第5話 “死神”との邂逅

 高坂の“死神”との邂逅かいこうは最悪なものだった。

 それはまだ高坂が小学三年生だった頃の事だ。

 その日、高坂は両親と一緒に遊園地へと遊びにきていた。しかし、身長規定を満たすことができずに乗る事の出来るアトラクションが少なかった高坂に、父親が最後に観覧車に乗ろうと提案した。

 大きな観覧車のゴンドラに乗り込み、今日一日中遊んで回った遊園地を見下ろす。ゴンドラの高度は徐々に上がって行き、遂には街の風景が眼下に広がる。夜の街は煌びやかで、高坂はその情景に心を打たれた。


 高坂とその両親が同乗していた観覧車のゴンドラが頂点に達した瞬間、ゴンドラが大きく揺れる。天井が音を立てて凹んだかと思うと、もう一度殴られて破けた。そこから黒いもやが、いや、人が降りてくる。

 高坂の両親は狼狽ろうばいした。母親は高い声で悲鳴を上げたが、それはすぐに途絶えた。父親の息を飲む音が微かに聞こえた。

 黒い靄が何をしたのか、高坂にはわからなかった。


 生暖かい液体がゴンドラ内に吹き上がり、びた鉄のような、腐敗した食物のような嘔吐を誘う匂いが充満する。

 ゴトッという何かが落ちたような鈍い音が二度響く。

 吹き出した液体が窓に付着し、夜景の光が隔たれる。天井に空いた穴から僅かに月明かりが差している。


 何もわからずに呆然と、高坂が座席に座っていると、黒い靄がしゃがんで頭と思える部分をこちらに向ける。黒い靄に目は無い。しかし、高坂は自分が見つめられているのだと、感じた。


「君のご両親は死んだんだよ。この黒い靄が命を吸い取っちゃったんだ」と、黒い靄が高い声と低い声がいくつも練あわさってできた声で言った。


 高坂は最初それが何を言っているのかわからなくて黙っていた。

 何も言わない高坂に構わず黒い靄は言葉を継いだ。


「もし、ご両親を生き返らせたいのなら、この靄を使うしかないよ。この靄は“死神”って呼ばれていて、人の命を吸い取り、奪う。しかし、吸い取るだけではなく他人に分け与えて、死人を生き返らせることもできる」


 当時の高坂に黒い靄が言ったことの内容はうまく把握出来ていなかった。しかし、突然理不尽な死を遂げた両親を生き返らせることが出来る。その事だけが高坂の首を上下に揺らした。


 それを見た黒い靄は言った。「じゃあ、“死神”は明日の晩から君のものだ。いいね?」

 高坂は浅く首肯する。

「よかった。私はもう帰る。バイバイ」そういうと黒い靄の一部が蠢き、ゴンドラの天井に穿たれた穴から飛び出して行った。


 残されたのは、無機質に天井の穴を見つめる高坂と、首から上を落とされ大量の血を流す二つの死体だけだった。



 次の日から深夜になると不思議な感覚が高坂を襲うようになった。骨が焼けて浮き出るような、皮膚の内側が全て混ぜっ返されるような激痛。

 自分の心の内が誰かに覗かれ、悲しい気持ちを強制的に吐露させられてしまうようだ。


 目が覚めると全身から汗をびっしょりとかいていて、体を動かすのが酷く億劫おっくうだった。そしていつも高坂を嫌な気分にさせるのは身体のあちらこちらから出ている黒い靄だ。炎のように揺らめき天井を目指す靄は、暗闇の中でもはっきりと認識できるほど黒い。

 黒い靄に触れようと手を伸ばしても触れる事は出来ない。しかし、黒い靄の当たる部分は痺れてしまったかのように脱力し数瞬だけ動かせなくなる。


 高坂は当時、おじさんとおばさんの家に住まわせてもらっていたのだが、二人は高坂の両親の事件のことで酷く疲弊ひへいしている様子だったし、これ以上迷惑をかけるわけにいかず靄のことを相談することは出来なかった。



