第三章 帰営(3)
第十三中隊、兵舎一階
曹長である片桐には個室が与えられている。正面玄関から左に数えて三室目、官物の支給品のみで構成された無機質な部屋が片桐の執務室である。
将校と違って、初年兵から下士官までは下着を除く全ての衣類と装備品が国から支給される。
支給品の多くは、退役した兵士や死亡した兵士の使い古しだ。
自腹を切らなくて良いと思う反面、自腹で新品を準備した方が良いとも思う場合もある。
片桐は、固い木製の執務椅子に腰を下ろしており、執務机を挟んだ向かいに立っているのは野崎だ。
話題は、帰営直後に予告された
「
野崎はそう言うと、自分の足元に視線を落とした。
「自分も足の幅が広いので特にそう思うのかもしれませんが、あの幅では、初年兵は駆歩はおろか、速歩も難しいと思います」
「そうか…」
野崎の言葉を受けて片桐は思案する。
片桐自身は、梁の幅が狭いと感じたことは無かったが、それは足の幅がそう広くないからなのかもしれない。
「そんなに狭く感じるか?」
尋ねると、野崎は苦笑いを浮かべて、
「半分以上、梁からはみ出ますね」
「お前、足の大きさいくつなんだ」
「
「…それは難儀だな」
「合う
「経理委員泣かせだな」
片桐はそう言って口の端を持ち上げた。
國津国陸軍の兵は、基本体操と応用体操の二種類の体操を習得する必要がある。
基本体操は、その名の通り、体や脚、背、首などの各部位の曲げ伸ばし等主とする体操であり、基礎的な体力を備えることを目的とするものである。
これに対して、応用体操というのは、戦闘に耐えうる強靭な身体を作ると共に、戦闘時に想定される動作に慣れることを目的とするものであった。
梁木通過というのは、この応用体操の一つであり、高所作業時の恐怖心の克服と平衡感覚を養うことを目的とした運動である。内容はその名の通りで、高さ十五尺の梁木の上を、命綱無しで渡るという訓練である。
片桐は机の前に立つ野崎を見上げた。
帰営直後に受けた報告を言葉にする。
「捻挫が一名、骨折が一名だったか…」
「はい。ちなみに落下したのは四名です。負傷したのがその二人だというだけで」
「しかし、甘やかしていると戦場で死ぬことになるからな」
「言葉に重みがありますね」
「ついこの間まで最前線にいた人間の言うことを聞いておいて損はないだろう」
「しかし、これではそもそも戦場に送る兵士が育成できません」
「それは分かるが…。今、修繕課に要請してもな」
「…舛田が壊滅するなら無駄ですか?」
野崎が言う。
本題が来たか、と片桐は嘆息する。
「…今度の中隊長は外れだ。諦めた方が良い」
「伝えていただいたのですか?」
「一応な。しかし、失敗した。やはり俺はこういう交渉ごとには向いていない」
すまんな、と片桐は野崎に謝った。
「いいえ。有難う御座います。舛田に戻られたばかりなのに…」
「二月の終わりに一度、大きな地震があったと言ったか…」
片桐は以前、野崎から聞いた状況を呟く。
「はい。それから、二週間ほど地震が頻発していましたが、その後は、現在と同じで一日に一、二回に減りました」
「…本当に沈静化に向かっているのかもしれんな…」
片桐は呟く。
内心では複雑な思いが交錯していた。
地震が減るのはよい兆候だが、何故、今なのか。
「曹長殿?」
「…野崎」
片桐は、野崎の顔を見上げて、「雨男を信じるか」と尋ねた。
野崎は突然転換の話題に眉根を寄せながら、
「雨男と言うと、大事な行事に限って雨が降るって言うあの雨男のことですか」
「そうだ。それをどう思う」
「そうですね…。自意識過剰な人物が、自分中心に
「俺もそう思う」
片桐は、野崎の言葉に同意した。
人間が天候を左右する力など持ちうるはずがない。
この星の生物は皆、淵主という巨大な生物に寄生しているだけの矮小な存在なのだ。
ましてや地震の数を減らせるなんて。
(あり得ない)
片桐はそれを切って捨てた。
「雨男が今回の件と何か関係あるのですか」
「いや、聞いてみただけだ。それよりも、明日の演習をどうするかだが…」
「第一小隊と交代しなくて大丈夫なのでしょうか」
「代わると思うか」
「思いませんね…」
野崎が苦笑いを浮かべる。
事態が沈静化に向かっているのであれば、高階少尉が最後に手柄を横取りするような真似を許すわけもなかった。
「一応、交代で休んでいるようだし、前線では普通のことだからな。良い機会だろう」
「厳しいですね」
「小隊間の溝が埋まれば良いと思ってるだけだ」
「片桐曹長は明日もお使いですか?」
「俺は代わってやるぞ」
「私には荷が重いです」
「何事も経験だ」
「珍しく弱気ですね…。そんなに恐ろしい方なのですか」
「興味が湧くだろう?」
「やはり私には荷が重そうですね。これなら梁木通過の方が
「やるのか」
「必要な訓練なのでしょう」
「そうだ」
頷いてやると、野崎は満足したように表情を緩めた。
正しく敬礼をした後、来室したときと同じく大きな歩幅で部屋から出ていく。
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