第五章 | 勇造

 眠気を誘う春の風に目をこすりながら、ふと見上げると、ほころびだした桜並木が公園の空をほんのりピンク色に縁取っている。いつものベンチに座ったまま、書きかけの原稿と赤ペンを脇に置いて、勇造は軽く目頭を押さえた。やっぱそろそろ老眼鏡が必要だな、と思いながら、いやいやまだ大丈夫と変な意地を張る。この髭面に眼鏡なんてかけたら、またエイトが喜びそうだから、もう少しだけ先に取っておこう。楽しみは少しずつ、そう独り言ちて大きく伸びをした。

 平日の午後の公園では、ベビーカーを押した親子連れと散策に来たオバサマたちの華やかな笑い声が、のどかに陽だまりを揺らしている。

 執筆に行き詰まると、勇造はたびたびこの公園に気分転換に来ていたが、こんな平和な空間を堪能できるのはフリーライターの特権だよなと、世間に申し訳なく思いながらも、あらためて今の境遇に感謝する。


 一昨年の春、昼も夜もないような激務で体調を壊し、二十年勤めた出版会社を辞めた。フリーライターなんかで食っていけるのかと不安もあったが、昔の誼でいくつか仕事を回してもらううちに依頼も増え、男一人暮らしていくには思っていたより悠々自適な生活を続けている。会社勤めだったときより、むしろ運が向いてきた気分だった。

 でも、何より勇造がそう思えてしまうのは、その年の夏に、エイトと出会えたからに違いなかった。

 一昨年の夏、昼間の暑ささえ吹き飛ばすような熱気を放つ街角を、勇造は頼まれた買い物を済ませて店に向かっていた。ネオンとクラブミュージックで彩られた通りでは、Tシャツ短パン姿の男たちの笑い声が響き、煌びやかな週末の饗宴が繰り広げられている。はちきれそうなタンクトップのマッチョに目を奪われながら、だんだんこの街に馴染んできている自分に気づく。

 勇造が初めてここに足を踏み入れたのは五年前。こっちの世界では遅咲きの部類だ。それまでは普通に女の子と付き合っていたが、ある日、ふと手にしたこっち向けの雑誌で、自分は男が好きなんだと気がついた。それは長年の謎が鮮やかに解けるみたいにすとんと胸に収まって、世間で言うような性的指向に対する悩みも戸惑いもなく、むしろごく自然なこととして前向きに受け入れられた。

 秘かに憧れていたマッチョやガチムチとは程遠い体型ではあったけれど、勇造のような固太りで腹の出たタヌキ親父でも、この街では結構需要もあって、その日以来この賑やかな街角は勇造にとって週末のホームタウンになった。いつの間にか常連になったバーでバイトに誘われ、駆け出しのフリーライターの収入を補うことを建前に、下心も加勢して、一も二もなく引き受けた。今夜はそのバイトの遅番で、楽し気な表通りに後ろ髪を引っぱられながら、バイト先の店へ急いでいるところだった。


 連休の初日ということもあって、店は満員御礼の大賑わいだ。日中纏った武装を解いて、グラスを交わしハグを交わして、馬鹿話に花を咲かせる、いつもながらの喧騒に勇造も思わず笑みがこぼれる。その中でも、話題の中心にいるのは、一ヶ月前くらいから店に来るようになったエイトだった。

 一際ゴツい筋肉隆々の体躯に精悍な顔立ち。それだけでも超が付くほど魅力的だが、何よりも周囲を惹きつけて離さないのは、屈託のない性格とそれを裏打ちするような人懐こい笑顔だ。今夜も大勢の男から声がかかるなか、カウンターに入った勇造を目敏く見つけて話しかけてくる。

「ユーゾーさん、遅いじゃないすかー。待ってたんすよ! さ、一緒に飲みましょ」

 エイトの周りに群れていた男たちの視線が一斉に勇造に向いて、一瞬たじろぐ。店に来るようになってから、エイトは何かというと勇造にじゃれてくる。悪い気はしないが、どう見ても高嶺の花のエイトに懐かれて、本気になって泣きをみるのはごめんだと自分を諌める。

「あのなぁ、俺はこれでも仕事中なの。それにお前みたいなザルと一緒に飲んでたら、肝臓がいくつあっても足りねーわ」

「大丈夫。ユーゾーさんのカンゾーはオレが守ります。この店のアイドルが体調不良なんてことになったら楽しみ減っちゃいますからね。ついでに、ユーゾーさんのテーソーも守らせてもらえると嬉しいんだけど」

