恋愛平行線

日笠しょう

恋愛平行線

 半ズボンの寝巻では足先が冷えるようになり、そろそろ夏用のシーツも替え時かなとは思いつつもタオルケット一枚で寝るのはやめられない。毛布にするにはまだ早く、かといって扇風機を回す時期はとうに過ぎた。でもそれは一人でいる夜の話で、真っ暗な部屋で暗闇に怯えながらひっそりと寝る夜の話で、窓を開けて薄ら闇、ロフトに敷いた布団で虫と風の音と人の寝息を聞く夜は、その熱気で服の下がじんわり汗ばむ。今日は熱帯夜。眠気と暑さと酔いとで頭はぼうっとしている。

 寝返りを打って顔を柵に寄せる。下の様子がよく見える。

 彼は起きていた。

「あ、起こしちゃった?」

 ううん、と私が首の動きだけで否定すると、彼は手元に置いてあったリモコンで音量を下げた。元より聞こえていないテレビの音。無機質な光を放つ画面に数字が浮かび、それが一から零へと変わる。画面の光は寝起きには少し眩しくて、段々目が慣れてくるにつれニュースが流れているのだと知る。

 誰も彼もが寝静まった夜。暑いと思ったらいつの間にかカーテンが閉められている。窓は開けっぱなしだよ、と彼は言った。テレビの明かりが漏れることを危惧したらしい。気にすることはないのに。所詮は町はずれのワンルーム。畳とロフトという譲れない条件を求め抜いた結果、どこに行くにも不便な場所に住むことになった。

 枕元に置いた携帯を開く。電池が切れている。充電器は確か、ロフトの下の、ソファで寝ている友人が占領している。柵を通して下に降ろしてある延長コードを弄ぶ。この先には充電器と、友人の携帯。起こしたら、悪いかな。

 お酒の匂いと、人の匂い。風は通らない。窓を開けて扇風機を回しても、流れてくるのは静けさを文字にしたような音ばかり。しん、と静寂が鳴る。そんな駄文が浮かび上がる。

「何見てたの」

「ニュース。でももう終わる」

 この時間帯にやっているのなんて通販かアニメの再放送くらいだと思っていた。夜型とはいえやることはゲームだったり、パソコンを弄ったり、机の前で課題とにらみ合ったり夜食を作ってみたり。だからこういう宅飲みは久しぶり。ニュースを見るのも久しぶり。

 DVDレコーダーのファンが唸る。ぎし、とソファが軋む。友人の寝苦しそうな吐息が漏れる。エアコンは嫌い。つけると喉が痛くなる。でも友人は来る度にエアコンをつけろとうるさくて、いつも私と喧嘩になる。暑がりでも寒がりでもないけれど、寒いと生活に支障が出る。暑くて苦しいのは好き。生きているって感じがするし、別に不快ではない。暑がりの友人は、今も私の下で寝汗をかいているのだろう。刻一刻と水分を失っているに違いない。朝になったら、酔い覚ましのお水でもあげようか。

