還暦スーパーマン

北条誠

第1話異変

2019年3月25日 AM7:00

 白い犬を連れた老人に近い中年男が海岸線に出て来た。

 千葉県の東側に広がる九十九里浜。

 男は犬のリードを引き寄せて、首輪から外した。

「ほれ・・・走ってこい、シロ」

 男に言われるまでも無く、自由になった中型の雑種犬は、勢いよく広大な砂浜を走り出した。

 男は海に向かって大きく深呼吸し、少し上った太陽の光を全身に浴びる。


 沢田純一、59歳。海岸にほど近い山武市に住んでいる独身男だ。

 身長170センチ、体重57キロ。モスグリーンのコートと作業パンツに長靴で歩く姿は、ドラマ「北の国から」に出て来る名俳優の田中邦衛を思わせる。

 1年前に努めていた商社を早期退社して、山武市井之内に600万円で家を購入していた。120平米の土地に築25年の2階建ての家が付いていた。

 移り住んでからの半年間は、リフォーム作業に明け暮れた。大工仕事は得意では無かったが、ネットの情報が彼を助けた。

 5年前に定年退職して東京から移り住んでいた隣家の男性も手を貸してくれ、リフォームが終わると、自分の家で生まれた子犬をくれた。4匹の子犬の中から元気のいいオス犬を選んだ。


 沢田は犬のシロを追って、砂浜を海に向かって歩く。正面から受ける陽の光が眩しいが、冷えていた身体が暖まって来る。

 シロが波打ち際に降り立っている鳥を狙って走り回るが、犬に捕まる程、鳥もバカではない。

 水平線と太陽の方に視線を戻す。登って来た時にはオレンジ色だった太陽が、今では真っ白になり輝いている。


 突然、沢田を激しい眩暈が襲った。真っ白な太陽が赤くなり、次に視界全体が暗くなり、全身から力が抜け、砂浜に倒れた。


 遠くに離れていたシロ、が倒れている沢田に駆け寄り顔を舐める。

 反応しない沢田の頭をシロが前足で揺らす。


 倒れている沢田の耳に何かが聞こえる。

「どうしたの?大丈夫?・・・起きてよ」

 頭を揺すられ、意識がはっきりしてくる。

 目をゆっくりと開けるとシロの顔が視界いっぱいに映る。

 少年のような声が聞こえる。

「良かった・・・脅かさないでよ」

「スマンスマン。ちょっと眩暈(めまい)がしただけだ」

 立ち上がった沢田は辺りを見渡す。他に人は居ない。シロが沢田を見て尻尾を振っている。

 沢田はシロに話しかけた。

「お前、喋ったか?」

 シロは遊び足りないようで沢田を残して走って行った。

「犬が喋る訳無いよな」

 独り言を言った沢田はシロを追って走り始めた。生後8か月になり、しっかりとした身体が出来てきたシロは敏捷に動き回る。還暦近い沢田が簡単にシロを捕まえられる訳がない・・・のだが、今日はアッサリとシロを捕まえる事が出来た事に驚く。

 足元を見ると、履いていた長靴が脱げている。自分自身もシロ以上に素早く動いたと言う事か。

 シロを再度、砂浜に放す。ソックスも脱ぎ捨て、沢田は砂浜を走ってみた。身体が軽い。シロが吠えながら並走してくる。波打ち際をスピードを上げて走ると、シロは付いて来られない。

 水しぶきを上げて沢田は飛ぶように走った。

 

