第19話 ミラベルの涙
舞踏会までの一か月間は毎日筋トレを欠かさず行うことになっていたウォルナー王子は、ミラベルに言われなくとも、自分から毎日行うようになっていた。次第に体が引き締まり、初めはだらしなさそうに見えた身のこなしも、軽やかで機敏になってきた。わかり切っていることだとは思ったが、ミラベルはさりげなくウォルナー王子に訊いてみた。
「王子様は、舞踏会に来られたご令嬢とお付き合いして、将来は御結婚なさるんでしょうねえ?」
「そのつもりだよ。だから君にレッスンをしてもらっているんだ。前のお宅では家庭教師をやっていたから慣れていると思って」
「それ以外の方とは、ご結婚される気持ちはないのでしょうねえ? 例えば、偶然出会ってその方を好きになられてお付き合いする、などということは……」
何とも回りくどい聞き方をしてしまった。
「そうだね。別に舞踏会に来なかった人の中でも好きになった人がいれば結婚相手として考えるけど……貴族のご令嬢ならば……」
「さようですねえ。貴族のご令嬢ならばよろしいですよねえ」
やはりそれが当たり前なのだろう。もうこれ以上聞いても仕方がないし、自分がみじめになってくるのでその話はそこまでにした。
「さて、もうだいぶ完成してまいりました。あと少しでございますね」
「今日は何のレッスンかな? 僕はもう完璧のような気がするけど」
「王子様とご結婚なさると幸せになれると、相手に確信させることです」
「随分抽象的で、掴みようのない話だね」
「そうなのです。ですかれこれは、気に入られた相手をよく観察する必要があります。そして、その方がなにをお望みで、何が幸せなのかを見極めることです」
「よし、分かった。例えば、お金が大切だと思う人だったら、たくさんお金を上げることだし、宝石が好きな人だったら、宝石をプレゼントすることだな」
「まあ、そんなに単純なことではないと思いますが、簡単に言えばそのようなことだと思います」
「ご令嬢は、優しくエスコートされることが嬉しいのです。エスコートして差し上げてください」
「よ~し、分かったぞ。例えばミラベルさんだったら、給料アップするとこの上なく喜ぶし、美味しいものを上げると大喜びするということだな。そして幸せになれるんだ」
「私そんなに単純なわけではありませんが。でもかなり当たっております」
「だんだんコツがつかめてきました」
当たらずとも遠からずだと思うし、理屈はあっていると思う。何でも自分の思うように行動しているように見えたウォルナー王子だったが、ミラベルの話をこんなに熱心に聞いてくれている。書物で読んだり、レーズンおばあさんからたたき込まれた所作やお付き合いのやり方がここでこんなに役に立っている。
「ねえ、ミラベルさんはこんなにお付き合いのことが詳しいけど、男の人とお付き合いしたことがあるの?」
不意を突かれて、すぐには言葉が出なかった。書物から学んだり、聞き覚えたことばかりで、お付き合いなどいまだかつてしたことがなかった。そういえば図書館と家の往復だけだった。
「……いいえ、残念ながら……ありません」
「じゃあ、今までのレッスンが思い通りに行くかどうかは、分からないよなあ」
「はい、その通りです。今までのレッスンはあくまでレッスンです」
「恋は……教えてもらってもうまくいくかどうかはわからないということですね」
「はい、わからないことばかりですね……でも、きっと優しい気持ちで相手の方に接すれば、きっと心を開いてくださるのでしょうね」
「ふ~ん、ミラベルさんはそういうものだと思ってるんだね」
「えへへ、まあそうですね。そんな人と出会えるといいですが……」
いつの間にか二人で恋愛談義になっている。
「素敵な方がいらっしゃるといいですね。そしてドキドキするような恋ができたら楽しいでしょうねえ」
「ふ~ん、ドキドキするのが恋なんだな……なんだか楽しみになってきた。ミラベルさんもそんな恋がしたいんですね」
今日の王子様は、ちょっと雰囲気が違って見える。あらあら、何か良い香りが漂って、花に包まれたような気持になってくる。香水をつけているのだろう。ここ数週間の王子の変化に使用人たちもどうしたことかと、不思議がっている。日に日にたくましく優しい紳士に変わっていくのだから驚くのも無理はない。ミラベルは自分がこうするといいとアドバイスしたにもかかわらず、言った通りのことを自分にされるとドキドキして困惑するようになってしまっていた。つの間にか、王子様に恋をしないように気を付けなければ、と思うようになっていた。
「ミラベルさん、考え事をしていたのですか?」
「ええ、他に何か気を付けるべきことがあるかどうか、考えていました」
「もう大丈夫ですよ。少しだけ自信がついてきました」
「では、今日はもう失礼いたします」
「では、僕はもう一度筋トレをします」
ミラベルは、ドアを開けて部屋を去ろうとした、後ろから王子が彼女の手をそっとつかんだ。
「ミラベルさん。美味しいチョコレートをご用意しますよ。明日必ずおいでください!」
「ウォルナー王子様、私が窓ふき競争に負けてしまったから同情されているんですね! 優しいお言葉をかけてくださるんですね。そんなふうに優しくしてくださると、誰もが心を開いてくれます」
「どうですか、僕にもう一度会いたいと思ったでしょう?」
「はい、チョコレートがいただけるなんて感激でございます」
「やっぱりな。ミラベルさんはあの時相当悔しがっていたからなあ」
「お分かりになりましたよね。私の失望ぶりが」
そしてミラベルは王子の部屋のドアを閉めた。どこかのご令嬢の様に廊下を静かに歩いていく。私が本当のご令嬢だったらよかったのに。部屋から離れていくほど悲しと口惜しさが押し寄せてくる。メイドのチェリーが不思議そうな顔で見ている。
「ミラベルさん、何を悲しそうな顔をしているのですか? 王子様のお部屋のお掃除はそんなに辛いのですか?」
「ううん、辛くないわよ。どちらかというと楽しい」
「じゃあなんで、あなたの眼には一杯涙が溜まっているの? 王子様にひどいことを言われたの?」
「ううん、酷いことなんて言われたことはない。いつも優しくしてくださいます。私がいけないんです……」
ミラベルは、廊下を掛けだした。チェリーにこれ以上顔を見られたくない。階段を下り外へ出て、誰もいない裏庭に出た。
――私はなぜ良家のご令嬢じゃないの? 今まで勉強してきたのは何のためだったの?
こんなつらい思いをしなければならないのに、なぜ勉強なんかさせたの!
ミラベルは、じっと下を向き声を押し殺して泣いていた。涙があとからあとからほほを伝っていく。この気持ちは誰にも悟られないようにしよう。そしていつか笑顔で王子とお別れしようと決心した。
ミラベルは着替えをして、顔を見られないようにそっと王宮を出た。自室からそれを見送っている姿があった。二階の窓からウォルナー王子が、彼女の後ろ姿を笑顔で見つめていた。
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