「寝れないの?」

「寝る場所がないんだ」

「狭くてごめんね」

 彼は苦笑して、すっかり温くなったであろう麦茶に口をつけた。

「まだ残ってる?」

「敷地が? お酒が?」

「お酒」

「全部飲んだ」

 なるほど。だから麦茶。

「飲みたかった?」

 ううん、とまた私。代わりに布団をぽんぽん、と叩く。

「空いてるよ」

「さすがに女の子の隣じゃ寝られないかなあ」

 二人とも冗談と分かっているから笑い合う。もしかしたらそう思おうとしているのは私だけで、本当に冗談だと思っているのは彼だけかもしれないけれど。                     

 畳の床とソファとロフト。テーブルには空き缶とおつまみの袋。六畳一間の狭い部屋に、三次元的に人が詰め込まれている。男、男、女。彼と友人と私。いつもの面子。高校時代、一緒の文芸部だったころからの知り合い。だけど、今も小説を書いているのは私だけ。小説家をずっと夢見ているのも私だけ。少しでも部屋を広くしようと掃除をしたけれど、一夜の宴会を越せば掃除前より部屋は汚い。とりあえず今は、部屋が暗いのに任せて見ないふり。起きた友人が気を遣って少しは片付けてくれるといいんだけど。可能ならゴミとかも持って帰ってくれたり、なんて。期待はしない。一人掛けのソファで横になって今もぐっすり眠っている私の友人は、普段は気配りができるくせに私に対してだけは遠慮なく、適当に振る舞っているように感じる。もっと私にも気を遣えよ馬鹿野郎。

 そういえば、みんなの分の布団を用意するのを忘れていた。

「ごめん、寝る場所考えてなかった」

「いいよ、床で寝るつもりだったし。それにしても、お前ら寝るの早かったな。こいつなんて一番に寝たし」

「お酒弱いもんね」

「でもこいつ、今日は飲んでないぞ」

「なんで?」

「明日早いんだってさ。五時に起きなきゃだあってアラーム大音量で設定して、あとはひたすら眠くなるまで麦茶でおつまみ食ってた」

「なら、今日パスすればよかったのに」

「パスしたくなかったんだろ。まあ、こいつ寝相も悪くていびきもうるさいけど、寝起きだけはいい方だから大丈夫だろ」

 変なの、と思いながらテレビに視線を移す。テレビではキャスターがぺこりと頭を下げていて、画面の右下にも『終』の文字が浮かぶ。この後に映るのはカラーバーかな、と思いきやおもむろに鉄道番組が始まった。チベットかどこかの鉄道をひたすら撮って流すものらしい。彼も私も、食い入るように画面を見た。視界の端に彼が映る。自然、そちらに目が行く。

 ロフトから見下ろす彼の頭には少し茶色が混ざっていて、それが薄闇の中、頼りない光源にちかちかと照らされて青白く染まる。たまに動く肩が、揺れる頭が、身じろぎする手足が、テレビの光に照らされて畳に影を投げている。彼の飾り気のない地味な部屋着に、なんとなく自分の服装を顧みる。上下ワンセット、今は寝巻として使っている高校ジャージ。色はピンク。愛着ある桃色は、元々赤色だったのが日に焼けて色褪せたもの。つまり私も多分に漏れずただの寝巻。お互いそれを見せ合える関係。そこに喜べばいいのか、悲しめばいいのか。

 複雑だ。

「チベットってどこだっけ?」

「西」

「行ってみたいな」

 誰に聞かせるともなく彼は呟く。テレビでは広大な荒野を音もなく走る列車が、ただひたすらに映されている。バックに広がる山は本当はきっと途方もなく大きいのだろうけれど、画面の枠の中では公園の砂山のようにしか見えなくて、その裾を走る列車はプラレールみたいだと思った。私も彼も鉄道模型とか、静かな景色とか、そういう綺麗なものや丁寧なものを見るのは好きだったから、多分お互いにこの時間は嫌いじゃない。この番組は私たちの好きそうな番組だ。

 好き、そうな。

 彼の好き嫌いは当然として、私は自分の好き嫌いもあやふやだった。自分の心の一番深いところに好き嫌いを管理する存在がいて、それは到底言葉では説明できないような、綿あめみたいにふわふわとして曖昧な存在で、それを基準に好みを決めているのは実感できるのだけれど、それが何をどう基準にしているのかは分からない。何が好きで、何が嫌いなのか。私は私が分からない。だけど自分でも分からない自分の細部まで誰かに分かって欲しいと思う。共有したいと思う。でも、私を理解できるのは私しかいないとも思う。だから私は、私に似ている人が好きなのだと思う。

