第20話 帰り道でヘーゼルに会う
顔を洗って出てきたが、きっと腫れぼったい顔をしているだろう。誰にも会わなければいいのにとミラベルは思う。農夫にだってこの顔を見られれば、どうしたのかと理由を聞かれるだろう。なるべく早く家にたどり着きたい。
考えないようにすればするほど、ウォルナー王子の顔が浮かんでくる。出会ったときはこんなことはなかったのに、お金のためにここで働いているのだと思えば思う程、別の事を考えてしまう。牧場の間の小道を歩いていると、馬車が一台向こうからやってきた。農夫の馬車かと思いそのまま通り過ぎようとした矢先、馬車の中からミラベルの名前を呼ぶ声がした。その声は懐かしく、嬉しくもあった。
「こっちこっち! 僕だよ、今帰りなの?」
ついこの間まで働いていたブランディ侯爵家のヘーゼルだった。馬車の中から手を振って笑顔でミラベルに挨拶している。
「ああ、お懐かしい。ヘーゼル様!」
「久しぶりに会ったんだ、今日は近くまで馬車で送って行くよ」
「わあ、ありがとうございます」
「さあ、乗って!」
歩き慣れた道がどんどん後ろへ遠ざかっていく。初めて馬車から景色を見た。こんな素晴らしい乗り物があったなんて、夢のようだ。以前は父にたまにどこかへ出かける時に乗せてもらったことがあったが、遠くの街へ行く時しか乗れないものだと思っていた。座席の座り心地を味わい、車輪が動くたびに揺れるのにも心が浮きたつ。
「久しぶりですっ、といってもまだ数週間しか経っていないけど、元気でしたか?
あれ、顔が腫れぼったいみたいだけど、どうかしたの?」
「疲れがたまっているのかもしれません。でも、元気でやっています」
「仕事がきつかったら、また家に戻ってきたらどう?」
「……ありがとうございます、私はブランディ家で働かせていただいていた方が良かったのかもしれません」
「あれ、どうしたんだ。泣き言をいう人じゃなかったのに、何か今日は変だな」
「ちょっと考え事をしていて、でも少し元気が出ました」
「馬車に乗れたからかな。ちょうどいいところで僕に会ったね」
全てを失った自分が、王宮で働かせてもらっている。しかも自分の都合でやめてしまった侯爵家のヘーゼルに馬車に乗せてもらっている。こんなに良くして頂いていて落ち込んでいるなんて贅沢だ。初めて会ったときの印象では、ヘーゼルは怠けて外で遊んでばかりいる若者だと思っていたが、心の優しさでは三兄弟の中では一番だ。
「ヘーゼル様とお話ししていると、心が癒されます」
「おう、やっと俺の良いところがわかったようだね。俺は今頃ミラベルさんは王子様に恋してしまって仲良くしているかと思った」
「いえいえ、王子様は……私の手の届く方ではありません」
「ふ~ん、そうか。また、帰りがけに会えるかもしれないね」
馬車の揺れに合わせて、肩がほんの少し触れる。ピスタの蹴ったボールに当たって倒れた時以来の温もりだった。
「相変わらず皆さんでサッカーをやっていらっしゃるのですか?」
「うん、時々気晴らしにね。外を走ると気持ちがいいから。でも心配しないで、カレッジにもちゃんと行っているから。要領よくやっているから、後一年もあれば卒業できる」
「卒業されたら、何をなさるんですか?」
「ああ、仕事とか? 僕は貿易の仕事をしようと思ってるんだ」
「では、市場で働くこともありますよね?」
「そうなると思う」
「市場に以前仕立て屋があったのをご存知ですか?」
「……ああ、大きな店構えの仕立て屋があったな」
「あの店は私の家だったのです。それを高利貸しが事業拡張を持ち掛け父を騙して、挙句の果てに店は高利貸し達に取られてしまいました。今ではその一味が勝手に使っております」
「そうだったんだ。大変なことになったてしまったんだな。俺もそいつらには気を付けることにするよ。でも何とかしてそいつらに仕返しして、店を取り戻したいよな。そんな奴ら町を出て行ってもらわないと……」
「危ないことはなさらないでください。どんな仕返しをされるかわかりませんので」
今までレーズンおばあさん以外の人には言わなかったことをヘーゼルに行ったことで、気持ちがすっきりした。今すぐ何かをしてもらいたいわけではないのだ。ヘーゼルは、ミラベルに会えたのを喜んでいる様子だ。何を言っても笑顔で聞き、困ったことがあると自分の事の様に心配してくれている。
「王宮の仕事が大変だったら、僕に相談してくださいね」
「大変というわけではありませんので……」
「困りごとがあったんでしょう?」
「それも、私自身の事なのです」
「僕に相談できないようなこと?」
「……ごめんなさい。こんなに心配してくれているのに」
「言いたくなければ、言わなくてもいいですよ」
ヘーゼルは、そっとミラベルの肩を抱きしめた。ミラベルは再び涙がこぼれそうになるのを必死でこらえていた。馬車は雑木林のそばまで来ていた。ミラベルは、雑木林の入り口で降ろしてもらい、中へずんずんと進んでいった。もしやと思い振り向くと、そこにはヘーゼルが立ち尽くしている姿があった。ミラベルは元来た道へ引き返した。
「ヘーゼル様。わたし、わたし……どうしたらいいのか……」
「何も言わないでいいですよ……泣きたい時は泣きたいだけ泣けばいい。僕はミラベルさんが兄のように慕ってくれるだけでいいですよ」
ミラベルは、ヘーゼルの胸で声を出して泣いていた。そんな彼女をヘーゼルは黙って優しく肩を抱き、涙が止まるまで撫でていた。
🌠
小屋へ戻ると、レーズンおばあさんがスープを用意してくれていた。
「あら、今日はいつもより早いね」
「ええ、ヘーゼル様が馬車に乗せてくれて、雑木林の前まで送ってくださったの」
「そりゃよかったね。ヘーゼル様というと侯爵家の長男で、体力ばっかりある人だろ。女性を送ってあげることなんて、さっぱりない人なのに珍しいものだ」
「おばあさん、そんなことはありません。ヘーゼル様は頭もよいし、女性にも優しい方なんですよ」
「おやまあ、そうでしたか」
お婆さんは、意味ありげに言った。
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