第二章 | 佐衛子

 JRの改札口前で別れる時、小さく手を振る布留川の笑顔が、赤いライトを浴びたように光ってみえた。振り向くと、暮れかかる春の夕陽が、ビルとビルの隙間から駅前のロータリーをスポットライトのように赤く照らしている。もう一度、布留川を見やると、スーツの肩のあたりをオレンジ色に光らせながら、改札の中に消えてゆくところだった。不意に呼び止めたくなったが、そんなことをする理由もないので、佐衛子はそのままタクシー乗り場に向かった。


 夕日のいたずらがあなたの心を赤く染めて、私はそれを恋だと思った


 乗り込んだタクシーの後部座席で思い出したのは、何かの広告コピーだったか。少女趣味な一節だが、覚えているということは、胸に残ったのだろう。さっきの駅前の光景は、そのコピーの風景に似ていた。決定的に違うのは、佐衛子は恋をしていないという点だ。

 もしも布留川との関係を人に問われたら、佐衛子の中に答えはない。布留川は既婚者だから、一般的には「不倫」ということになるが、彼は家庭のことを一切話さないし、佐衛子も聞こうと思わない。家庭の匂いがしない男との逢瀬に、後ろめたさはない。


 布留川は、佐衛子が勤めるデザイン事務所に出入りする、人材派遣会社の営業マンだ。「接待」と称された何度目かの食事会の後、どちらが誘ったというわけでもなく、自然な流れでそうなった。

 布留川は、無骨な風貌に似合わず、繊細で思慮深い優しさを持っていた。佐衛子は彼のそんな意外性に惹かれてはいたが、独占したいとは思わないし、離婚してほしいとも思っていない。自分と会っている時間以外の布留川には興味がない。たまに会って、数時間だけ一緒に過ごす。ホテルに行く日もあれば、食事だけの日もある。その時間だけ、佐衛子に優しくスマートに接してくれれば、それ以上は何も望まない。誰も傷つけず、欲張りもしないこのひと時を「不倫」などと呼ばれたくはない。


「不倫」で思い出すのは、母親だ。佐衛子が中学生の時に、母は父と離婚して家を出た。別の男に恋したのだ。妻の不貞に気付いた父が、母を追い出した形だったが、母に悲壮感はなく、むしろ高揚していた。家を出て行く前の夜、母は佐衛子の部屋に来て、涙ながらにこう言った。

「本当にごめんなさい。でも、お母さんは運命の人に出会ったの。その人と出会うために生まれて来たんだって分かったの。それがちょっと遅すぎただけ。いつか佐衛子も分かってくれる日が来ると思う」

 自分が捨てられたという事実より、母が生々しい女であったことのほうが受け入れ難く、佐衛子は母を憎んだ。

 なにが運命よ。ただの不倫じゃない。いやらしい。

 自ら追い出したのに、捨てられた老犬のようにショボくれてゆく父を横目に、佐衛子は誓った。

 私は母みたいにはならない。恋に溺れて理性を失い、周りを傷つけていることにさえ気付かないなんて、最低だ。そんなみっともない女になるくらいなら、死んだほうがいい。もう母には十年以上会っていないが、今頃男に捨てられて、みじめに暮らしていることだろう。ザマアミロ。


「ちょっと止めてもいいですか?」

 突然、運転手の男が言った。

「はい?」

「電話が掛かってきちゃって。取りたいんですけど、止めてもいいですか?」

「はぁ?」

 突然のことで、なんと答えれば良いのかわからない。迷っている間に、佐衛子のためらいを肯定と受け取った運転手は、さっさと路肩にタクシーを寄せてサイドブレーキを上げた。

「もしもし? ナオちゃん?」

 慌てたように携帯を耳に当てて、運転手は話し始めた。メーターは動いたままだ。助手席前のダッシュボードにあるプレートを確認すると、髪の短い六十絡みの真面目そうな顔写真がこちらを見ていた。

「生まれた!? ホントか! そうか、女の子! うん。ナオちゃんは大丈夫か? そうか」

 なるほど、そういうことか、と佐衛子は思った。年齢的にこの運転手の子供ではなく、孫でも生まれたのかもしれない。おめでとうございます。でも、業務中よね? 少なくともメーターは止めるべきじゃないかしら?

「わかった。じゃあ仕事終わったら、すぐそっちに向かうから。うん、またあとで。よくやった。愛してるよ、ナオちゃん」

(愛してるよ……?)

 運転手は電話を切ると「すんませんでした」と一言だけ佐衛子に謝罪し、公道に戻った。何かもう少し説明があっても良さそうなのに。

「……お子さんが生まれたんですか?」

 我慢できずに、佐衛子の方から口火を切った。

「聞かれちゃいましたか? そうなんですよ。第一子です」

「おめでとうございます」

 ずいぶんご高齢なのに、とはもちろん言わない。でも、顔に出ていたのだろうか、運転手が続けて言った。

「まさか、この歳で親になれるとは思ってませんでしたよ。嫁さんも四十過ぎだから、もう無理かなーって話してたんですけどね」

「え? 奥さん、四十過ぎで初産ですか? それって凄いですね」

 初産の場合、三十五から高齢出産と呼ばれる。四十歳だと、それなりにリスクも高い。

「いえ、嫁さんは前の結婚で一人産んでるんで、二人目です。最初の子は、別れた旦那のところにいますから、私たち夫婦としては今回が第一子です。まあ、第二子はさすがにないだろうけどね」

 そう言って嬉しそうに笑い声をあげる運転手を無視して、佐衛子は窓の外に視線を移した。

 そんなことはあろうはずもないのに、佐衛子を置いて出て行った母が、この運転手の妻であるような錯覚に陥る。当時母は三十半ばだった。想像をしたこともなかったが、別の子供を産んでいてもおかしくない。

「じゃあ、妹ってことですね」思わず口についていた。

「え?」

 バックミラーの中から、運転手が訝しげな視線を寄越す。

「だからその、奥さんの最初のお子さんにとっては……」

「……はぁ」

 恋に溺れて、家庭を壊して、今頃不幸になっているとばかり思っていたが、もしかしたら、佐衛子の知らない弟妹を産んで、どこかで幸せに暮らしているのかもしれない。

「……許せないわ」

 運転手は佐衛子の独り言を、聞こえない振りで黙り込み、車内に静寂が戻った。


 やがてタクシーは指示したホテルに到着し、エントランスに横付けされた。ドアマンがにこやかにタクシーのドアを開ける。

 料金を支払おうと財布を出すと、運転手が「大丈夫です」と言った。

「個人的な電話で途中停車してしまったし、お祝いの言葉もいただいたんで、代金は大丈夫です」

「ダメですよ、そんな……」

「本当にいいんです。それよりも……」

 そう言って、運転手は佐衛子に振り向いた。誠実そうで気弱そうな横顔が、田舎で一人暮らしをしている父親を想起させる。

「よく分からんけど、許してあげてください。あなたのためにも」

「何の話ですか?」と問い返す言葉が途中で詰まった。不意にこみあがる怒りと恥ずかしさに、佐衛子は黙って財布をしまった。

(偉そうに! 何も知らないくせに!)

 胸の内で悪態をつきつつ、運転手の顔を見ずにタクシーを降りる。思い切り音を立ててドアを閉めると、車はロータリーを弧を描いて走り、一般道へと消えていった。

 見上げると、赤い夕陽の名残りは跡形もなく、青白い空には冷えびえとした満月が浮かんでいた。

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