 私は偏屈でへそ曲がりだから、そんな人この世のどこにも、それこそチベットまで探しに行ったって他には見つからないのだろうけれど。

「いつかは海外旅行してみたいよね」

 おもむろに彼が言う。

「なんとなく分かる」

「それも他の人がしている留学とか、アメリカ旅行とかでなくて、旅って感じの旅」

「鞄一つで目的もなくふらついたり、ただひたすら移動したり、建造物を見たり、そういうの?」

「そういうの」

「テレビに影響されすぎじゃない?」

 私はテレビ画面を指差す。列車は今、名もなき雪山を走っている。

「そうかも」

 彼はこちらを見上げて苦笑した。

 私は身を起こして壁に背中を付けた。天井に抑えつけられた頭が絶妙に心地よい。枕を抱いて体育座りをしてみて、この角度ではテレビが見えないことに気がつく。仕方なく布団を横切るようにうつ伏せになり、枕をあごの下に置いて柵から顔だけを飛び出させた。

「おはようございます」

「おはようございます」

 私と目が合うと彼は律儀に頭を下げて、また画面に視線を戻した。

 なんとなく、いいなと思うこの時間。柵から垂れ下がっているコードを手繰り寄せると友人の携帯が釣れた。かくいう友人は身じろぎ一つせず静かに寝入っている。珍しいなと思いつつ、もう十分だろうと友人の携帯を取り外して下のソファに投げ飛ばす。

がたっ、とソファの揺れる音がした。もしかして、起こしてしまっただろうか。そっと下を覗き込む。友人は相変わらず私の茶色のタオルケットに包まったままだった。むしろ死んでいるのではないかと思ったが、まあいいやと、私は自分の携帯を充電器に繋ぐ。復活までは程遠い。それまで、本当に彼と二人きり。思わずにやけてしまう。

「目的がないわけじゃなくてさ、目的がない旅をするっていうのが目的なんだよ。放浪っていうのかな。あてもなく彷徨ってみて、列車に揺られて色々なものを見て、行った先々で色々な人と出会ってご飯を食べて。なんなら今夜みたいに宴会に参加するのも悪くない。人の本性が表れるのはきっとお酒の席だ」

「だったら、人はみんなだらしないね」

 私の言葉に彼は笑った。お酒で人の本性が出るというのならば、きっと人はみんな正直で優しい生き物だ。飾らなくて済むのなら、誰も彼もが互いを認め合える。そんな気がする。飾って気にして着飾って。気遣って所属して従属して。色々なことに雁字搦めにされているから身動きが取れなくなる。そうしてそのまま惰性で生きて、いつしかその姿が本当の自分なのだと言い聞かせるようになる。そうやって今の自分を肯定しないと、きっと生きているのが嫌になるからだ。

 じゃあ私の本当は、なんて考えてみる。

 夜の空気は危ない。真っ暗で静かで何もできない。何もすることがないから、考え事ばかりが捗る。頭の中は自由だから考えて考えて考えて。それは夜の闇と同じように、繰り返す度に深みにはまって沈んでいく。意識を失う直前はいつも己の存在とは、みたいな哲学的なところにぶつかっていて、結局答えのでないまま寝てしまう。意味深長に手を伸ばして虚空を掴んで、アニメの主人公の真似をしてみたりしては何やっているのだろうと自問自答して自嘲する。

 自分は主人公でもなんでもないのにね。

 そんな自分が大嫌いで、でもそんな自分を好きになった。

 とどのつまり、好き嫌いとは二律背反なことではないのだろう。嫌よ嫌よも好きのうち、と昔の人は言っているし、他にも例があるけれど使い古された表現は使わない。要するに物事にはたくさんのフックがあって、それのどこにどの気持ちが引っかかるか、ということなのだろう。私は常にたくさんのフックをぶら下げて生きているつもりだった。