 アイドルはどっちだよと苦笑しながら、後半は聞こえなかったふりをして、勇造は次々に注文されるオーダーと洗い物を捌くのに専念した。


 終電時間が終わってからもしばらくは混雑していた店内も、明け方近くなって急に客が減りだした。開店から客足の激しい日は引き際も急速だったりするのだが、その最大の原因が、でかい背中をカウンターに突っ伏して眠っている。さっきまで店内を巻き込んで大騒ぎしていたエイトが、めずらしく酔っぱらったようで、エイト目当てで騒いでた客も潮が引くように帰っていったのだった。

 戸締りを勇造に任せて店長が帰ったあと、残った数人の客を出口まで見送ると、店内にはカウンターに伏せたままのエイトと勇造だけになった。半袖のTシャツからはみ出した太っとい腕を溜息混じりに見やってから、その広い肩に手を掛けようとすると、ふいにエイトが勇造を振り返った。人懐こい笑顔が至近距離で勇造を覗き込む。

「あ、いや、そろそろ起こしたほうがいいかなと思って……」

 寝込みを襲うところと勘違いされたんじゃないかと、にわかにあせる。

「寝てないす。寝たふりして待ってました」

「え? な……」

「勇造さんと二人きりになるのを待ってたんです。こんな機会なかなかないから」

 上体を起こしたエイトが真正面から勇造を見つめる。いつもの笑顔に、はにかみと真摯な表情が入り混じっている。

「だって、いつもタイミングが合わなくて、ちゃんと気持ちを伝えられたことないじゃないですか。俺、勇造さんのことすごいタイプです。かっこいいです。間近で話せて、これでも今、すげードキドキしてます」

 二人きりの気まずさと唐突の出来事に戸惑って、わけもなく防御本能が働いてしまう。

「かっこいいって、お前、どこに目ぇつけてるんだよ。あ、さてはお前、今日コンタクト忘れてきたろ?」

「いえ、両目とも二・〇です。すげーよく見えてます。勇造さん、よく見ると奥二重なんですね。かわいいす」

「二・〇って、じゃあ遠視なんだよな。奥二重はわかっても、このふくよかな二段腹は見えてないらしいし……」

「なに言ってるんすか! もちろん見えてます。むしろ目が離せないくらいです。その丸い腹も指も、もう輪をかけてラブです」

「指? 指ってなんだ?」

「勇造さんの手って丸っこくて、ほら、広げると指の付け根に笑くぼができるじゃないすか。それがすげーかわいくて、その指で器用に酒作ったりしてるの見るのがたまんないんです。指だけじゃないす! まるごと全部タイプです! その分厚い肩も硬そうな髪も、触れたいって衝動をいつも理性総動員で抑え込んでいるんです」

 そう言って、躊躇いがちに手を伸ばしてくるエイトから反射的に身を引く。鼓動が一気に跳ね上がる。

「や、やっぱ酔っぱらってやがるな。俺は酔っ払いのおべんちゃらには聞く耳を持たないんだ」

「酔ってないですよ! 酔って告白なんて勿体ないじゃないですか! ずっと憧れてた人に、やっと想いを伝えられるんだから。俺、今日勇造さんに会えたら、告白しようと決めてたんです。おべんちゃらなんかじゃないです。緊張すると言葉数が多くなっちゃって、でもそれは、勇造さんに本気だってことを伝えたいからで、でもって、できたら俺のことも色々と知ってほしいからで。俺、初めて会ったときから、勇造さんのこと気になってました。外見だけじゃなくて、周りを和ませる気遣いも、楽しさと安らぎを一緒に与えてくれる独特のオーラも。もっと勇造さんの近くにいたいんです。だから、えっと、よかったら俺と、付き合ってもらえませんか!?」


 夕焼けに染まり始めた公園では、下校途中の小学生がキャッチボールを始めている。ミットに収まるボールの音が小気味好く耳に響く。

 あの夜、エイトの本気の告白に投げ返した球は、自分でもびっくりするくらいの豪速球だったよなと、長く甘い回想を振り返って、勇造は鼻を鳴らした。

 あれから二年。今夜、エイトは学生時代からの友人たちに勇造を紹介するという。一回りほども年下の恋人のカミングアウトに立ち会うのはこそばゆい気もするが、エイトのその想いが、どうしようもなく照れ臭くて嬉しくて、同時に誇らしい。


 待ち合わせの時間に遅れないように急いで家に帰ると、見計らったようにエイトからメールが入った。

『この前買ったお揃いのジャケットを着てきてね (^o^)』

 まったく、どこまでラブラブなんだよ、と苦笑しながら、勇造はクローゼットから紺のジャケットを引っ張り出した。

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