 高坂が初めて“死神”と会話するのは両親を失ってから三週間後のことだ。

 なんの前ぶりも予兆もなく、“死神”は深夜に苦しさで起きた高坂に話しかけた。


「お前の身体は随分と窮屈だなァ」


 低いとも高いともつかない、聞いた傍から内容だけを取り残され、忘れ去られるような声が頭に直接響いた。高坂は直感的にそれが黒い靄からのメッセージだとわかる。


「なら、出ていけばいいじゃないか」と、高坂は声に出して言った。おじさんとおばさんを起こさないよう、最低限の声だ。

「そうはいかない。オレは寄生していない消失してしまうからな」と、黒い靄が頭に直接語りかける。


 高坂は少しの間、もくして考えた。寄生という言葉の意味こそ正確にはわからなかったが、ニュアンスから僕から離れるとこの黒い靄は消えてくれる、ということはわかった。

 小学校の先生が言っていたことを思い出す。「誰かにお願いをする時は、相手のお願いを先に叶えてあげましょう」


「何をすれば僕から離れてくれるの?」

「だから、オレはお前から離れられねぇんだよ。自分を犠牲にしてまで手前を救う義理はない、そうだろ?」

 高坂は少しだけ答えに窮した。「でも、僕のお母さんとお父さんを殺した人からは離れたんでしょ? それは、なんで」


 高坂がそう言うと、黒い靄は少し揺らいでカカカッと楽しそうに笑った。高坂にはそれが不快だった。


「ああそうだ。アイツは願いを果たしたからなぁ」心底楽しそうに死神は高坂の頭に語る。

「願い?」

「アイツの願いは、恋人を生き返らせたい、だったな。アイツはなかなか引き際をわきまえていて、判断力の良いやつだ」


 高坂はその覚えにくい声を必死に聴いていた。

 生き返らせる……?

 高坂がそう頭に疑問を持つと黒い靄が、頭の中を監視していたかのように平然と答えて見せた。


「ゲームに出てくるような魔法の類じゃねぇぞ? あんな気軽にホイホイ出来るものじゃあない。生き返らせるってのは途方のない残酷な作業だ」

「その人は何をしたの?」高坂は口をついて言う。「僕のお母さんとお父さんは同じことをすれば生き返れるの?」

「なんだ? オマエは親を生き返らせたいのか。なんの為に」


 そう言われて高坂は小学校でのことを思い出す。お母さんとお父さんがいない、というイレギュラーな存在は小学生には恰好の的だった。何かにつけてからかわれ、あわれまれる。先生がそれを注意したのもいけなかった。授業を二時間も費やして。


「君達も高坂君と同じ状況だったらと考えてみて? お母さんもお父さんもいなくて悲しいのに、それを皆から笑われるのは嫌でしょう? ……想像できた? とっても悲しかったよね。先生はいつも言っているけど、人にやられて嫌なことはやってはいけないの。だから皆は高坂君にご両親の事でからかうのはやめてあげてね」


 とてもとても長くて、居心地の悪い時間だった。教室中から非難の目が向けられているのが簡単にわかる。先生が潰してしまった時間はよりにもよって体育だった。これが算数とか国語なら、またからかい混じりに「ありがとうよ、両親のいない高坂くん」と言われるだけで済んだのだ。


 高坂は基本、先生に好感を持っていたが、こういった説教は全く好きになれなかった。先生が説教をすると決まって高坂には暴力や無視が降り掛かる。

 高坂が一通りの親がいなくて起こる嫌なこと、を想像すると黒い靄が嘲笑ちょうしょうする。災難だったな、そう言いたげだった。


「そうか。オマエの理由はわかった。オマエみたいな人間をオレは幾人も見てきたからなぁ……。その願いに対する望みの大きさは手に取るようにわかるぜ?」

「……なら、僕にお母さんとお父さんを生き返らせる方法を教えてくれ」高坂はそこで一息ついた。「その為なら、僕はなんだってする」

「わかった。なら、今からお前は俺の正式な宿主だ」と、黒い靄は言った。

「……ヤドヌシ」

「オレの名前は“死神”。オマエは?」

「高坂 賢吾」


 高坂が自身の名前を言うと、体を緩慢的に襲っていた怠さが増したのを感じる。自分の身体を支える事も出来なくて、高坂はベッドに受身を取らずに倒れ込む。頭を打ってガチン、と歯がなった。

 黒い靄──死神を見ることは出来ないが楽しそうに揺らいでいることは何となくわかった。


「人を殺してその人間の“残り時間”をオレに与えろ。そうすばオマエの両親は生き返る」


 そしてその直後、高坂は大量の人間を殺した。

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