泥濘

 サクラの正体について、気にならないというわけではない。たまに順一の頭に疑念がよぎることはある。彼が生身の人間であるのか、それともこの世のものではないのか、この世のものではないとして、それはどうして自分の前に姿を現したのか……けれども、順一の今の第一の関心事はそれではなかった。彼の麗しい容貌を絵にしたい。ただそれだけであった。

 明くる週の月曜日、順一とサクラはまた件の緑地で出会った。

 今度こそ納得のいく絵が描けそうだ、と、今日の順一は自信に満ち溢れていた。

 精魂を込めて、筆を動かす。前とは違い、彼の容貌が、まるで写真のように画用紙の上に写し出されていく。さながら魔法でもかけられたかのように、順一の理想通りの絵が出力されていった。

「……出来た」

 絵が完成した途端、順一は激しい虚脱感に襲われた。五体が萎え切ってしまっていることは、力なくだらりと垂れ下がった腕と、腰掛けたベンチから立ち上がることもできない脚から見て取ることができる。

「今度こそ……見せてくれる?」

 そう尋ねたサクラに、順一は無言で頷いた。最早声を出すことさえ億劫であった。

「すごい……」

 サクラにとっても、順一が完成させた絵は、舌を巻くような出来栄えだったのだろう。ただひたすらに、サクラは自分が写し取られた絵に感嘆しているようであった。

「ねぇ、順一くん……」

 途端に、サクラは熱を帯びたような視線で順一を見つめてきた。それを見た順一は、自らの心臓の位置がはっきり分かってしまう程に、胸の鼓動が高鳴り始めた。

 サクラが、順一に近づいてくる。もう、二人の間には互いの息がかかる程の距離しかない。

「僕、順一くんのことが好きだよ」

 その好き、が何を意味しているかを、順一は完璧には測れずにいた。けれども、同年代の少年からは殆ど悪意しか向けられてこなかった順一にとって、好意を向けられることは全く新鮮な体験であった。

 急に、冷たい何かが、順一の首筋に触れた。それは、サクラの手であった。サクラは今、順一の背中に手を回す形で、抱きついてきたのだ。蛇が獲物を絞める時の動作のように、ゆっくりと、サクラの腕が順一の細い胴体に絡みつく。

「えっ……あの……」

 順一は、どう反応していいのか分からなかった。サクラの髪の匂いが、順一の鼻を包む。その馥郁ふくいくたる香りは、脳を蕩かしてしまうかのような魅惑的なものであった。

 順一は、そっと、サクラの体を抱き返した。思えば、野外で男同士で抱き合う姿など、他人に見られれば要らぬ疑惑を抱かれかねない。けれどもその時の順一に、踏みとどまるような理性は働かなかった。

 順一はダウンコートを着ているにも関わらずサクラの胸の鼓動がはっきりと感じ取れた。それ程に、二人の体は密着していた。

「ぼくもサクラのことが好きだ」

 それは嘘偽りのない、順一の本心であった。ここまで心を開ける相手は、ただサクラをおいて他にはなかった。冷たい冬の空気とは対照的に、体の内側の芯の部分は、ほっこりと温まっていた。

「おい、あれ見ろよ」

 途端に、蛮声が耳を煩わせた。順一の肝は途端に急冷され、まるで心臓を鷲掴みにされたような恐怖に見舞われた。というのも、その声には聞き覚えがあったからだ。

「あれ、片方はアカギじゃね? 変なカッコした知らねぇ奴と抱き合ってるぞ」

 そう言って囃し立てているのは、順一の同級生の狡童わるがき五人組であった。中央に立つ、にきびだらけで背の高い少年がリーダー格で、その両脇を讒諂面諛ざんてんめんゆの腰巾着が固めている。

 そうだ、今日は月曜日とは言っても、成人の日で休みじゃないか、と、順一は今更ながら己の失敗に気づいた。しかし、もう遅い。

「気色悪いんだよオカマ野郎!」

 順一の方から見て右端に立っている腰巾着の一人が、小石を拾い上げて順一目掛け投げつけた。しかし、その小石は、順一に当たることはなかった。

「げっ、何だあいつ」

 サクラが、今まで見せたこともない俊敏な動きで、小石を掴んで投げ捨てたのだ。

 サクラは、無言で、威圧するように狡童たちを睨みつけていた。その目は、美しいながらも、冷徹さを存分に含んでいる。

「くそ!舐められてたまるか!やっちまえ!」

 腕力に物を言わせようと、狡童たちは一斉に順一とサクラの方へ走ってきた。

  順一は逃げようとしたが、サクラは迫りくる彼らを見ても微動だにしなかった。流石にサクラを放置して一人で逃げ出すわけにもいかない順一は、焦りに焦っていた。

 目前まで五人が迫ってきたその時、異変は起こった。

「な、何だこれぇ……」

 五人の脚が、まるで沼地に踏み込んだかのように、地面に沈み込んでいた。ついさっきまで硬かった地面が、五人のいる所だけぬかるみのようになっているのである。

「うわああああああ!」

 五人の中の一人が、足元を見てけたたましく悲鳴をあげた。

 そのぬかるみから、青白く生気のない腕が、何本も這い出てきたのだ。その腕たちは、狡童たちの体に掴みかかり、ずるずると、その泥濘でいねいの中に沈めようとしている。

「助けてくれ!助けてくれ!」

 狡童たちは口々に叫んだ。けれど、彼らを助けに現れるものは誰もない。そのまま、彼らの体は、じわじわと泥のような地面にうずめられてゆく。やがて、彼らの頭までもが地面に埋まってしまうと、そこは元の砂の地面に戻った。

 その様子を、サクラは能面のような無表情でじっと見つめていた。一方の順一といえば、何が起こったか理解不能という風に、唖然とするばかりであった。

 冷たい北風が、二人の間に蕭然しょうぜんと吹き寄せた。寒風に吹かれた順一は突発的に身震いした。それは、寒さによるものなのか、それとも理解の及ばない光景を見てしまった故か、順一自身にも分からなかった。

「ねぇ、順一」

 サクラは順一の方に向き直って、再び呼びかけた。急なことに驚いて、順一はびくりと肩を震わせた。

「さ、サクラ……今のは……」

 順一はおずおずと尋ねたが、サクラは無言のまま首を横に振った。

「君が気にすることじゃない」

 言いながら、再び、順一の体にサクラの手が回される。馥郁たる髪のが鼻腔を柔らかに包むと、順一は、もう全てのことがどうでもよくなるような気分になった。

「順一くん……僕は君が欲しいよ……」

 至近距離で、サクラの熱っぽい視線が順一に注がれる。順一の胸の高鳴りは、最高潮に達していた。

 サクラに全てを委ねたい。順一は心からそう願った。今まで嫌なことばかりだった人生。ひたすらに逃げ続けるばかりだった人生。サクラはそのような自分に差した一筋の光であった。

 恍惚としたまま、順一の意識はやがて、溶けるように失せていった――

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