第八章 異変(6)

 廊下に出た和泉小槙が向かったのは、隣の客間だった。

 彼女は躊躇ちゅうちょなく障子しょうじを開くと、入室の許可を伺うこともなく部屋の中へ足を踏み入れた。当然、片桐もそれに続く。


 客間の畳を占領しているのは、またしても布団だった。しかし、和泉小槙の場合と異なり、この部屋の客、遠野橘は布団の上に体を横たえていた。意識を失っているのか、乱入に目を覚ますこともない。


 和泉小槙は布団に近づくと、眠っている遠野橘を見下ろした。


 苦しいのであろう、遠野橘は眉に皺をよせて布団に横たわっている。

 着替える余裕も無かったのか、島屋の浴衣ではなく軍装姿だった。脱ぎ捨てられた外套が部屋の隅で丸くなっている。


 和泉小槙はしゃがむと遠野橘の鼻をつまんだ。

 じっと待ってみるが彼は目覚めない。

 よく見れば、口が半分開いているのが見えた。彼女は首をかしげるような仕草をした後、空いている左手で、遠野橘の頬をぞんざいに叩いた。

「うぅ…」

 遠野橘が呻き声をあげる。

 しかし、彼はそれでも目覚めなかった。

「…大事にしてあげてください」

 遠野橘が気の毒になり、言ってみる。

 和泉小槙は嘆息すると、

「…やむを得ないか」

 そう呟いて、鼻をつまんでいた指を離し、遠野橘の手をとった。


(…何だ?)

 その違和感を何と表現したら良いか、片桐には分からない。ただ、体の奥で蝋燭ろうそくに火が灯ったような感覚が生まれていた。


「大尉」

 問いかけようとして止めたのは、和泉小槙に明らかな変化が見てとれたからだった。


 彼女の手は青白く光っていた。

 見れば、和泉小槙の手の甲から葉脈のような管が伸びており、そこから光が放たれていた。管は遠野橘の首元まで伸びており、先端は磯巾着いそぎんちゃくのように遠野橘の肌に吸い付いている。


(竜との混血種…)

 片桐は、先ほどの彼女の言葉を思い出す。


 竜の生態に明るいわけではなかったが、それでも、そのくだが人間が持つ器官でないことは分かった。


 片桐は和泉小槙の表情を盗み見た。

 穏やかな表情だった。長い睫毛の下で紫の瞳がいっそう濃く輝いている。


 時間にすれば一分程度だろう。管の先端が遠野橘から離れて、するすると和泉小槙へと戻っていった。光が止み、和泉小槙が小さく息を吐く。


 布団の上の遠野橘の指が動き、その後に、まぶたが開いた。


「…え、あ、時間は」

「起きたか」

「和泉小槙?それに誰だったか…。あぁ、片桐さんか…。 ちょっと待って下さい」

 遠野橘はぶつぶつと呟きながら体を起こし、あぐらを組んだ。

 額に手をやり、ゆっくりと頭を左右に振ってから、視界の隅に何かを見つけたらしく、一点を凝視する。

 彼の視線の先にあるのは、くだんの薬箱だった。


「…助けてくれたの?」

 遠野橘が和泉小槙に尋ねる。

「ああ」

「駄目だよ。君が許可されている発動回数はわずかいちだろう?」

「ここは戦場ではない」

「それでも駄目だよ。降りてくる前に約束しただろう?不測の事態以外では絶対に力を解放しないって。しかもこんな至近距離で他国の人に見られちゃって…」

 遠野橘がこちらへと視線を向ける。

「片桐曹長なら大丈夫だ。それより、本部と指令本部と交信したいのだが」


「いや、駄目でしょ。次から次へと何言ってるの…。全く」

 遠野橘は露骨に顔をしかめた。大きく息を吐いてから、

「忘れたの?出国の際に、僕がどれ程の違反を犯したのか」

「それについては申し訳なく思っている。しかし、急ぎ本部に伝えなければならないことがある」

「…ひょっとして見つかったの?」

「ああ。片桐曹長が對源だ」

「は?」

 和泉小槙の言葉に遠野橘が固まる。しかし、和泉小槙は、遠野橘の様子に気を止めることもなく、話を進めた。


「話はもうついている。私がこの地を守れば、片桐曹長が天津国に来ることになっている」

 和泉小槙がこちらに顔を向ける。

 それを受けて片桐は口を開いた。

「自覚はありませんが、そういう存在ものらしいです」

「しかし、片桐曹長は私一人で淵主の相手をするのでは不安だから援軍を呼べと言うのだ。だから本部に通信を」

「何でもっと早く言わないの!?」

 遠野橘が和泉小槙に詰め寄る。

 中々の剣幕だったが和泉小槙は表情を崩さぬまま、

「というかどうして、気づかないんだ?」

「僕は普通の人間なんだから、分かるわけないだろ!君と一緒にしないでくれよ」

「次は對素濃度の測定器を作るんだな」

「何言ってるの、もう…。ああ、一昨日、応接間で怖い顔をしていたのは、それが原因か…」

「何で気づかないのか、と驚嘆していた」

「言いなよ。もう…。それにしても、そうか、片桐曹長が…」

 遠野橘が片桐に向き直る。

 無遠慮に見つめられ、片桐は居心地が悪い。


「……ちょっと、いや、かなり想像していたのと違いますね。先代の印象が強いのかな、やっぱり…」

「先代?」

 片桐が遠野橘の言葉を繰り返す。


「ええ。先代という言葉が正しいのかは分かりませんけどね。天津にも昔、對源の方がいたのですが、その人は少女の姿でしたから」

(少女の姿?)

 妙な言い回しに片桐は首を捻る。

 こちらの疑問を感じ取ったのか、遠野橘が説明を加える。


「人間に当てはめて、最も近い姿形が少女、とでも言いますか。五百年生きたとも言われていますから」

「五百!?」

「噂ですけどね。しかし、まぁ、それでもおかしくはないと思いますよ。そこの兵器の人も計算上では二百年ぐらいの寿命がありますし」

 遠野橘はそう言って、和泉小槙に視線を送った。

 その視線を受けて和泉小槙は誇らしげに、

「一緒に長生きしような!」


「しかし、對源は途中で肉体の成長が止まると思っていましたが…。仮説を見直す必要がありそうです」

「五百年…」

 もはや何を言われても五百年がちらついて頭の中に入ってこない。


(五百年…)

 再度心中で呟いてから、片桐はため息を吐いた。


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