 だからこういうテレビ番組を見るのは好きだった。

 何が好きなのか、どこが好きなのか。何を思ってこれを見るのか、自分は何を思おうとしているのか。自分の中で表現を作ろうとする。職業病かもしれないけれど、描写して文章化しようとしたりする。だけど頭の中で浮かぶそれらはいつも支離滅裂としていて、文字すらも曖昧模糊に霞んでしまう。外と内を比べるうちに、自分の中におぼろげな場所を発見する。霧がかかって見通せなくて、手を伸ばしても手ごたえのない部分。そういうのを見つけては、必死になって解き明かそうとする。はっきりさせようとする。その作業は剣を研ぐことに似ている。霧の中で自分という剣を研磨している。いらないものをそぎ落として、自分を鋭く確立させようとしている。

 私にとって小説を書くということは、つまりはそういうことだ。

 あるものを、自分を通して表現する。曖昧で雑多なものを、自分の出し得る限りの全てを使って研ぎ澄まして文章にする。自らをさらけだす、それはつまり、ぼやけている自分と言うものをはっきりさせることにも通じる。私が小説を書くのは自分を見つけるため。私はいつだって、私を探しているのだ。

「ねえ、これ見て」

 と彼が言った。私は目のピントを自分の中からテレビに戻す。ステップというのだろうか、列車は低い草木がまばらに生えている大地を走っていた。そこに動物たちの映像が差し込まれ、同時に彼らの名前も紹介されている。彼が指差したのは、チベットノシカと名付けられた動物の映像だった。

「チベットに住んでるからチベットノシカなんかね」

「そんな単純なわけないでしょ」

「でも面白い。そういえば知ってる? ゴリラって」

「ゴリラゴリラ」

 私が先ずると彼は心底可笑しそうに笑った。

 全く。

 琴線が似たところにある人だ。そう思った。

「そういえば、ニュース何やってたの?」

 みんなが寝ているなか、麦茶片手に一人で起きて見ていたもの。時の止まったような、あるいは時から切り離されたような夜の部屋で彼が何を見ていたのか、少し気になった。

「んー、なんか大変なこと。もしかしたらこの先この国がすごい変わっちゃうくらいの」

「その割には説明がぼやっとしている」

「俺がぼやっとしか分かってないから」

 そう言うと彼はまた体勢を変えた。座布団あるよ、と教えようかと思ったけれど彼は彼なりにいい場所を見つけたのか部屋の隅に収まっていた。傍から見てもあるべき場所に落ち着いた、むしろ最初からそこにいたのだというくらいしっくりと来ていたようだったので、私はまた何も言わずに枕に顔を埋めた。

「俺がぼやっとしか分かっていなくても、世界はその方向に進んで行って、いつしか俺もそれに巻き込まれるんだなあと思うと不思議な気分になるよな」

 私は顔を上げ、胸のあたりまで柵から乗り出した。

「ぼやっとしているのは酔ってるからじゃないの?」

「酒に? 自分に?」

「どっちも」

「かも」彼がまた笑う。手の甲で口を押さえて声を殺すように。「でもさ、やっぱり不思議に思わない? 自分も生きている世界なのに、自分が疎外されている感じ」

「私はそこまで高慢じゃない……けどちょっと分かる」

 例えばあの閉じられたカーテンの先が実は闇で、この部屋と少しの廊下の先は全て異次元で、昔見た猫型ロボットのタイムマシンの通路のようになっているのかもしれない、とかはよく考える。極端な話、自分の後ろ、見えないところには何もないのではないかとかもよく考えて、その度に訳もなく不安になる。私のフックは、他の人が気にしないところにまで引っかかってしまうからたまに不便だ。

「でもそんな自分が好き」

 彼が突然言ったので私は自分の心の内を見透かされたのかと驚いたが、そうではないらしかった。

「好きじゃないと、やってられないよ。仮に自分があってもなくても同じような、簡単に替えの利く一つの歯車でしかなかったとしてもさ、それが誰かにとって愛着のある歯車で、一瞬でも大切にされたならそれでいいかなって。誰か一人にとっての特別であるならってそれだけでいいって思うんだ。自分さえ自分のことを知っていればいいってみんな言うけれど、でもそんな世界は狭いと思わない? 自分しかいない世界ならないのと一緒で、誰かに認められて、認識されて初めて世界と繋がれるんだと俺は思う。生きててよかったって思えると思う」

