第二部 第五章 第三階層 國津国 葛太南島1
十五年前
國津国 玲応四年
六月の第二日曜日
天津国領
今日が自分の命日だと知っている人間は、世の中に一体どのくらいいるのだろう。
ふとそんな言葉が頭の中を
単眼鏡越しの視界の隅に、ちらりと異物を確認し、瞬きをした刹那、問いは思考に飲み込まれ、彼女にとっての日常が始まる。
「南の空、300フィート。何か来ます」
「空?」
『狙撃手』は
「政府の奴ら、天津に飛行戦艦でも
「飛行戦艦じゃないみたいです。もっと小さくて…、何だろう…。光ってるみたいに見えます…」
「飛行戦艦じゃねえなら、何なんだよ。どこだ?おい。見えねえよ」
「あそこです」
雪歩は単眼鏡から目を離し、南の空を指さした。
『狙撃手』は目を細めるが、眉間に縦じまが入るばかりで、その表情は晴れない。雪歩は『狙撃手』の横顔を見つめた。その灰色の瞳に障害がある関係で、『狙撃手』は世界を上手く捉えられない。
「見えねえな。嘘じゃねぇだろうな」
「嘘なんかじゃ…」
否定しようと思ったが、見間違いではないと言い切れるほどの確信もなかったので、雪歩は再び単眼鏡に頼る。単眼鏡を目に当てた瞬間、飛行生物が雲の陰に入った。その刹那、それまで陽光によりぼやけていた輪郭が浮かび上がり、その形が明らかになる。
「人だ……」
「あ?」
「人です。人が飛んでる…」
「人が飛ぶわきゃねけだろう。
「おおとり?」
「知らねぇか。毛が生えた竜みてぇなもんだ」
「大きいですか?」
「竜と同じぐらいだろ」
「竜と同じ…」
雪歩は呟いて、その飛行生物に意識を向けた。単眼鏡ごと顔を動かし、姿を追う。視界の中の飛行生物は雲の陰に隠れて見つけ難い。独立軍内で最も遠目である雪歩だったが、それでもその飛行生物を追うのは容易ではない。
(たまに飛ぶ速さが変わる…。わざとやってるのかな)
視界の中の飛行生物はせいぜい
「
「…私、それを見たことが無いので分からなくて」
「役に立たねぇな」
吐き捨てるように『狙撃手』が言う。雪歩は「ごめんなさい」という言葉を口にした。それは条件反射のようなもので、彼女が最近身に付けた癖の一つだった。
(お父さんなら、どうするだろう…)
相対した対象の正体が分からない場合、狙撃手が採るべき方法は二つだ。一つは相手の出方を伺い、その後にこちらの行動を決める。もう一つは味方である可能性を考慮し、初撃を威嚇に収めるというもの。しかし、これは、相手が敵であった場合、狙撃手にとって死に繋がることになる。初撃で仕留められなかった場合、敵に居場所を知らせることになるからだ。
「ん?何か見えたか」
『狙撃手』が眉根を寄せて、目を細めた。
「何だ、ありゃ…。鳳にしては小せぇな」
(良かった。気付いていたくれた)
雪歩は胸を撫で下ろす。しかし、思いを言葉にすることはない。亡父の弟である『狙撃手』は、カッとなりやすい性質であるらしく、不用意に発言すると拳が飛んでくることがある。
雪歩は『狙撃手』の歩兵銃を盗み見た。それは、父の遺品として雪歩が譲り受けたはずのものだったが、今から一月ほど前に、彼は、父の敵を討つという名目で、雪歩からそれを奪い取った。
『狙撃手』は雪歩の単眼鏡を
彼は単眼鏡に目を当てたまま、
「よく見えねえな。本当に人間か?」
「そ、そう見えます。第一階層には仙人がいると、お父さんから…」
「そんなもん、居るわきゃねぇだろう」
『狙撃手』はそう言って、単眼鏡を手放した。雪歩がふらつく。
(嫌だな)
ぼんやりとそんなことを思う。手の中にある単眼鏡は父が雪歩にくれたもので、彼女にとっては大事な思い出の品だった。
「おい、地上はどうなってる?」
「え、ええと…、井川さんが
雪歩は視界の中の出来事をそのまま言葉にした。一マイルほどの距離ならば、単眼鏡を使わなくても人物の特定に不足はない。
「まだ気付いてなさそうか?」
「そうみたいです」
雪歩と『狙撃手』がいるのは、砦の入り口の東にある山の中腹だった。
『狙撃手』の仕事は、敵―主に國津軍第八聯隊の連中だ―の
「一番槍は俺だ」
『狙撃手』が舌なめずりをする。
彼はどうやら、あの飛行人間を敵とみなしたようだった。そもそも独立軍は外部に味方がいない。援軍など来るはずもないのだ。考えてみれば、最初から敵である可能性の方が高かった。
狙撃手は体を傾け、歩兵銃を構えた。
(今日、私は死ぬのかな)
そして、再び、あの自問が湧いてくる。
父と違って、この『狙撃手』の腕は三流だ。彼は、静止している敵でさえも打ち逃がす。人間を相手にしたことはなかったが、兎や鳥を仕留めたことは数えきれないほどあるので、銃の使い方は雪歩も理解していた。
雪歩が思うに、『狙撃手』は獲物を前に興奮しすぎるきらいがある。乱れた呼吸とだだ漏れの殺意。彼はそれにより敵を打ち逃がす。
そして―これが最も彼の良くない点だが―、彼は反省をしない。故に、彼は一向に狙撃の腕が上がらない。
そもそも、『狙撃手』のような人間は、銃火器を手にしてはいけないと雪歩は思っている。これに関しては、彼女がこの世の理として気づいただけではなく、父もそう言っていた。叔父に銃を持たさぬよう、独立軍の仲間にそう言っているのを雪歩も聞いたことあった。
だから、雪歩は、叔父を見張るために、彼がとんでもない失敗をしないように、今日も彼と共に、蒸し暑い
(それに)
本当のことを言うと、父の銃を返して欲しかった。父の持ち物で遺品と呼べるのは、銃くらいのものだったから。
そんな彼女の思いも知らずに『狙撃手』は得意顔で銃を構える。
そして―
「死ね!」
『狙撃手』は嬉しそうに引き金を引いた。発射の際に発言してしまったせいで、案の定、弾は明後日の方向に飛んでいった。
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