 シロを連れて海岸線を離れて家へと向かう。長靴の中で砂まみれの足が気持ち悪かった。

 この辺りは気を付けて歩かないと、犬のフンがあちこちに落ちている。ノラ犬の物ではない。飼い主が放置していった物だ。シロの排泄物はビニール袋に取って処理している。

 50メートル程先に大型の秋田犬を散歩させている男が見える。秋田犬は排泄ポーズだ。大きなモノが道路に残され飼い主はそのまま立ち去ろうとする。

 沢田は思った。

『踏んでしまえ』

 秋田犬の飼い主が、操り人形のような動きで後ろ向きに数歩下がり、彼の足が道路に残された自分の犬の排泄物の真ん中に着地した。

 男は訳の分からない悲鳴を上げている。

 沢田は彼らに背を向けて笑った。そして考えた。

『俺が思った通りになった・・・念力?・・・まさかな』



 家に戻った沢田はコーヒーメーカーのスイッチを入れてスマホを手にした。

 毎週月曜日に宝くじの「ロト7」をネットで買うようにしていた。抽選は金曜日だ。


 65歳で年金が完全に受給できるまでの間の蓄えは退職金の残り等で有ったが、節約は心がけなくてはならない。金の掛かる趣味は持てない。

 今現在の楽しみは小さな庭イジリとシロとの散歩。テレビに読書。本を買うにも金が掛かるので、山武市の図書館から借りて来ていた。図書館には週に一度行って沢山借りてくればいいのだが、3日に一度は顔を出して、2、3冊を借りていた。

 図書館の受付にいる20代半ばと思える女性に会うのが楽しみだった。

 本の返却と貸り出す時に交わす二言三言と彼女の笑顔が沢田を幸せにした。


 沢田には学生時代にガールフレンドがいたが、長続きした事がない。

 高校生の時はバイクに夢中になり、大学生の時は学校のサークルで覚えたダイビングで海に夢中になり、社会人になっても暇を見つけては海に通っていた。

 就職先は中堅どころの商社だった。『ラーメンから飛行機まで』と言われた様に、商社の扱う品目には限りがなく、成長期には日本経済を支えて来た訳だが、沢田の部署は雑貨などがメインの日陰の部署で、花形部署の連中からは『ラーメン部隊』と呼ばれていた。

 商社勤務と言う事で近づいて来る女子もいたが、冴えない風貌と我儘な性格で結婚までは辿り着けなかった。


 定年まで2年を残す時に、埼玉県戸田市で同居していた両親を交通事故で亡くした。兄弟も無く独身の沢田は完全な独り身となり、会社を辞めた。


 自然の中で暮らしたいという願望が有ったが、山の中で暮らせるほどワイルドな人間でないのは自分自身で分かっていたので、取りあえず海に近い場所を選んだわけだ。

 中古の一戸建てが驚くほど安かったのも沢田の背中を千葉へと押した。


 沢田は手にしたスマホでロト7の購入画面を開いた。1から37までの番号で7つを選ばなくてはならない。当選の場合は2営業日後に自分のみずほ銀行の口座に当選金が入金される。購入資金も口座から引き落とされる。


 誕生日や好きな番号、思い浮かんだ番号などを組み合わせて、一口だけ買っていた。一口300円だ。週に300円で夢が見られる。


 数字を選択する。突然、沢田の意思とは関係なく指が勝手に動いた。

『17・25・26・28・31・32・37・・・購入』

 呆然と画面を見つめる。

「まあ、いいか」

 何かあると、いつも「まあ、いいか」で済ませる。

 キャリーオーバーが何週も続いているので、運良く当たれば10億円だ。


 リビングルームの隅でシロが沢田を見つめている。

「お腹空いた」

 沢田の動きが止まる。シロの声が聞こえた。声では無く思いが理解できたと言った方が適切だろう。

 数秒間シロを見つめて沢田が言う。

「腹へったのか・・・今、用意するから」

 シロが立ち上がって吠えた。

「ワン!」

 やっぱり犬だ。『ワン』が正しい。喋る訳がない。いろいろ要求されたらかなわない。

 ドッグフードを皿に出してシロに与えた。

 コーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いで空想に浸る。

 10億円当たったら・・・・。

 図書館のあの子を食事に誘おう。いい服を着て、いい車で。今の10年落ちの軽自動車ではダメだ。まてよ。10億円有ったら、都内の高級マンションに住むのもいいな。

 空想は果てしなく続いた。


そして、今日は何かが違うと感じていた沢田だった。


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