「じゃあ、君にとってのそれが彼女さんってわけだ」

「んーそうかも」

「そして自分の存在を左右する大事な人を差し置いて、他の女と一緒にその女の部屋で朝まで酒を飲んでいるんだ」

「こいつもいるからノーカンってことで」

 彼はにやりと口元を歪ませて、そしてソファの友人を見やった。友人はテレビに背を向けて茶色いタオルケットに包まって、狸のように丸くなっている。珍しく静か。きっと深く寝入っているのだろう。夢の中では幸せ。すやすやと、幸せそうに寝やがって。起きたら片付け絶対手伝わせてやる。

 私の気持ちも知らないで。

 こんな時間に起こして。

 起きたら、殴りながら礼を言ってやる。

「まあ、そんな大切な子にあげるものが、自分の嫌いなものじゃ駄目だよなって話。嫌っているものをあげるなんて失礼だ」

「よく分かってないものをあげるのも失礼だ」

「そそ、だから旅がしたいと思うわけ」

「自分探しの旅がしたいんだ?」

「それが目的ってわけじゃないんだけど……バーニングマンって知ってる?」

「燃える男?」

「アメリカの砂漠に毎年期間限定で開かれるお祭りなんだってさ。何にもない砂漠で参加者全員で町を作り上げて、そこで自給自足の生活を送る。テレビで見ただけなんだけれどすごい芸術的というか、自分をさらけ出しているというか。祭りの最後にはせっかく作った町のモニュメントを燃やしちゃうんだってさ」

 語られるその儚さに、彼も私も好きそうなお祭りだな、と思う。だから困る。私と彼はとても似ている。きっと私が好きなものは彼も少なからず好きで、多分これ以上ないほどに私と彼は似ていて、そんな人はこの世のどこを探しても彼以外にいないのだろう。それは愛しいほどに、狂おしいほどに、抱きしめたいほどに、今すぐ好きって言いたいほどに。時折訪れる波に必死で抗いながら、時折訪れる気持ちの大波に相も変わらず好きだってことを確かめて、時折訪れるチャンスに踊らされて、いつだって恋い焦がれている。

 惰性で生温い、居心地がよくてちくちくする、そんな長い、とても長い片思いだ。気がつけば初恋が一生の恋に変わっている。誰を見ても彼と比べている。誰といても彼が浮かぶ。でも、彼には私以外の子がいる。私には彼しかいないのに。駄目なんだ。友達だ。まだ、そして今もこれからもこの先もずっと。友達同士だからこの関係でいられるのだ。そんなことは、分かりきっている。この場所から一歩でも飛び出せば、きっと全て消えてしまう。

 テレビは夕日を映していた。画面の中央で輝く光に綺麗な夕焼けだ、なんて思ったけれど、徐々にそれが近づいてきて、その光の正体が列車のライトだったのだと気づかされる。地平線近くで燃えるように輝いていたそれは、こちらに近づいてきながら輝きを増して、反面周囲の風景は徐々に藍色を帯びてきていて、薄らと地平線が輝いて空には一つ星が浮かんで。

 騙されたとしても、綺麗だと思った。

 偽りだとしても、言い訳だとしても、これで満足だと思っていた。

 私って何なのだろう。私は何がしたいのだろう。私は何が好きなのだろう。新しい世界に踏み込んだら何か変わるかもしれないと思ったけれど、踏み出したところで何も変わらなかった。とてつもなく力の強い奔流になすがまま流されて、無力感だけを私に残し時は光のように過ぎ去っていく。

