昔の仲間に会うのなら

智信

第一章 | 直樹

 無機質な空気音を吐き出して、目の前でドアを閉めた電車は、ゴトンと重そうに車輪を鳴らして東京方面へ動き出した。

 階段を一段飛ばしで駆け上がったせいで、小刻みに脈打つ鼓動が、ネクタイを締めた首元を圧迫して煩わしい。次の電車は二十分後。いっそ一時間後とかなら諦めもつくのだが、この微妙な時間差がかえって焦燥感を煽ってくる。

 さっきの電車のドアよりも盛大に溜息を吐き出し、直樹は携帯を取り出した。『申し訳ない。三十分くらい遅れそうです』

 メールを送り、ベンチを探してホームを移動した。

 生ぬるい風がホームに吹き込んできて、目の前に広がる地方都市の煤けたビル群が、ぼんやりと夕暮れに溶けていく。地方の中堅都市というのはどこも同じで、どうして何の計画性もなく高さの合わないビルを駅前に建て散らかした上に、その灰色の壁には不似合いなけばけばしいネオンを、さも自慢げに掲げているのだろう。

 生まれつき、きちんと物事が収まるところに収まっていないと気が済まない性格の直樹は、ようやく終わろうとしている長い不運な一日を呪って、煌々とまたたくネオンを横目で眺めながら、また深く溜息をついた。


「あのう、すみません……」

 間延びしたような問いかけに振り向くと、ちょうど直樹の腰のあたり、腰の曲がった老婆がにこにこと微笑みかけていた。

「前橋行きの電車はこっちかの?」

 見れば背中には、背丈の半分もあるような大きな籠を背負っていて、違うと無下に告げるのも何となく気が引けてしまう。

「こっちは東京行きなんです。反対側のホームまで荷物、手伝いますよ」

 どうせまだ時間もあることだし、と直樹は老婆の籠に手をかけた。中には艶やかに並んだ蜜柑が籠の半分ほど積まれている。

「それはご親切に、ありがとうね。でも大丈夫、慣れてますから」

 遠慮する老婆から無理に荷物を奪うのも躊躇われ、直樹は籠の下を支えることにした。

「ご親切にねえ。重たいでしょ」

「いえ、そんな気にしないで下さい」

 眠たげな春の日差しの中、今どき珍しい行商のお婆さんと並んで歩くという予期せぬ長閑な光景に、思わず直樹は苦笑を漏らした。それは、今日これまでの直樹の境遇と比べて、あまりに対照的な出来事だったからかもしれない。

 今日は朝からついてない一日だった。お気に入りのネクタイにコーヒーをぶちまけたことに始まり、出社直後からのシステム・トラブルで資料の作成が大幅に遅れ、大慌てで得意先に向かったところで逆方向の電車に飛び乗るという失態までやらかした。自分の不注意が招いた不運だったのかもしれないが、どこか歯車の合わない一日に、ちょうど苛立ちと疲労を感じていたところだった。この老婆に会うまでは。


 階段を上って向かいのホームにたどり着くと、老婆はよっこらしょと籠を下ろして、直樹を振り返った。

「本当に助かりました。ありがとう」

 そう言って籠の中から蜜柑を二つ取り出して、直樹の手のひらに乗せた。大粒の蜜柑は、手にずっしりとその瑞々しさを伝えてくる。

「今日は大変な一日だったわね。でもね、思うようにいかない日だって、人生には大切な一日であることに違いないはず。そんな日にこそ、神様は特別なプレゼントを用意してくれているものなのよ」

 まるで直樹の今日の出来事を知っているかのような口ぶりで、老婆はにこにこと直樹を見上げてくる。手のひらに乗せられた蜜柑と老婆を交互に見やりながら、直樹はふいにあの寒い冬の朝を思い出した。

 あの日、初雪の降った朝、テーブルに置かれていた書き置きにも、大粒の蜜柑が重し代わりに置かれていた。古い映像フィルムのように、色彩のない明け方の室内に蜜柑の橙色だけが、その書き置きの文面とは裏腹に、やけに暖かげに記憶のスクリーンに浮かび上がる。


 せつなく苦い思い出に少しの間感傷的になっていると、隣で老婆が素っ頓狂な声を上げた。

「あら大変。東京行きの電車が来たみたい。乗るのよね?」

 見れば向かいのホームに電車が滑り込んで来ている。慌てて二つの蜜柑を鞄にしまい、お礼の言葉もそこそこに、直樹は今来たばかりの階段へと急いだ。息を切らし一段飛ばしで駆け上がった先のホームでは、東京行きの電車が無情にもその扉を閉めたところだった。

 がっくりと肩を落とした直樹の前を、徐々にスピードを上げながらすまし顔で通り過ぎた電車の向こう岸に、なぜか老婆の姿は見当たらなかった。

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