第7話 ヘーゼルの温もりに包まれて
「おーい! ヘーゼル、カシュ―! サッカーやろうぜーっ! ミラベルさんも一緒にやるって!」
「私一緒にやるなんて言ってないってば……」
「へーっ、面白そうだなー。今すぐ行くよ、どうせ暇だったんだ」
「皆さん勉強はしなくていいんですか?」
「大丈夫、大丈夫」
元気のいい声がすると、二人はすぐに運動できる服装でボールを持って出てきた。よほどサッカーが好きなのだろう。三人は一目散に廊下から階段を降り、バタバタと走っていく。ドアを開けて、あっという間に外へ出て行ってしまった。何も話しかける隙が無かった。
慌てて、三人の後を追いかけ外へ出ると、彼らはもう芝生の上でボールを蹴っている。三人だけなので試合をしているわけでもなく、ただ楽しそうにボールをパスしたりドリブルしたりして隅から隅まで走り回っている。そのうちゴールへ移動しシュート練習が始まった。年長のヘーゼルがゴールキーパーをし、二人が交互にシュートしている。ヘーゼルの動きが機敏で、なかなかカシュ―とピスタのシュートは決まらない。
「ピスタ頑張れ!」
いつの間にか、大声で応援してしまった。大柄なヘーゼルが体を張って守っていると、二人が必死に左右からせめてもブロックされてしまうのだ。三人がよく見えるように、ミラベルはゴールのそばまで近寄っていく。
「オーイ、俺の応援してて!」
こちらを向いて、ピスタは嬉しそうに手を振り再度キックする。張り切りすぎたのか、ボールは大きくゴールの上の方に当たり、はじき返された。
「あっ」
その瞬間ミラベルは何が起きたのか一瞬分からなくなった。弾き返されたボールが自分めがけて一直線に飛んできているのに気がついた瞬間、顔面の直前に飛んできていたのだ。よけようとしてよろけた結果、側頭部に当たり、ボールが鈍い音を立てて斜め後ろに飛び去って行った。その勢いで、ミラベルはボールと反対側の地面に倒れ込んだ。地面に芝生が生えていたからまだ衝撃はそれほどでもなかったが、ボールが当たった側頭部は、じんじん痺れている。髪の毛が抜けたのではないだろうか。
「あっ、ごめんごめん! 怪我はなかった?」
という声が、遠くの方から聞こえてきた。三人が走って傍へ寄ってくる。ミラベルはひっくり返ったまま、空を見ていた。起き上がれるのだろうか。空を見上げていると三つの顔が目の前に現れ視界を遮った。
「大丈夫か、頭に怪我はないか?」
ゴールキーパーをしていたヘーゼルが頭を触った。頭頂部から側頭部へと手が移動する。
「あっ、痛い!」
「やっぱり側頭部に当たっている。起きられるか?」
「頭がぼおっとしています……ちょっと、すぐには起きられません」
「そうか、じゃあ動かないでそのまま態勢でいい。俺が抱えて行く!」
ヘーゼルは、ミラベルの体を横向きに抱えて、芝生の上をずんずん歩き始めた。えっ、何これは、こんなことをされるなんて……かといって自分で起き上がって歩くこともできないので、どうすることもできない。おとなしく部屋まで運ばれていくしかない。
ヘーゼルはたくましい腕で軽々とミラベルとを抱えている。抱えられて下から見上げた顔は精悍で、さらさらとした金髪が風を受けて揺れている。歩くたびに体中が胸に当たるが、筋肉で締まっている。こんなときどんな言葉を発すればいいのかわからない。家を出てから初めて感じたぬくもりだった。カシュ―とピスタが後ろからついてきている。
屋敷に入り、メイドのチェリーに氷嚢を持ってくるように指示している。まだ抱えられたままでチェリーにも見られている。ソファの上に寝かされ、ボールがぶつかった部分に氷嚢をあてがわれた。冷たくて気持ちがいい。チェリーまで輪の中に加わり、ミラベルを取り囲む形になっている。四人の注目の的になっている。
どのくらいそうしていただろうか……
「う~ん、もう立てるかもしれない。よいしょっと……」
