午後の紅茶

「あ、可愛い」

 僕が彼女を最初に見たときに思ったことだ。彼女の何を見てそれを思ったのかはわからない。彼女の栗色に染められた髪の毛かもしれない。束ねられた髪の隙間から除く綺麗な額かもしれない。もしかしたら、彼女の綺麗に輝く瞳を見てそう思ったのかもしれない。ただ一つ確かなのは、僕が彼女を初めて見たその瞬間に僕は彼女に一目惚れした。

 僕は駅前のカフェで働いている。日本三大都市の一角名古屋の駅前にひっそりと佇むカフェである。彼女はそこに週に一回ほどのペースで来る。来るときはいつも一人で、頼む物もいつも同じだ。僕は彼女がメニューを見て少し悩んでいる姿をちらちらと見ながら僕の仕事をする。彼女はいつも頼む物は同じだが、店に来ると必ず一度はメニューに目を走らせる。そうしてひとしきり悩んだ後に、結局いつもと同じもの、パンケーキと店主の気まぐれ紅茶セット、税込み600円を頼むのだ。そして僕はそんな風に悩む彼女の姿を見ながら彼女の姿をその眼に焼き付けようと盗み見る。そんな風にして過ごすこの時間が最近の僕の生きがいだ。彼女はパンケーキを食べる前に必ず紅茶を一口飲む。そうして少し難しそうな顔をしながら、ふむふむと頷いてみせる。彼女が店主の茶葉に対する異常ともとれるこだわりや、淹れ方に対しての情熱が分かっているのかは良くわからない。だが一つだけ確かなのは彼女がここの雰囲気を好いてくれていることだけだ。ここで働く僕にとってはそれがとてもうれしい。そうして混じりッけのない紅茶本来の味を楽しんだ後、彼女は紅茶に一つ角砂糖を入れゆっくりと香りが広がるのを楽しむかのようにかき混ぜる。そんな彼女の周りには紅茶の香りだけでなく、彼女から漏れ出る幸せそうな雰囲気はその紅茶の味を引き立てている。僕は素人ながらそう思う。そうして十分に紅茶の香りを楽しんだ後、彼女はパンケーキにナイフを入れる。パンケーキを三切食べる、紅茶を一杯飲む。その動作をゆっくりと何回も彼女は繰り返す。そうして彼女はパンケーキを食べ終える。そのように食べると最後に紅茶が約一口分残る。その幸せの残滓を彼女は大切に持ち帰るかのようにゆっくりと口に含み、喉をくぐらせる。そして最後に幸せそうな顔をし、それでいてもうこの時間が終わってしまったのか、というような残念そうな顔をする。その顔を見るとそんな顔をしないでおくれ、僕だって悲しいんだ、と僕の心がきゅうっと音を立てる。だが彼女はすぐに気を取り直して、入り口近くに備え付けられた、古めかしいレジへと向かう。そうして会計を終えると、素知らぬ顔をするので必死な僕の気も知らないで、また来ますね、と言って日常へと帰っていく。そして僕はその言葉通り彼女を待つことしかできないのだ。そのことが分かっていながら、僕は彼女に、またお越しください、と言うしかない。でも彼女との距離感はこのぐらいがちょうどいいのだろうかとも思う。そう思いながら時間だけが過ぎていく。だがそうして過ぎていくだけの時間もまた僕には心地いいのだ。

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