第三章 帰営(1)
片桐が遠野橘らと別れて第十三中隊の兵営に帰還したのは、午後五時を数分過ぎた頃合いのことだった。
上層の浮き島の陰となる関係で、第三階層の國津国では、夜の
日の入りまでには、まだ一時間ほど残されていたが、それでも辺りは闇に包まれて始めており、本部内では備え付けの石油ランプに明かりが灯っていた。
第十三中隊本部、北側出入口
(野崎か)
舛田の土は、粘り気がある性質のため、雨上がりは靴底に土が入り込み、取り除くのに手間取るのだが、この土のおかげで農作物の味に深みが出るらしいので、おいそれと嫌うことも出来ない。
「お疲れ様です。片桐曹長」
背中から声がかかる。
振り返ると予想通りの姿があった。
階級は
片桐よりも頭二つ分ほど上背があり、胴回りも分厚いため、近くにいると、大人と子供ほどの体格差が生まれる。
野崎の声は低く野太い。
そのため、演習の号令に気の弱い初年兵が
野崎も第二小隊の所属であったが、彼はカレニア方面軍には行軍せず、第二小隊の初年兵の面倒を見るために、舛田に残った。
結果、戦場帰りの片桐にとって、野崎は数少ない癒しの存在となった。
知り合いが生きている、という事実は、多くの喪失を経験した片桐にとって、前を向く理由の一つだ。皆が生きているのなら自分も、という気持ちになる。元々、人生に意味を見い出すような性格でもない。死ぬ瞬間に振り返った自分の過去が満足のいくものだったかどうか、それだけのことだと思っている。
野崎が舛田に配置されたのは一昨年の四月のことで、付き合いはもうすぐ二年になる。
「どうでした?中隊長殿のお使いは」
「強行軍訓練の方が気が楽だ」
片桐は、靴底を地面に叩きつけながら答えた。足の形をした土が落ちる。
「そんなに大変でしたか」
「俺には向いていない。分かっていたが」
「
語尾が上がる。顔は見えなかったが笑ったようだった。
片桐もつられて口の端が上がる。
「適任だろうな。案内役を変えるよう、中隊長殿に進言しておこう」
同盟国の将校が相手ともなれば、本来ならば、片桐のような下士官ではなく、将校が対応すべきなのだ。
第二小隊の将校が不在であるのなら、第一小隊の将校(高階である)が案内役に当たるべきである。
(信頼に値する人物であるとは言い難いが)
自己顕示欲の強い怠け者。
それが、片桐の高階少尉に対する評価だ。
いつもの高階少尉ならば、同盟国の将校の道案内などという美味しい仕事を放っておくはずもないのだが、今回、何の横槍も入れてこないのは、第一小隊が要岩に付きっきりになり、兵営にもろくに戻ってきていないからだった。
本部の廊下に人気がないのも、それが要因の一つだ。
ちなみに別の要因としては、夕食時のため、第二小隊の兵士が本部執務棟に隣接する食堂に集合していることと、そもそもカレニア方面軍の欠員が補充されていないことがあった。
舛田の外に出ず、要岩の監視と守護を主の職務とする第一小隊の兵士は、怠け癖がつきやすい。
職務中の飲酒や民間人への暴行などの噂が絶えなかったため、片桐も上官と共に要岩の広場へ赴いたこともあるほどだ。
楽な第一小隊と比較して、前線に送られることが多い第二小隊は過酷だ。
兵士なのだから、過酷なのが普通なのだが、やはり同じ兵営内で苦楽の差が大きいと仲良く出来ないのが人間だ。
第一小隊と第二小隊の間には、深い溝が出来ていた。
「第一小隊の方は、いよいよ危ないのでしょうか」
野崎が尋ねてくる。答えを求めているというよりも、話題提供の色合いが強かった。日頃、初年兵相手に指導してばかりなので、この話題の話し相手がいないのだろう。
「弾薬庫と武器庫の鍵が開いていたな」
「ご覧になりましたか…」
「馬を出すときにな。中隊長殿は何か言ってなかったか」
片桐の問いに、野崎は大きく頷いて、
「明日も我々第二小隊は通常演習とのことです」
「嘘だろう……」
野崎の言葉に片桐は愕然と野崎を見上げた。
「第一小隊からは、沈静間近との報告を受けている。第二小隊がいつもと違う活動をして、住民を不安がらせてどうする、とのことでした」
「もう手遅れだと思うがな」
片桐は靴を拾って立ち上がる。
脳裏に浮かぶのは、不安げな三原屋の店主の顔だった。
「あの、後で報告に伺っても良いでしょうか」
「何かあったか」
「
「あー…、分かった、後で聞こう」
話が梁木通過の件だけでは終わらないことは容易に想像できたが、遠藤とは違い、野崎の場合、他の話をしてはならないという制約もない。
「ありがとうございます。これ、預かりますね」
野崎は片桐の靴を受けとると、廊下を歩いていった。
片桐は腰に手を当てて、肩の力を抜くように息を吐いた。
遠藤に本日の成果を報告に行かねばならない。
気乗りしないがこれも仕事だ。否、これが仕事であると言うべきか。いずれにしても逃げるわけにも行かない。
片桐は、野崎が去った方向とは逆の方へ足を踏み出した。
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