「大丈夫ですか? ミラベルさん」
チェリーが心配そうに顔を覗き込む。氷嚢を自分で押さえながらソファに座る。
「皆さん、私はもう大丈夫そうです。お部屋へお戻りください」
「良かった。どうなることかと思った」
ボールを蹴ったピスタがほっとしている。三人が部屋へ戻り、チェリーが心配そうに一人残った。
「家庭教師は大変ですね。なかなか勉強がはかどりませんものね」
「少しぐらいならと思ったら、私がこんなことになってしまいました」
「ゆっくり休んでいるといいですよ。また戻ると大変ですから」
「優しいんですね。ちょっと休んだら戻ります。また家庭教師の仕事に戻らなきゃ」
チェリーは、ミラベルの顔の近くまで目を近づけて、じっと顔を見て仕事に戻っていった。
「あら、髪の毛がぐしゃぐしゃになっちゃってるわ」という言葉を残して。
髪の毛のことを気にしている場合ではない。始めてから一週間たたないとお給金がもらえないのだ。それまでに首になってしまっては大変だ。ピスタとはうまくやっていかなければならない。さて、そろそろ休憩を終えて部屋へ戻るとしよう。
「もう古典を読むのは疲れちゃったでしょう。次は歌唱練習をしますよ」
カレッジに入るには、実技を一つやらなければならない。歌かダンスのどちらかをやることになっているので、ピスタはどちらかというと得意な歌の方を選択する。ピアノの音を聞きながら、まずは発声練習をする。
「ア―、ア―、ア~、ア―、ア~ン」
「口を縦に開けて、喉の奥から声を出して!」
「ア~、ア~、ア~、ア~、ア――」
調子はずれの声が部屋に響き渡る。
「窓ガラスが振動しているわ!」
「俺の美声で、ガラスが震えているのか! 凄いな!」
「しっかりピアノの音を聞いてね! ピアノの音が聞こえない?」
次第に声が大きくなる。ピアノの鍵盤をたたく手に力が入って行き、指が痛くなってくる。
「ア―、ア―、ア―、ア―、ア―、もう一度!」
「ア~~、ア~~、ア~~、ア~、ア――ン」
ピアノの音と全く違う音程で聞こえてくる。これだけ音程を外すことができる人がいるなんて前代未聞、ある意味凄いことだ。
「はあ―あ――っと、もういいわ。一曲歌ってみましょう」
ピアノの前奏を弾き、ミラベルがまず歌ってみる。街の仕立て屋としては裕福な方で、ピアノを習わせてもらっていたおかげで、伴奏を弾くことができた。弾き語りのような形になり、ピスタは全く歌おうとせず、うっとりと聞き入っている。一曲歌い切った時には、ヘーゼルとカシュ―もピアノのそばに来て、ミラベルの歌に聞き入っていた。
「凄い上手だね! 俺の部屋まで聞こえてきて、ついつい聞きに来てしまった」
二人は歌い終わると同時に拍手していた。ミラベルの後ろにいたので、気がつかなかった。
「次はピスタに歌ってもらいます」
「じゃあ、ミラベルさんも歌ってくれよな」
ピスタは、ミラベルの顔を見て甘え声で言った。
「では、もう一度。一緒に歌いましょうか」
前奏が終わり歌のパートになった。思った通り全く旋律の音と合っていない。ほとんど音を外して、しかも大声で怒鳴っている。いや、本人は気分よく歌っているつもりなのかもしれない。歌も中盤に入ったが、全くミラベルの音程とは違う音を取り続けるピスタの横顔を見ると、何とも楽しそうな表情をしている。まあ仕方ないと思い、伴奏していた。曲が終わりピスタに訊いた。
「ピスタ。音が全く違うっていうことに気がつかなかった?」
「へえ、そうだった。二人で勝手にハモっちゃったのかなあ」
「ハモるんじゃなくて、おなじ音程で歌えばよかったんだけど……」
「おなじ音程だったじゃないか」
「はあ、だいぶ違ってたんだけど」
ヘーゼルが、二人の会話を遮った。
「ちょっとちょっと、ミラベルさん。これでもピスタはだいぶ上達したんじゃないかなあ。今までは、蚊の鳴くような声だったから、これだけ声を出したのはかなりの進歩だ。ミラベルさんの伴奏が上手だったからなんじゃないのか」
