第4話 人間としての最低限の倫理観
教育実習生である佐伯が、生徒からの
「はいはい、佐伯先生が困ってるでしょ」と、大人の女性らしい落ち着いた声が教室を
佐伯はその言葉に胸をひと撫でし、教壇から降りて先生にスペースを
佐伯は表情を隠そうともせず、困惑や驚きの
「質問は一つ一つ、しっかりしましょうね」
先生の助け舟と見せかけた追い打ちに、佐伯は戸惑った。
「先生も佐伯先生の恋愛事情が気になりますね……これってセクハラなのかしら?」
最後に先生がそうおどけて見せたのを皮切りに、教室では形ばかりの挙手がなされる。指名をされていないのに手を挙げながら質問を口にするのだから、教室はより一層カオスになっていた。
その光景に先生は満足そうな微笑みを浮かべ、佐伯に見せた。きっと、中学生のこういう元気なところに刺激を受けなさい、とでも伝えたいのだろうが、佐伯は苦笑を浮かべるばかりだった。
「じゃあまず山田君」先生は
「はい! 佐伯先生って綺麗って言うよりは可愛い感じっすよね、俺と付き合ってください!」
山田のいきなりの告白に佐伯は苦笑を少し歪ませる。助けを求めるように先生を横目で見たが、そこには変わらず微笑みが
いつもならば、このくだらない茶番劇に高坂は気を留めず机に突っ伏すのだが、今日は違った。
“死神”が余命を吸い取れなかった唯一の人物がどのような人間なのか知りたかったからだ。そこから昨晩の失敗した原因を突き止めるとまでは言わず、原因の尻尾を掴む為に高坂は佐伯をよく観察した。
「え、えぇ……と」と、佐伯は頬を掻きながら、なんと答えたものかと、しどろもどろに口を動かす。しかし、言葉は中々出てこない。
山田は焦れったくなったのか、又は単に恥ずかしくなったのか、「あぁ、もう! 冗談っすよ。そんなに真剣に考えられたら可能性があるのかと期待しちゃうじゃないっすかー」と誤魔化した。
その言葉に周囲は合わせて、山田に向けたからかいの言葉や慰めの言葉が教室の所々から聞こえる。山田はそれらに律儀に反応して笑いを起こしたが、佐伯だけは苦笑に留めていた。
生徒の質問に困り果て、黙ってしまったのを佐伯は悔いているようだった。教育実習生の一日目から情けない、佐伯は自分に心の中でそう言い聞かせる。佐伯の生真面目な性格が、普通ならば仕方がない、と諦めるものにもそうは思わせなかった。
「それで結局返事はどうするんですかー?」最前列にいた女子が佐伯に尋ねた。
「え、あ……ごめんなさい」
教室がまた笑いの渦に巻かれる。先生もそれには耐えられなかったのか、口元を抑えて笑っていた。彼女が赤裸々に笑うのは珍しい。
高坂はやはりそのやり取りを冷めた目で眺めて机に突っ伏した。昨晩の“死神”の疲労が抜けきっていない。肉体的にも精神的にも酷く消耗していた。騒々しいのにも構わず、高坂はものの数分で
高坂が眠りについた後も佐伯は質問攻めを受けていたが、その甲斐あって生徒達とは距離を大幅に縮められているようだった。当初あった緊張感も感じられず、和やかな雰囲気が佐伯と生徒の間には流れていた。
佐伯が生徒達と親密な関係を構築できたことに、先生は目尻の皺を深くして喜んでいた。彼女もまた、佐伯と同じような時期があり今があるのだ。もしかすると今回の荒療治とも取れる質問の嵐は彼女が教育実習生だった頃、実際にやられたことなのかもしれない。
「これからお互い頑張りましょう」
「はい、よろしくお願いします!」
高坂は珍しく放課後の教室に残り、先生と佐伯のそのやり取りを最後に見てから帰路に着いた。結局、今日の出来事だけでは昨晩のヒントをつかむことはできそうになかった。高坂はその事に少なくない焦燥を感じていた。
太陽は傾き始めて、高坂の住む地域から見える一際高い山の中へと身を隠そうとしていた。
暗闇の中に溶けていこうとする住宅街の中、高坂は“死神”について考える。
“死神”は一日でも早く、一日でも多く行わなくてはならない。その方が目標の達成は早くなり、犠牲は少なくて済む。
人の余命を吸い取り、誰かを生き返らせる。人道から大きく反したその行いをするにあたり、高坂はいくつかの信条を掲げていた。
赤い数字の人間――つまり余命一週間の人間にのみにのみ“死神”を行使する。
“死神”を行使する場合に、対象を傷つけてはならない。
何があっても青文字の人間から余命を吸い取ることは、もうあってはならない。
その三つを最低限でも信じていなくては、高坂はこの人道を逸した行いを続けることはできない。その確証だけが高坂の中に強く根付いている。
人を生き返らせるため。酷な死に方をする人を安らかに眠らせているだけ。いわば慈善行為だ。
高坂は自分にそう言い聞かせた。
しかし、どんな理由を宣おうとも“死神”は人殺しの行為であることに変わりはない。
目標を速やかに完遂し、人としての心を最低限損なわないようにする。
その為に、高坂は騙しながらも、三つの信条を掲げていたのだった。
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