山桜の怪

武州人也

邂逅

 雲一つない、抜けるような冬の青空の下、ただ一人、黙々と絵を描き続ける少年がいた。

 緑色のダウンコートを着たその少年は、名を赤城順一あかぎじゅんいちという。今現在、小学五年生である。彼がまともに学校に通っていないのは、平日の午前中という時間に、外で一人黙々と絵を描いていることからも察せられる。

 体が小さく、顔つきも何処となく少女然としていた彼は、何かと虐めの的になった。直接的な殴打や、金銭や物品を脅し取られるようなことが重なり、苛烈な虐めに耐えかねた彼はいつ頃からか学校から足が遠ざかって、今は在宅で勉強をしながら、外を同級生が出歩かない午前中の時間を見計らって、外で絵を描く毎日を送っている。

 順一は、人がいない、草木や川などの自然の造形物だけの風景を描くのが好きだった。人間不信の彼にとって、人というものは自分を害する外敵に過ぎない。それらのいない風景こそ、彼が最も親しむことができるものであった。身震いするほどの寒さも、彼には然程さほど苦にはならなかった。

 今、順一が描いているのは、小川の流れる緑地の中に佇立ちょりつする一本の大きな山桜やまざくらだった。山桜といっても、一月とあっては、花の姿など望むべくもない。順一は、その花も葉もない、寂寥せきりょうを感じさせる桜の姿に、自身の境遇を重ねていた。順一は無心で筆を動かし、その寂しげな裸体を写し取ってゆく。

 この山桜、地元では何かと気味悪がられている、いわくつきの木であった。木の根元には死体が埋まっていて、掘り返そうとすると祟られるとか、木を切ろうとした業者の事務所に雷が落ちて人が死んだとか、そういった怪談が好き勝手に語られている。それ故に、この木に好き好んで近づく者はあまりなかった。であるからこそ、順一には、その山桜の孤独が、何処となく自分のそれと重なるように感じられた。

 ぶわり。

 寒風が吹き抜け、落葉が舞い上がる。順一の手が止まり、反射的に、その瞼が固く閉じられる。

 じゃり……

 後ろから、落ち葉を踏みしめる足音が聞こえた。順一は目を見開くと、驚いて後ろを振り向いた。

 ほんの二、三歩ほどの距離に、自分と同じ年頃と思われる少年が立っていた。何処かの民族衣装のような藍色の服を着ていたが、それを見て、順一は以前絵の資料としてファッションカタログを眺めていた時に見た漢服を思い出した。それにそっくりである。

「上手いね。君が描いたの?」

 その少年の声は、透き通るような声であった。

「え、ああ……」

 突然のことに、順一は気の抜けた返事しか返せない。

 順一は、その少年を暫しの間まじまじと眺めてみた。目の前の少年は、背格好こそ自分とほぼ変わらないながら、艶のある黒髪をポニーテール状に結い上げた、眉目秀麗の美少年である。年の頃は自分と近そうだが、このような少年は、学校にいた記憶がない。もしかしたら、自分が不登校になった後に転入してきたのだろうか。こんな時間に一人で出歩いているのだから、彼も同じように不登校なのかも知れない。それに、こんな服装で外を出歩いているのも、奇妙極まることである。

「君の……名前は? 何処の子?」

 順一はおずおずと尋ねた。

「……サクラ」

 少年はそう答えた。山桜の木の絵を描いていたらサクラという名の少年に出会うなんて、あまりにも出来過ぎている。

「ぼくは順一。赤城順一」

 本来なら、子どもが知らない相手に名前を教えるのは褒められたことではない。しかし、相手に名乗らせた手前、こちらも名を教えなければという義務感から、順一も自らの名を名乗った。

 突然、先程のような風が吹いてきて、順一は目を瞑った。目を開けると、目の前にいた筈の少年——サクラの姿はなかった。左右を見渡しても、彼の姿を認めることはできなかった。

 ぞくぞくと、肌が粟立つのを感じた。恐ろしくなった順一は、画材をまとめて逃げるようにその場を立ち去った。


 その日の午後、算数の問題集を解いている時も、先刻のあの少年のことを考えていた。

 放課後、児童たちが外を出歩く時間帯には、順一は外を歩けない。だから、順一の勉強は通常午後に行われる。

 順一の両親は、ある種柔軟な思考の持ち主であった。学習が遅れないようにしっかり勉強さえしていれば、性急に登校を促すようなことはしなかった。虐めの証拠がないせいで、実行犯たちには大した懲罰が加えられず、それがために順一の足が学校に近づくことはなかったが、両親はその一時的避難を頭ごなしに否定はしなかった。

 少年のことが気になって仕方がなかったので、順一はその夜、仕事から帰ってきた母に、転入生が入ったかどうか聞いてみた。しかし、そのようなことは誰からも聞いたことがないという返事が返ってきた。

 そもそも、あのような格好で、皆が学校にいるはずの時間帯に同じ年頃の少年が外を歩いていること自体、奇妙な話である。もっとも、時間帯に関して言えば、順一の方も大概であるのだが。

 順一は、あの山桜に関する怪談を思い出した。祟り……それを思うと、もしやすれば自分が見たあの少年も、この世のものではないのかも……けれども、順一は、そのことを考えても、不思議と怖い気はしなかった。確かにあの時は怯えて逃げ帰ってきたが、冷静になって考えれば彼に何かされたわけでもない。少なくとも、自分をさんざん虐め抜いてきた同級生たちの方が、ずっと獰悪どうあくな存在ではないか。危害を加えるでもない死霊より、他者に乱暴を働く生者の方が、ずっと恐ろしいというものだ。

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