拾
今宵は雲一つなく風もない。
天を覆う無数の星達が微かな光を散りばめ空を飾っている。そこに平成最後の夜を彩るように満月が輝き、その下で月明かりに照らされた金次郎像と花子は静かに見つめ会う。
花子から伸ばされた右の手の平を金次郎像はただ見つめることしかできなかった。自分以外の妖怪とこのように対面することは初めてであった。いきなり現れたと思えば相棒呼ばわりしてくる少女に金次郎像は困惑を隠せない。どの選択が正解で何が不正解なのかを導き出すのに時間だけが過ぎる。
金次郎像が考えながらモヤモヤしていると、シビレを切らせた花子が金次郎像の台座に飛び移り、強引に金次郎像の硬直した右手を握り締めた。
「そんなに私が可愛いからて緊張せんでええで。こうやって話すのは初めてやんね。
私は花子。よろしくね」
金次郎像の頭に溢れた数々の疑問は、花子が見せた屈託のない笑顔に吹き飛ばされた。
金次郎像は気付かぬうちに握られていた右手を恥ずかしそうに解き、身なりを整えるふりをしながら自己紹介をする。いや、しようと試みる。
「僕は二宮金次郎…像。学校開校以来ここで生徒や職員の皆を見守っています。花子…さんって言ったよね。こちらこそ宜しく」
初めての対妖怪会話に金次郎像は感動を覚える。
ただ、生まれて100年以上経つにも関わらず話せる事があまりにも少ない事に落胆した。
暗い顔をする金次郎像を下から覗くように、花子が上目遣いで話し掛ける。
「それでそれで、あんためっちゃ頭抱えてたやん?何があったんか話してみ。私が解決に導いちゃる」
純粋な良心と傲慢な私欲が絡まった不気味な笑みが花子の顔から滲み出る。
そんな笑顔さえもありがたく受け入れる金次郎像は勇気を振り絞り悩みを打ち明ける。
「あのね、僕の悩みは自分のアイデンティティについてなんだ」
「あいでんてて?」
花子は平静を装いながら放たれた言葉を復唱し、自身に問いかける。しかし、何度問いかけたところで意味がわからない。初悩み相談を華麗に受けたのにも関わらず、初の返答が「あいでんててってなぁーに?」というアホ丸出しの返答は回避しなければならない。これから始まる妖怪悩み相談の初晴れ舞台を自分の無知で汚してなるものか。
悩み相談の内容に自ら悩まされた花子は暫しの沈黙の後、安堵の溜息を吐き、余裕の顔を取り戻し応える。
「わかるわー、それ。私も一時期悩んだもん。自分の”あいでんてて"について。難しく考え過ぎることがあかんよ。そやな、もっとシンプルに考えよ。なんかこう…もっとないかな?」
とりあえず相手に同調してからの悩み自体の更なる簡略化を図る花子の策略など露知らず、金次郎像は落ち着いた様子で答える。
「難しく考え過ぎちゃうのは僕の悪い癖かも。そうだなあ、簡単に言うと僕は”二宮金次郎像"ではあるけど"二宮金次郎"の事を何も知らないって変じゃないかってことかな?自分についてここで"見守る存在"ということしか知らないんだ。僕は一体自分が何者なのかを知りたい。知る術があるならだけど」
言い終わると金次郎像は暗い顔を地面に向けた。
そこで改めて気付いた事、それは日頃本を持っているので見えづらかったが、辺り一面ゴミ一つなく、綺麗に手入れされた校門前に自分が立っているという事であった。長い年月を経て尚、沢山の人々から寵愛を受ける金次郎像は沈んだ顔に自然と笑みを取り戻す。
花子は先程の金次郎像の返答によりだいたい内容を掴んだ様子で目に自信が蘇っていた。
「そういう事ね。なるほどなるほど。わかった。ほな行こかー、"あいでんてて"探しの旅に」
金次郎像の台座から地面に飛び降り、校舎を指差しながら花子は意気揚々と旅の開幕を告げた。
数歩進んだ先で振り返り手招きする花子に金次郎像は慌てて言葉を返す。
「ちょっと待ってよ。行くってどこに?僕は行けないよ。ここから動けな…」
「…コワガラズニ、アユミダシナサイ」
ふっと柔らかい風が吹き、同時に囁き声が聴こえた、ような気がした。
「え、何、今の?花子さーん、今何か言った?」
辺りを一周見渡した後、金次郎像は待つ事が嫌いでじりじり遠退いていく花子に問いかける。
「私今は何にも言うてないけど、そこから早よ動かんかったら口うるさなるよ。てか本も薪も置いたん自分やろ?後は自分の足だけやん。歩く気満々なんやから気付けながら早よ来い」
バッサリ切り捨てるように放たれた言葉に金次郎像は苛立つ所かハッキリ言い切ってくれる花子の単純明解な性格に心温まった。
きっかけは悩み過ぎだったかもしれない。ただ、花子の言う通り100年以上続いた同じパターンから脱して本や薪を置いたのは自分である。
本当の自分を探すために、金次郎像は今の自分である”見守り続ける"役を少し休もうと決心する。
一度台座に置かれた本と薪に目を落とし、金次郎像は生まれて初めて台座から飛び降りた。
ドスッ
大地を踏みしめた金次郎像の衝撃はその周辺に地を這いながら伝わっていく。隣にそびえ立つ大木は風が強いのか全身で踊っているようだ。
金次郎像は初めて味わう地面の感触に歓喜する 土は台座より柔らかくどこか優しく暖かい。土の表面を感じながらはじめの一歩を踏もうとするが、歩く事に慣れていない金次郎像は体制を崩し前に倒れそうになる。
「おーっと言わんこっちゃない。一歩が大き過ぎる。もっと少しずつ一定の距離を保って足を運ぶんやで。もうこれ以上欠けられたら悪いから校舎まで私が手伝ったる。但し校内は自分で歩いてや。あんた思た以上に重いし」
金次郎像がよろけた瞬間、花子は咄嗟の判断でいち早く引き返し、金次郎像を優しく抱き止める様に支えていた。
急に抱きつかれる形になり恥ずかしさでいっぱいの金次郎像が返答に困っていると、花子が言葉を続ける。
「どんな形であれ、はじめの一歩おめでとう」
金次郎像は何も言わずただ笑顔で頷いた。
歩くコツについて話しながら花子と金次郎像は校舎へ向かい歩み始める。
その背後で無風の中、大木はそんな2人を祝福するかのように静かに揺れ続けていた。
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