第四章 | 真紀

「真紀さんて、あだ名とかあるんですか?」

 窓際の席で一緒にパスタを食べていた後輩が、真紀に聞いてきた。先週までの冷え込みが嘘のように、穏やかに晴れ渡った春日和のランチタイム。十三階にある社食の窓からは、ビルとビルの隙間に、細長く切り取られた東京湾が見える。

「バンビちゃん」

 湾に浮かぶ、春霞にけぶった船を目で追いながら、真紀は答えた。数多い過去のあだ名の中で、不意にそれが口をついたのは、たぶん今夜の約束のせいだろう。

「わっかるー! 真紀さんってバンビっぽい!」

 同じテーブルの別の後輩が、手を叩きながら笑った。

「黒目がちだし、まつ毛長いですしねー。てか、真紀さん、それって自まつ毛ですよね?」

「まつ毛長いの、超うらやましい!」

 そのまま後輩たちの話題は、最近人気のマスカラに移っていったが、真紀はのびきったパスタを機械的に口に運びながら、窓の外を見ていた。

 正確には「バンビちゃん」はあだ名ではない。昔、好きだった男に一度だけそう呼ばれたのだ。そして今夜、八年ぶりにその男と会うことになっている。彼は変わったのだろうか? 真紀がもう「バンビちゃん」ではないように。


 真紀には生まれつき、全身のあちこちに茶色の痣があった。カフェオレ斑と呼ばれるもので、こめかみや首、腕や背中など、直径二センチから十センチくらいの大きさの痣が、規則性のない星雲のように体中に散在していた。

 それが原因で、小学生の頃は、ずいぶんひどいあだ名で呼ばれた。「てんとう虫」や「ウリ坊」なんかはまだかわいいほうで、「おねしょ」「世界地図」「パッチワーク」など、よく思い付いたと感心してしまうような、子供ならではの辛辣なあだ名を、いくつもいくつも付けられたものだ。

 中学になると、水泳の時間が恐怖だった。露わになった腕や足に点在する痣をからかわれ、プールサイドで蹲ってしまったことは二、三度ではない。色白で背も高く、同級生よりも発育の早かった真紀に対して、異性への興味を伴った男子からの干渉はしつこかった。

「痣の切除手術をしたい」と母親に訴えたこともあったが、「痣を消すよりも先に、やらなければいけないことがあるでしょ?」と諭された。母子家庭の上、真紀と弟の二人の育ち盛りを抱え、家計は厳しかった。仕事を掛け持ちして、早朝から夜遅くまで働く母に対して、真紀も強く訴えることはできなかった。

 せめて目につく部分だけでもどうにかしたくて、髪を長く伸ばし、首とこめかみの痣を隠した。黒髪の隙間から周りをうかがい見る真紀に、高校時代の女子クラスメイトは「まだら魔女」という新たなあだ名を命名し、「魔女狩り」と称して執拗ないじめを繰り返した。痣はあっても、それ以上に男を惹きつける容姿になっていた真紀に対して、嫉妬が絡んだ女子の攻撃は強烈だった。放っておいてほしいと願えば願うほど、いじめはエスカレートした。おかげで、高校二年で不登校になり、最後の一年は担任の配慮で、通信教育のカリキュラムを履修し、逃げるように卒業した。


 高校卒業後、地元を離れ、東京の大学に進学した。痣からくるコンプレックスは消えていなかったが、少なくとも自分を知る人のいない都会に行くことで、真紀はどうにか息がつける思いだった。

 入学から半年くらいして、同じクラスの男子学生に「付き合ってほしい」と告白された。男性からそんな言葉をもらったのは初めてで、もちろんうれしくはあったが、真紀は断った。

 大学に入ってからも、首とこめかみの痣は、髪の毛と厚めのファンデーションで隠していた。付き合うとなれば、いずれ全身の肌を見せることになるのだろう。その時のことを想像するだけで、真紀は目の前が真っ黒になった。真紀の服を脱がした後に、彼が見せるであろう好奇な蔑み。自分はきっと、それに耐えられないだろう。そんな辱めを受けるくらいなら、一生ひとりでいい。

 そのあとも複数の男子学生から交際を申し込まれたが、真紀は断り続けた。やがて誰も声を掛けて来なくなった。これまでずっと求め続けてきた、他人からの「無関心」をとうとう手に入れたのだと、真紀は思った。


 三年になって専攻したゼミで、陽太郎と知り合った。

 ラグビー部のエースで、精悍な顔立ち、性格もおおらかで明るい陽太郎は、学部でも有名な人気者だった。彼の周りにはいつも、体育会系の友達や、おしゃれな女子たちがたむろしていた。群れることが好きで、自己肯定欲が強く、悪気もなく人を傷つける、真紀のもっとも苦手とする人種。真紀は、なるべく彼らと距離を置くようにしていた。