「オー、そうかもしれないな」
ピスタも、感心している。この兄弟何なのだろう。褒めてもらえるとは思わなかった。思いがけないご褒美をもらった気分だ。初めて教える生徒がこんな調子で、どうしたらいいのかわからなくなってくる。
「次はみんなで歌ってみよう」
ヘーゼルが提案する。
「じゃあそうする?」
四人一緒ならうまく歌えるかもしれない、という期待は簡単に裏切られた。ヘーゼルもカシュ―もほとんど変わらなかったのだ。ミラベルだけが三人に負けずに大声で歌い一曲が終わった。
「お二人とも一緒に歌ってくださってありがとう。ピスタもよかったと思います」
殆どやけくそになって、そんな言葉で締めくくり音楽のレッスンは終わった。多くの本を読み、たくさんの知識を身に着け、ピスタの家庭教師もうまくやっていけると思っていたのに、自分が思ったようには効果が上がらない。ミラベルは焦っていた。そんなミラベルの様子が気になったのか、ピスタがちらちらと見ている。
「あんまりがっかりするなよ。いつもこんなもんだったんだ……」
ピスタに慰められると、よけい惨めな気持ちになる。お金のために仕事しているのだという自分の打算が試されているのだろうか。
「元気出せよ」
そんなに深刻になる必要は無いのかもしれない。考えてみればたった一歳違いだ。最初から気負いすぎていたのだろう。もう少し肩の力を抜いて、リラックスして接するべきなのだろう。
「またおやつをお土産にすれば、ご機嫌が直るだろ?」
ピスタはミラベルがお金がないことも、美味しいパウンドケーキを食べたことがないことを決して口に出さない。ピスタありがとう、という気持ちを心の中でささやいた。
「じゃあ今日は、終わりね。私は、メイドの仕事に戻るから」
「うん、バイバイ! 明日はお手柔らかにね!」
二日目のメイドの仕事昨日と同じように食事の準備をし、暗くならないうちに帰った。農道を歩いているといつもは逆方向に向かっているため、すれ違う農夫がミラベルの後ろに迫ってきていた。朝出会った農夫のようだが、また家の方に向かっているのだろうか。疲れてしまって、訊いてみるのも面倒だから、そのままずんずん歩いていた。
「ちょっとお嬢さん、いつもよく歩いてるね。どこまで行くんだ?」
「雑木林のそばまでです」
「へえ。あんなところに家があったのか? 良かったら後ろに乗っていくか。今日はもう仕事も終わりで、荷物もないから」
こんな親切な提案、断る理由はない。いつも見かける農夫なので心配はいらないだろう。
「ありがとうございます。後ろの荷台に乗せてもらいます」
「揺れるから、しっかり捕まってな!」
牛の引く荷馬車は、ゴロゴロと車輪を回しながら農道をゆっくりと走っていく。歩くのより少し早いだけだが、歩き疲れた脚を休めることができ揺れに任せ、そよ風を体いっぱいに受けた。白んでいた空は次第に薄暗くなり、農地がぼんやりとしか見えなくなってきた。ようやく雑木林が見えてきた。
「ありがとうございます。ここで降りて、後は歩いて行けますから」
「そうかい。また明日な」
「あの……どうして今日は帰る方向が逆だったんですか?」
「ああ、ちょっと知り合いに用があって、街へ行くんだ」
「じゃあ、街へ行ったら、仕立て屋がどうなっているか見てきてください。ただしさりげなく様子をうかがってきてください」
「まあ、ついでだから見てきてあげるよ。じゃあまたな」
「助かりました。今日は楽に家に帰れましたから」
「たまにはこういうことがあっていいだろ」
「はい!」
ミラベルは、農夫にお礼を言い雑木林に向かって、歩みを進めた。体は疲れ切ってはいたが、心はほんの少し暖かくなり明日も頑張れそうな気がした。
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