第六章 | 航

 残業して先週のテストの採点していると、教員室の代表電話が鳴った。電話を取った金子先生が、航(わたる)に声を掛けてきた。

「古橋先生、二番にお電話です。本屋さんから」

 本屋? なんか注文したっけ? 首を捻りながら受話器を取ると、冷ややかな男性の声が聞こえた。

「日大通りの海青書店です。実はお宅の生徒さんがウチで万引きされまして、いま事務室に保護しているのですが……」

「はあ!?」

 思わず大声が出た。職員室に残っていた全員が、航を見る。彼らの視線から逃れるように体を丸めて、小声で「今からすぐ行きます」とだけ告げて電話を切った。

「どうしたんですか?」と金子先生。

「いや、ちょっと……」

 航は上着だけつかんで、外に飛び出した。


 書店の事務室に入ると、見知った生徒がパイプ椅子に座ってうなだれていた。石井嵐。背番号十二。

「ご迷惑をお掛けして申し訳ございません!」

 事情はわからないが、とりあえず航は深々と頭を下げた。その姿勢で、目だけで嵐を睨んだ。嵐は航を見ずに、青白い顔のまま俯いている。

「通常は即刻警察に通報することになってるのですが、ちょっと商品が商品なだけに、こちらも躊躇ってしまいまして」

 店長と名乗ったその男の口調に、微かな侮蔑と嘲笑が混じっているのに気付いた。

「商品?」

「こちらです」

 目の前に突き出されたB5版サイズの雑誌の表紙には、裸の男たちが絡み合いながらカメラ目線で微笑んでいた。

「とは言え、見過ごすわけにもいかないんで、本人に保護者になる人を尋ねたところ、古橋先生だと言うので」

 航は平身低頭で詫び続け、どうにか警察沙汰にはならずにすんだ。嵐を連れて表に出ると、通りには雨が降り始めていた。そのまま帰すわけにもいかず、嵐を連れて近くのラーメン屋の引き戸を開けた。


 石井嵐は、航の勤める私立高校の二年生だ。直接の受け持ちではないが、航が顧問をしているラグビー部の部員なので、人柄はよく知っている。ポジションは左センター。アシストばかりの地味な役回りだが、文句も言わず黙々と練習に取り組む姿は実直かつ熱心で、生徒としてもラグビープレイヤーとしても、航は嵐を高く評価していた。

「なんで万引きなんてしたんだ?」

 瓶ビールを自分のグラスに手酌しながら、航は尋ねた。

「……欲しかったから」

「万引きの言い訳にはならんだろ? 金がなかったのか?」

「違います。レジに持っていくのが、恥ずかしくて……」

「なるほど」

 航も高校生くらいの頃は、レンタルショップでアダルトビデオを借りるのが、恥ずかしくて仕方なかった時期があった。しかし、それとこれとは羞恥の種類が違うのかも知れない。よく分からない。だが、少なくとも自分はリベラルな考えを持っているし、性的指向で差別をするような教師ではないということを、嵐には伝えておきたかった。

「万引きは二度とするな。恥ずかしくても欲しければ、金を払って買え。あと、エロ本は恥ずかしがっても良いが、自分のセクシャリティは恥ずかしがるな。お前はお前らしく生きろ」

 ちょうどラーメンが来た。もう言うこともないので、黙ってラーメンを啜っていると、向かいの席で嵐が、ラーメンを食いながら泣き始めた。

「俺、自分らしくなんかなりたくないっす。こんな自分、ホントに嫌なんです」

 他に客はおらず、薄い引き戸の向こうからは、外の雨音が聞こえた。押し殺した嵐の嗚咽を聞きながら、航は昔のことを思い出していた。

「らしくないよ」

 そう言われたあの日も雨が降っていた。九年前のことだ。


 大学時代に本気で好きになった女子がいた。真紀という名のその同級生は、顔や体にいくつかの痣があった。本人はそれを気にして、ファンデーションで隠したり、夏でも長袖を着たりしていたが、逆に航には、それが真紀が他の女性とは違うという「サイン」のように思えた。無口でミステリアスで、誰よりも大人びていて美しかった。それなのに、おそらく小さなコンプレックスのせいで、周囲を遠ざけ、いつも孤独の中に身を置いているような風情も、航にはとても魅力的に映った。

 対して航はと言えば、地味な顔立ちの三枚目キャラで、高校からやっていたラグビーのおかげで仕上がったずんぐりむっくりな体型に、じゃが芋のような丸顔、五分刈りの頭に、常時ラガーシャツという、女性にモテる要素は皆無な学生だった。時々駆り出される合コンでも、航はいつもお笑い担当のサブキャラで、おいしいところはいつもシュッとした二枚目のチームメイトに持っていかれてしまう。

