第三章 | 菜摘

 バッグの中で震えだした携帯電話をあわてて取り出して、菜摘は画面に浮かぶ克哉の名前をタップした。何事かと心配しながら取っただけに、調味料の場所を聞く克哉ののんびりした問いかけに拍子抜けしながらも、不意に電話の背後から優菜の笑い声が聞こえてきて、思わずほっとした気持ちになる。

 いつものことだが、幼い娘を夫に預けて外出するときは、少しだけ罪悪感を感じてしまう。後ろめたいことをしているわけではないが、母親としての義務を全うしていないような気分になるのだろうか。そんなふうに、どこか自分を窮屈に押し込めてしまうところが、菜摘にはあった。

 電話を切ってふと空を見上げると、青く染まり始めた薄暮の空に真っ白な満月が輝いている。ホテルまでの緩やかな坂道を上りながら、菜摘は今夜のメンバーを思い浮かべてみた。

 大学を卒業してから不定期に開催しているカジュアル・パーティーも、もうすぐ十年になる。当初は大学時代のゼミ仲間での同窓会のようなものだったが、長年開催されている間に、メンバーは入れ代わり立ち代わり、自然と様々な年齢・業界が入り混じるようになっていた。懐かしい友達に会えることと、普段接することのない世界に触れられる興味から、菜摘はたびたび優菜を夫に預けてこの会に参加していたのだが、今回は特にゼミ仲間の陽太郎から、『報告したいことがあるから出席してほしい』と連絡があったのだった。

 この歳で報告と言ったら、十中八九、結婚の報告だろう。ラグビー部の主将だった快活で人気者の陽太郎がどんな彼女を射止めたのか、好奇心も露わに参加を決めた。克哉も「ちょうど良い息抜きだろう」と快諾してくれたし、夕食も優菜の好物を揃えることで、堂々とパーティーへの切符を手に入れた気分だった。


 普段は履かない少し高めのヒールを軽やかに響かせて、月光が照らす青白い坂道を中腹まで上ったころ、バッグの携帯がまた震えだした。また克哉が何か困ったことでもあったのかと苦笑しながら携帯を取り出すと、そこには菜摘の予想を裏切って、思いもよらない名前が表示されていた。


 数ヶ月前に始めたSNSで再会した高校の同級生。思いがけず懐かしい名前を見つけて、互いのアカウントをフォローし合うようになり、つい先日メールアドレスと電話番号を交換したばかりだった。再会と言ってもネット上だけの話だし、『いつかお茶でも』なんて誘いも社交辞令と受け流していた。とは言え、電話番号を交換した時点で、少しだけ冒険めいた感情が動いたことは否めない。それが、学生時代に少なからず好意を抱いていた相手ならば、なおのこと。

 一瞬の嬉しさよりも困惑のほうが勝って、通話ボタンを押すのを躊躇っているうちに、携帯電話の震えは止まってしまった。

 暗くなった液晶画面を見つめたまま、坂の途中で立ち止まる。早春の生温かい風が柔らかな春物のスカートの裾にまとわりついて、そのまま戸惑う胸の内側を撫でていく。


 克哉とは、新卒で就職した会社で知り合って、数年の交際の後、自然な流れで結婚した。運命の出会いというと大げさな気もするが、克哉と共に過ごす居心地の良い時間を幸せに感じているし、優菜を授かってからの忙しい日々もこの上なく愛おしい。物足りないなんて感じたことはないし、むしろ、思い描いていた結婚生活よりずっと満ち足りている。それでも、子育てが一段落した最近、ふと思うことがある。

 お伽噺の主人公が、ハッピーエンドのその後もずっと幸せだとしたら、彼女にとってその物語が幸せの絶頂で、その続きは退屈な出来事の繰り返しということになりはしないだろうか。

 家事と育児に没頭している間に、かつての野心もときめきも忘れ、気づいたら自分だけが取り残される。今夜出会う仲間たちのように、人生を模索しながらも謳歌している同年代が輝いて見えるのは、彼らを羨ましく思っているからだ。自由を満喫する仲間たちを遠くから眺めるだけで、その中に入っていけない自分を、心のどこかで歯痒く思っているからなのだろう。

 SNSの彼がその解決になるとは思わないが、優しい単調な日常に、ちょっとしたスパイスを求めることがそんなにいけないことだろうか。大それたことを望んでいるわけではない。好奇心の扉の向こうを少しだけ覗いたら、心が咎める一歩手前で帰ればいい。今夜なら、既に家を出ていて、余計な理由付けをする必要もない。

 もう一度携帯が鳴ったら、もし彼から誘われたら、そのとき自分はこの坂を上るだろうか、下るだろうか。


 逡巡する手のひらで再び携帯が震え始めて、高鳴る鼓動に同調するように、小刻みな脈動を繰り返す。短く息を吐き出して、目を閉じたままそっと画面をタップすると、鈴を転がしたような優菜の笑い声に続いて、すまなそうな克哉の声が聞こえてくる。

「何度もすまない、優菜の着替えってタンスの一番上のでいいんだっけ?」

 夢から覚めたように、現実が目の前に広がる。克哉の問いに答えながら、ほっと胸をなでおろしている自分に気づく。やはり私は、私の生き方で生きていくのが一番居心地が良いのだ。何度も冒険を繰り返す人生なんて、きっと私には似合わない。誰も読んでくれない物語のその後であっても、長く幸せな日々を私らしく綴っていこう。先々一人で読み返しても、どこにも後悔なんてないように。

 柔らかく降り注ぐ月の光に向かって、菜摘は坂道を上りだした。

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