目指すものも、求めるものも、全部が全部、私の小さな手のひらからは零れ落ちて行ってしまう。

 それでもこの気持ちだけは変わらなくて、むしろ離れたからこそ強くなった。ない物ねだりは昔から。手に入れられないと分かってなおそれが欲しくなる。恋しくなる。

「なんなんだろうなあ、俺って」

 彼が言った。テレビでは、チベットの遊牧民を映し出していた。

「いっそ遊牧民になりたい」

「あの人たちだって、きっと遊んでいるだけじゃないよ」

「分かってるけど、でも多分俺よりは生きてるんだろうなあ」

「なにそれ」

「本当に見つけたいものって、探して見つかるものじゃないと思うんだよね。あてもなく歩いてみて、ふらふらっと彷徨ってみて、そうして辿りついたものが実は本当に探していたものだったってあると思うんだ」

「ふうん」

「だから俺は旅に出るよ」

「……ふうん」

「夏休みたくさんバイトしたからね。冬休みか、春休み。貯めたお金で海外に行く。目的もなく、何かを探してみるよ」

「会えなくなるね」

「今までだって、そんなに会っていたわけじゃないだろ?」

「君がいない間、他の子とたくさん飲み会するかも」

「お土産にいい酒持って帰ってきてやるよ」

「税関に引っかかってしまえ」

 この鈍感、と口先まで出かかったけれど必死で飲み込んだ。

この思いは多分、一生口にしないだろう。伝えたらきっと消えてしまう。私が彼を思う気持ちと、彼が私を思う気持ちは似ているようできっと違う。私と彼は似ているけれど、それはきっと二本の平行線のようなもので、どこまでいっても、交わることも一本に重なることもない。ならばせめて、このまま静かに寄り添って見つめていたかった。

 恋に恋しているわけじゃない。片思いで満足できるわけがない。もっとあなたと一緒にいたい。その髪に、頬に、胸に触れて飛び込みたい。私の全部をあげたい。だけど、進んだらきっと壊れてしまう。

 私の全てをあげるから、あなたの全てが欲しかった。

 でも、相手の全てが自分であってほしいと願うのは、臆病なのかもしれない。

 失うのが怖くて動けなくて、不時着するようにそこに落ち着いてしまった私と、大切なものを守るためにどこまでも歩いて行こうとする彼。でもあなたが私に全てをくれるなら、きっと私も動けたはずだ、まだ飛べたはずだ、なんて。卑怯すぎて笑えてしまう。

 カーテン開けてよ、と私が言うと、彼は面倒くさそうにして体を動かした。何もかもを切り裂くような音がして、外と内とを分ける薄い布が開かれる。異次元が広がっているのではないかと思われていたそこには、何ともない、いつも通りの夜明けが待っていて、私はなあんだと独りごちる。

夜は危ない。夜は特別だ。静かで薄明るい今夜は、他の時間とは隔離された特別な時間だったのだ。私と彼しか存在しない、互いが互いの全ての、不思議で特別な時間。

 でも、それももうすぐ終わる。

 時間は不思議だ。時間は必ずしも等速で動いているわけじゃない。一番始めは怠けてしまうほどに長く思えるのに、終わりに近づくにつれ加速しているように感じられる。終わらないで、と思うほど天邪鬼に速く過ぎ去っていく。思いを詰めこんだ尊い刹那ほど、それは光の速さで遠ざかって、私に眩い印象を刻みつけて自分勝手に離れてく。思い出は思い出のまま、大切にするほどに傷ついて、大切だからこそ傷ついて。全部を夜のせいにして一夜の過ちということにしても構わないと思えるほどに、狂おしく、愛おしく、大切な時間は流れていく。

 空は薄らと明らんでいる。雲は蒼みを帯びていて、鳥が鳴き始めている。一日の始まり、今日の終わり。夜と朝の狭間。ここだけの、特別な時間。

 ねえ、どんな気持ちなの。この思いは、私だけなの? 

