描画

 次の日も、外は快晴であった。順一は、またしてもあの山桜の立つ緑地で、昨日の絵の続きを描いていた。

 例の少年のことは、全く怖くなかった。自分はただ絵を描いているだけで、山桜の木を害そうとしたわけではない。だから、彼に会ったとて、悪いことはされないだろう、という自信があった。畢竟ひっきょう、生きている人間の怖さに比べれば、どうということはないのである。彼が生身の人間で、かつ同級生である方がずっと怖い。

 突然、冷たい風が吹き寄せた。あの時と、全く同じである。ざわっという音と共に、落葉が舞い上げられる。

 後ろを振り向くと、はたしてそこには、例の美少年がいた。ポニーテール、藍色の漢服、見間違うことはない。

「やぁ」

 少年はにっこりと笑って手を振った。その様子は、とても死霊だとか怨霊だとか、そのようなおどろおどろしい存在には見えない。

「ああ、サクラくん」

「こんにちは」

 順一の心中に、目の前の少年に対する警戒感はなかった。寧ろ、皆が学校にいる時間にこのような場所で密会している仲間、という、妙な親近感と仲間意識さえ抱き始めていた。

「順一くんはいつもここで絵を描いているの?」

「いつもってわけじゃないんだけど……この桜が描きたくて」

「へぇ……僕はこんな上手に絵なんて書けないから羨ましいや」

 それから、絵を取っ掛かりに、二人は他愛もない雑談に興じた。今年の夏の暑さの話、絵のモデルにするために買ってきたカブトムシの話、夏の葉桜を描こうとしたら毛虫が落ちてきた話……同年代の子とこんなに楽しくお話したのは、いつ以来だろうか……サクラは至極明朗な少年で、祟りを為すとか、そういった悪性とは無縁の存在に思えた。

「そろそろ帰らなきゃ。また明日ね」

「ああ、そうだね。もしよかったら他の絵も見てみたいな」

「ああ、任せて。持ってくるから」

 そうして、順一はお腹が減って昼食を食べに戻るまで、サクラと憩いの一時を過ごしたのであった。


 明くる日、順一は過去に描いた絵を持って、またしても例の緑地の山桜へと足を運んだ。すると、今度は先にサクラがそこにいた。

「また来てくれたんだね」

「ああ、今日は先を越されちゃった」

 二人は朗らかに笑った。もう、すっかり打ち解けた雰囲気であった。

 順一は、持ってきた絵を見せた。なるべく、古くて拙い絵は避けて、新しくて上手く描けたものを選んで持ってきていた。

「へぇ……このノコギリクワガタなんか、今にも飛び出してきそうだ」

 絵を眺めながら、サクラは感心している様子で呟いた。普段、同年代の少年に絵を見せる機会などない故に、褒められた順一はこそばゆい気分になった。

 順一は改めて、サクラのことをまじまじと眺めてみた。古風な出で立ちながら、その容姿は秀麗そのものであった。結い上げた頭髪から覗くうなじは、テレビに映る見目麗しい女優などより余程美麗で、切れ長の双眸そうぼう、整った鼻や口元も、目を引きつけられずにはおれなかった。

「ねぇ、サクラくん」

「ん?」

「ぼく、サクラくんを描いてみたい」

 自信はなかった。神に愛されたかのようなその麗しい容貌を絵に写し取ろうなど、暴虎馮河ぼうこひょうがも甚だしいとさえ思える。けれどもその時確かに、順一はサクラの見目形を、絵にして写し取りたいという欲求を抱いたのである。

「順一くんが描いてくれるなんて嬉しいなぁ。是非ともお願いしたいよ」

 サクラは喜んでくれているようだった。それが世辞ではなく本心であろうことは、彼の笑貌しょうぼうからも推察することが可能であった。

 順一は、無心で筆を動かし、サクラの横顔を写し取っていく。正面でなく横顔なのは、サクラの結い上げたポニーテールとうなじの美しさに、順一が見惚れたからであった。

 その精緻な被造物つくりもののような玉貌ぎょくぼうを写し取るには、腕も、経験も、今の順一には足りなかった。少なくとも、描き上がったものを見て順一自身はそう思わざるを得なかった。

「ごめん……これは見せられない」

 順一は描き上がった絵をサクラに見せることもなく、画用紙を折り畳んで鞄に放り込んでしまった。自分で描くと言っておいて、何てザマだと、順一は自嘲した。

「また今度挑戦させてもらえる? 次こそは納得いくものを描きたいんだ」

「そうか……君がそう言うなら」

 サクラのことを上手く描いてみせる。順一に、新たな目標が生まれた。

 帰宅後、順一は人物の描き方の本を読み始めた。思い返せば、今まで描いた対象の殆どは風景や動植物などで、人間を描いた経験は、ないわけではないが、あまり多くはなかった。

 次の日も、その次の日も、順一はサクラと会って彼を絵に写し取ったが、いずれも納得のいくものではなかった。それでも、順一は諦めようという気にはなれなかった。最早、順一を突き動かしていたのは、ある種の執念のようなものであった。

「明日は来られないから、また月曜日ね」

 休日は午前中でも同級生に出くわす危険があるため、順一は外を出歩けない。けれども、それを伝えておかなければ、サクラはいつもの場所で待ちぼうけをくらうかも知れない。なので、去り際に、順一はそれを伝えておいた。サクラはそれにうなずいた。

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