第32話 脱出

 それから数日後の事だった。ミラベルはその日は仕事が休みで、村はずれの自分の家へ行き、わずかばかりの畑を耕していた。少しでも野菜などを作ることが出来れば、生活の糧になる。痩せた土地を耕すのは一苦労で、大工に掘ってもらった井戸から水を汲むのも重労働だった。父母を呼び寄せるにも、お互いに連絡の取りようがなかった。一人で週末の休みの日だけでこの仕事をするのは困難だということが分かった。いずれはメイドの仕事を辞めるか、畑を作るのはあきらめて住む家だけの場所にするかどちらかになってしまうのだろう。ヤギや羊を飼えば、ここを離れるわけにはいかなくなる。そんな仕事を朝から続け、くたくたになってベッドで体を休めていた。ランプの明かりの灯るこの部屋で静けさに包まれていると、平和な気持ちになっていつの間にか眠りについていた。どのくらい時間が経ったのだろうか。ミラベルは、どんどんとドアをたたく音がして目が覚めた。


――こんな時間に誰かしら?


 ようやく空が白み始めてきたところで、日が昇るにはあと少し時間がかかるだろう。相手がわからないうちは開けるわけにいかない。このまま黙っていた方がいいのではないかと思い、じっとしていた。ドアをたたく音は鳴りやまない。暗い部屋の中で、ドアをたたく音だけが聞こえる。


――誰なのだろうか


「ミラベルさん! ここにいるんでしょう? 僕です。ウォルナーです、開けてください!」


 なぜウォルナー王子が、本当に王子がここへ来たのだろうか。


「本当です。訳があって逃げてきたのです。開けてください。あなたに場所を聞いたのでそれを頼りにたどり着いたんです」


「ウォルナー王子、どうなさったんですか? 今すぐ開けます!」


「あなたがここにいてくださってよかった……鍵をすぐ閉めてください。誰かが追ってきているかもしれませんから」


「どうなさったんですか。そんなに慌てて」


 ウォルナー王子は王宮から命からがら逃げてきたのだった。それは早朝の出来事だった。国王一家や使用人たちの殆どが寝静まった夜から明け方にかけての時間に、盗賊一味が徒党を組んで王宮を襲撃してきた。どこかに身を潜めていた一味と、グレーシア公爵の兵士たちが徒党を組んで王宮を囲む塀を乗り越え、プルーナのいる牢を探し当て連れ去った。その後屋敷を占拠してしまった。泊りの使用人たちは、見つからないよう命からがら王宮から逃げたものもいれば、抵抗して殺されてしまったものもいた。警備の兵士たちは、交代で警護に当たっていたが、昼間程は多くはなく、盗賊たちに数の上で負けてしまっていた。あっという間の出来事でどれだけの人が逃げおおせたのかはわからなかった。王と王妃、王子は別々の部屋で休んでいたので、お互いの無事を確かめることもできなかった。ウォルナー王子は命からがら逃げてきたいきさつをミラベルに説明した。ミラベルは、王子が無事にここへたどり着いてくれたことが奇跡のような気がして涙がこぼれた。思わずウォルナー王子を抱きしめていた。


「ウォルナー王子様、ご無事でよかった……ここは人里離れた場所。ここへ来るまでに誰にも見られていなければひとまず大丈夫です」


「見られていないはずです。あなたの家の場所を聞いておいてよかった」


「王子様も王宮から逃げられて良かった。どうやって逃げることができたのですか」


「僕の部屋から地下へ続く階段があります。そこから直接外へ出られる地下通路があるのです。出口は、誰も知らない場所にあります」


「そうでしたか……そんな仕掛けが部屋にあったのですね」


「このことは、誰も知りません。王の部屋にもあるので、早く気がついていればそこから逃げたはずですが、外へ出た時に姿が見得なかったので、助かったのかどうかさえわかりません」


「助かっていてほしいです。絶対に! それから使用人の方たちも……」


「逃げていてくれるといいのですが……」


「王子様、ここに隠れていてください。ここに王子様がいることは誰にも分らないはずです。王子様から頂いた給金でこんな家を持つことが出来ました。しかも特別なお手当のお陰で寝室がいくつかあります。だって、あんなにたくさん下さったんだもの」


 ウォルナー王子はミラベルの手を握り、再会できたことを喜んだ。王子は、ミラベルが王宮へ来た当初剣術や体を鍛えることが必要だと言っていたことを思い出した。


「ねえ、ミラベルさん。僕はもう王子ではなくなってしまいました。舞踏会の後で、僕はあなたのことが好きだと打ち明けた時の事を覚えていますか」


「ええ、ええ、覚えていますとも」


「その時あなたは、自分が街の娘に過ぎないから妃にはなれないのだと答えました」


「そうでした。そうお答えしました」


「それじゃあ、僕が王子ではなくなったら、僕と結婚できますか」


「そんな! ウォルナー様は王子様でなければなりません! 決して、王子でなくなることはありません」


「それでも答えてください。もし王子でなくなってしまった僕のことをどう思っているか……」


「私は、私は、ウォルナー様が、王子様でも、王子様でなくてもお慕いしております。でもね、ウォルナー様は、王子様という肩書がなってしまっても、私にとっては王子様なのです」


「面白い答えですね、でも良かった。今までずっと聞きたかったけど、一度も聞けなかった言葉をやっと今聞くことが出来ました。こんなことになってしまってやっと……」


 ウォルナー王子は、透き通るようなブルーの瞳に、湖の様に涙をいっぱい貯めて、ミラベルの額に口付けした。ミラベルはダンスの練習の時のように、ウォルナーの手に自分の手のひらを乗せた。二人はしっかりと手をつなぎ、お互いの目を見つめ合った。


「舞踏会のダンスはあなたとしたかったな」


「私にはプルーナ様と王子様がお似合いのカップルに見えました」


「僕はちっとも楽しくなかったのに……僕は馬鹿ですね。あなたが怒ってくれるのを待っていたのかもしれません」


「気がつかない私はもっと馬鹿でしたね」


「ぼくたちどうしようもないですね」


「本当に……」


 お互いの気持ちをようやく伝え合ったウォルナー王子とミラベルは、暖かい部屋の中で窓から差し込んできた朝日に照らされていた。


「もう太陽が昇り始めました。ここへたどり着いてよかった。この家が見えた時はまるで天国のように見えました。」


「ウォルナー様、盗賊の一味たちとグレーシア公爵たちにこの国を支配させてはなりません! あいつらの暴挙に苦しむ民が増えるだけです」


「今こそ何とかしたいと思うが、僕が下手に動けば見つかって殺されてしまうだろう」


「私、ヘーゼル様のところへ行ってきますっ! 何かいい方法が見つかるかもしれません。王子様はしばしここに身を隠していてください!」


「危険な目に合わせて申し訳ない。くれぐれも気を付けてください!」


「絶対に見つからないでくださいねっ!」


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