 それなのに、なぜか陽太郎は、真紀に興味を持ったようだった。教室の後ろの目立たぬ席で、気配を消している真紀を見つけ、隣りの席に居座り、なんだかんだと話しかけてくる。そのたびに真紀は、取り巻き女子からの冷たい視線を感じながら、(構わないでほしい)と陽太郎にアピールするのだが、陽太郎はまったく気にする様子もなく、真紀の隣りから動かず、漫画を読んだり居眠りをしたりしていた。かと言って、他の男子のように、デートに誘ってくるわけでも、交際を求めてくるわけでもない。


「ねえ、なんであんた、私の隣りにいつも座るわけ?」

 授業中、真紀のノートに勝手にいたずら書きをしている陽太郎に、小声で聞いてみた。

 陽太郎は、長い髪に覆われた真紀の瞳をじっと見つめてこう言った。

「だって真紀は、俺に興味なさそうじゃん? だから、安心できるんだよね」

 弧を描いて飛んできたボールが、すっぽりと手のひらに収まるように、その言葉は真紀の心にストンと落ちた。なるほど。ラグビーのスター選手で、ルックスの良い人気者で、寄ってくる女子にも男子にも事欠かないこの男は、持ち前の明るさでみんなと愛想よく付き合いながら、心の奥底では思っているのだ、「放っておいてほしい」と。

 真紀が求めた他人からの「無関心」を、真紀とはまったく逆のアプローチで、陽太郎も欲しているのがわかった。真紀のノートに、意味不明なイラストを一心不乱に描いている陽太郎の横顔をみていたら、不意に愛おしさが募ってきた。恋に落ちるとは、かくも簡単なものなのかと、自分でも唖然とした。


 三年の夏休みに、真紀は陽太郎を自分のアパートに誘った。その頃には、自分でもはっきりと自覚できるほど、真紀は陽太郎のことが好きになっていた。陽太郎が自分に求めているのが「無関心」だとしても、もう真紀は陽太郎への関心を止められなかった。他の男には絶対見られたくない体の痣も、陽太郎には見てもらいたいと思った。そして触ってほしかった。普段は夏でも長袖で過ごす真紀が、その日はノースリーブと短パンで陽太郎を迎えた。

「おい、どうしたんだ、その痣?」

 部屋に入るなり、真紀の手足のカフェオレ斑を見つけて、陽太郎が聞いてきた。「生まれつきなの」

 内心はパニックを起こしそうなほど緊張していたが、なんでもないように答えた。

「へえ」と、陽太郎はしげしげと痣を見つめたあと、ワンピースの柄を褒めるような口調で、こう言った。

「バンビちゃんみたいで、かわいいじゃん」

 これまでもらったどんなあだ名よりも、それは残酷で甘美だった。


 結局、大学を卒業するまで陽太郎とは恋愛関係になれなかった。部屋に誘ったあの日、真紀が期待していたようなことは何も起こらず、二時間程度で陽太郎はそそくさと帰っていった。それが痣のせいなのか、「無関心」ではなくなってしまった真紀にはもう興味がないのか、聞き出す勇気はなかった。

 新卒で入社した会社の初任給で、真紀は皮膚科に行き、レーザー治療で全身の痣を除去した。二十二年間、真紀を苦しめ続けた星雲たちは、数時間で切り取られ、二週間もすると跡形もなく無くなっていた。解放されたような安堵感と、今までの不毛な時間を悔いる苛立ちと、もう二度と陽太郎から「バンビちゃん」とは呼ばれないだろうという欠落感が、マーブル模様のように心に渦巻き、しばらく消えなかった。


 先週、不意に陽太郎からメールが届いた。

「お久しぶりです。報告したいことがあるんだけど、今度のゼミ会、来れないかな?」

 メールの最後に、待ち合わせ日時とホテル名が記してあった。ゼミのメンバーが定期的に会っているのは知っていた。誘われたこともあったが、真紀は参加したことがなかった。大学時代の知人で、陽太郎以外に会いたい人はいなかったし、かと言って「陽太郎は来るのか?」と毎回確認するのもためらわれた。

 でも、今回は確実に陽太郎に会える。体の痣を消し去り、うざかった髪をショートにし、生まれ変わった自分を陽太郎に見せたかった。「バンビちゃん」じゃなくなった真紀を、陽太郎は女をとして見てくれるだろうか。それとも、真紀にはどこまでも「無関心」なのだろうか。


「真紀さん、ランチタイム終わりますよ?」

 ふと目を上げると、後輩たちが不思議そうな表情で、真紀の顔を覗き込んでいた。

「でも真紀さんってホント美形。まさにバンビちゃんって感じ。きっとそのあだ名つけた人、真紀さんのことが好きだったんですね」

 何も知らないはずの後輩が、真紀の中に残る痣を指で押すように、そう言った。

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