 でもそれを不服に思ってもどうしようもないと航は覚っていた。人には持って生まれた「役割」がある。俺には人を笑わせたり、持ち上げたりする才能がある。いつかそんな俺を認めてくれる女性も現れるだろう。俺は、俺らしくいよう。

 だから、真紀のことは大好きだったが、自分のものにしたいとは思っていなかった。真紀に釣り合うのは自分なんかじゃない。真紀には、自分が逆立ちしても敵わないような、年上で魅力的で、格の違う男と付き合ってほしい——。

 それは美しい踊り子を慕う傴僂の想いにも似ていた。時折、航が繰り出すジョークに、真紀が楽しそうに笑ってくれるだけで、嬉しさを超えて誇らしさすら感じるのだった。


 そんな真紀に、恋の噂が湧いたのは三年生の夏だった。相手はなんと、同じゼミかつ同じラグビー部の陽太郎だという。

 ショックだった。ラグビー部のエースで、明るくハンサムな陽太郎は、誰からも好かれる好青年で、航とも親しかった。人気者なのに、どこか醒めているような態度も、航は好きだった。

 でも真紀の相手となると話は違う。あんな分かりやすくて手近な男に惹かれるなんて。真紀には、陽太郎の周りに群がる、チャラチャラしたグルーピーたちと一緒になってほしくない。陽太郎と真紀が二人きりで一緒にいる姿を思い浮かべただけで、頭がおかしくなりそうだ。美しい踊り子が結ばれるのは勇敢な騎士であって、あんな見てくればっかりの筋肉バカじゃダメだ。絶対ダメだ!


 思い余って、授業帰りに真紀を喫茶店に誘った。噂が本当なのか確かめたいだけだったのだが、なぜか気づいたら、航は陽太郎の悪口を並べ立てていた。

 あいつは人気者な自分を鼻にかけて、調子に乗っている。あいつはいろんな女に手を出してるくせに、特定の彼女を作ろうとしない。あいつはレギュラーになれない部員を見下している。あいつは他人にピエロをやらせて、おいしいところだけ持っていく。あいつは、あいつは……。


「らしくないよ」


 目を上げると、テーブル席の向かい側で、真紀は真っ直ぐ航の顔を見ていた。その目には、強い怒りと、少しの憐憫が混じっているように見えた。

「航くんらしくない」

 何も言えずに固まってしまった航をじっと見つめた後、真紀は黙って席を立ち、ガラス戸を押して店を出て行った。外はいつのまにか雨が降っていたが、真紀は走り出すでもなく、カバンで避けるわけでもなく、堂々と背筋を伸ばしたまま、雨の向こうに消えていった。

 取り残されたテーブルで、航は落ちてくる雨を見ながら、しばらく動けずにいた。


「らしくないよ」


 ヘラヘラ笑って、周りを盛り上げてさえいれば「俺らしい」のか? 

 惚れた女を友達に取られても、指を咥えて見ていれば「俺らしい」のか?

「ふざけんなよ」

 小声で呟くと、ちょうど水を差しに来ていたウェイトレスが驚いたように動きを止めた。

「あ、すみません。ひとり言です、ひとり言。ハハハ……」


 もう九年も前の話なのに、いまだにあの時のことを思い出すと、航は自分を殴りたくなってしまう。それは甘酸っぱい青春の思い出というよりは、自分の本性を垣間見てしまったトラウマのような記憶だ。

 そう言えば今週の金曜、久しぶりに陽太郎と会うことになっている。報告したいことがあるのだと、連絡をもらったのだ。他にも同級生が何人か来るらしいが、まさか真紀は来ないだろう。あの後、真紀とは一言も会話せずに卒業してしまった。真紀は陽太郎に振られたらしいと、風の噂に聞いた。


「先生?」

 いつのまにかラーメンを食べ終わった嵐が、航の顔を覗き込んでいる。

「お、すまん。食い終わったか? じゃあ行こうか」

「今日はありがとうございました」

 ひとしきり泣いて気が済んだのか、いつもの嵐の顔に戻っている。

「ああ。もう二度とこんな……」

「ついでに、もうひとつ聞いてもらっていいっすか?」

「ん?」

 嵐は一度息を止め、ふーっと吐き出してから大声で言った。

「俺、古橋先生が好きです!」

「はあ!?」

「ごちそうさまでした!」と嵐は勢いよく立ち上がり、逃げるように引き戸を開けて、雨の中に走り去っていった。

 取り残されたテーブルで、航はあの日のように、しばらく動けずにいた。

「ふざけんなよ……」

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