

 その反面、ふわふわと捉えどころがないようにみえる菜摘は、夢見がち迷いがちな言動の裏で、自分で決めたルールに縛られて、その決断は保守的で揺るぎない。僕らのなかで唯一結婚していて、若くして一児を授かった気負いがそうさせているのかもしれないが、手にした地図を読みながら、結局遠回りしてしまうようなタイプだ。

 真紀と航が今夜来るのかわからないが、二人の性格はまるで対照的だ。誰も寄せ付けないようなオーラを放つ真紀は底なしに内向的な性格だし、誰に対してもオープンな航は青天井なほどの外向性を持ち合わせる。真逆に見える二人だが、他人に本心を見せないという点では実はよく似ている。どちらも何かを隠しているようで、掴みどころがない。


 暇に飽かしてかなり穿った見方をしてしまったが、こう考えると、自分も含めて、誰もが人に言えない秘密や欠点をどこかに抱えている。それは誰よりましとか、誰より不幸という類のものでなく、これからの長い人生で自分と折り合いをつけていかなければならないものなのだろう。

 三つ目の橋を渡るとき、一直線に月に向かって伸びる河が、何かの道筋のように見えた。上流ではいくつも蛇行を繰り返した流れも、河口付近では穏やかに淘汰されて、川幅を広げ迷いなく進んでいく。きっと僕らはまだその流れの途中なのだ。水面に織り込まれた月の光が瞬いて、直樹はそれが自分たちの行き先を照らす、希望の暗示に思えた。


 次の停車駅を知らせる車内アナウンスが響く。前に座る若い母親がはたと気づいたように、慌てて降りる準備を始めた。腕の中の幼女はまだ半分眠ったままだ。ホームに電車が滑り込むと、母親は荷物と娘を抱えて立ち上がり、混雑した車内をかき分けるように出口へと向かう。床に落ちている小さなマスコットに直樹が気づくのと同時に、降車ドアの手前で目を覚ました娘が大声で泣き出した。急いでマスコットを拾い上げると、直樹は母娘の後を追って電車を降りた。しゃくりあげる娘の目の前にマスコットを差し出すと、直樹の背後では、泣き止んだ娘に代わって、けたたましくホームベルを鳴らして電車のドアが閉じた。

 お礼を言う若い母親に会釈を返して、母親に促されて伸ばした娘の小さな手のひらに、直樹はマスコットを乗せた。涙で濡れた大きな瞳がほころぶように微笑む。

 何度も振り返り、頭を下げる母親に抱かれながら、手を振る幼女が握りしめたマスコットは、鮮やかに輝く青い鳥だった。

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