 私たちは、ただの友達なのかなあ。

 ん? と彼が言った。口に出てしまっていたかな、と思わず手で塞ぐ。だけど、もし仮に聞こえてしまっていたとしても、それはそれで構わないように思えた。いっそ伝えることができたらどんなに楽なことか。

確かめてみたい気持ちはある。だけれど、確かめたせいで今の幸せな関係が壊れてしまうのが怖い。確かめようとして、確かにそれまであったものが無くなってしまうのがどうしようもなく怖い。なくしてから気がつくなんて馬鹿だ。例えこの関係が不安定で綱渡りみたいなものなのだとしても、今ここにあるのは変わりない。進むことも戻ることもできなくて、ただこの状況に甘んじていて、結局何もできなくてただ時間だけが過ぎていく。こうやって仲を深めていって行きつく先はどこなのか。今が幸せならいいのか、なんて。未来の自分に謝ってみる。

 どうせ私はこんな人間だよ、って。

「朝だね」

「夜明けだ」

「朝日とか、見に行く?」

「いいかもなー」

 そうやってあなたは私に共感する。私とあなたはよく似てる。私の気づいているところとあなたの気づいていないところは一緒で、だから私だけが苦しいんだ。

 胸元に振動を感じた。手探りで在り処を弄ってみると、携帯が復活していた。時刻は五時ちょっと過ぎ。そういえば友人のアラームを聞いていない。起きなくてもいいのだろうか。

何気なくSNSを開いてみた。画面は電源が切れる前の状態から微動だにしていなくて、私を取り囲む世界で本当に私たちしか起きていなかったんだなって思い知らされる。カーテンが開かれるまでは二人きり。まるで異次元に切り取られていたかのように、誰にも知られない時が流れていた。それを見て、くすりと一人で笑ってみる。

 おはよう。そんな独り言をSNSに呟く。これでもう、みんなの世界の一部の私。特別な夜は終わり。十分すぎるほどに幸せでした、なんて。こうして私の願いもまた、私の心の深いところに仕舞い直されるのだ。

「俺が帰ってくるまでに小説家デビューしとけよ」

「してたらなにくれる?」

「なんでそうなる」

 俺ら二人とも楽しみにしてるんだからさ、と彼が笑う。

 画面の中で列車が地平線に消えていく。きらり、流れ星のように車体が煌めいて、反射した光が細く小さく、吸い込まれるように消失する。それは何事にも動じない、力強い走りだった。

 そうか、だから列車に惹かれたのか。

 そして彼もまた、バーニングマンに。

 私も彼も、自分の力を、自分の存在を、この世界に証明したいのだ。私が生きているという証を、実感を。列車にはその力強さがある。そしてアメリカの砂漠に広がるかの町は、自らの力で作り上げられ、そして自らの手で壊される。

終わりの文字がまた浮かんで消える。そうして次の番組へ。よどみなく、流れるように繋がる。それはまるで、物語の様だった。

 夏が終わる。何もしないまま、何も変わらないまま、ただ粛々と過ごしていただけの夏が終わる。でも、その粛々がいつか遠い未来、私の何かを築く礎になるのかもしれない。そう考えれば、こうやって無駄に過ごしたように思える日々も少しは有意義に思えてくる。

 だから少しだけ。もう少しだけ。未来の私が今を思い出して微笑むことができるように。

 もう少しだけ、彼と二人きりで、お話をさせてください。

 夜が明ける。空が明らむ。街が起き出す。時間が動き出す。

 いつかひょんなことで彼の線がほんの少しだけ私に傾いて、遠い未来でいつか交わる日が来る、そんな待ち遠しくてありもしない奇跡をのんびりと、時に苦しく時に幸せに、あったらいいなという感じで私はいつも願っているのだった。  





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恋愛平行線 日笠しょう @higasa_akira

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