fragment:19 夏とあめ

 折り畳み傘を持ってきて良かった、と職人は空を見上げる。参道が近づくにつれて厚くなっていった雲が、とうとう雫を落とし始めた。

 神社への参拝時に雨が降るのは神様が歓迎している証拠、とどこかで耳にした。真に受けているわけではないが、こうして実際に出くわすと喜ばしいものだ。土のような埃のような匂いが一斉に足元から立ちのぼり、辺りを漂っていた微小な水滴がむくむくと膨らんでいくのを肌で感じる。街路樹が嬉しそうに茂った葉を揺らしている。

 鳥居をくぐる頃には本降りになり、職人は小走りに本堂へ駆け寄る。軒からとめどなく落ちてくる水滴を眺めながらハンカチを取り出した。石畳に弾ける飛沫が鳥の声にも似た音を立てる。賽銭箱に差し入れた小銭は澄んだ音を立てる。揺らす鈴の音は今日も威勢が良い。

 また一年、守っていただいて、ありがとうございました。

 手を合わせ、静かに呟いた声を、雨音がそっと包む。

 傘はやや小さく、足元は遠慮なく濡れるが臆することなく工房までの道を遠回りする。雨の日の散歩が好きと言うと誰もが不思議がる。濡れるのに、わざわざどうして? 職人は問われるたびにそれらしい返答をしてきたが、実のところ明確な理由は自分でも説明しがたい。なんとなく楽しいから、というような曖昧な言葉にしかならない。

 しかし、それでまったく構わないと思う。言葉で表現できないものを表すために、自分は物を作っているのだから。


 気の向くままに歩を進め、濡れて光る街を眺める。屋根や道路、出したままの植木鉢、室外機のくすんだ白、それらのすべてが水をまとう。ぶつかった雨粒に対して固有の音を立てる。静かなのに賑やかな、相反する景色を職人は目と耳で楽しむ。強張っていた肩がゆっくりと緩んでいく。たまらず深呼吸をすると、水の匂いのなかにふわりと甘さが舞い込んだ。

 店先に並んだ木箱。ガラスの蓋から覗く色とりどりのかけらたち。湿った空気をものともせず、軽やかにひるがえる暖簾。

「やあ、いらっしゃい。久しぶりだねえ」

 店主はそう言って、眼鏡の奥の目をやわらかく細める。

 立ち止まったのは、集合住宅の一階にすっぽりと収まる小さな飴屋。甘い香りはそこから漂っていた。並ぶ飴はどれも手作りで、甘過ぎずさっぱりとした味わいを職人はたいそう気に入っていた。

「ご無沙汰してます」

 店主は変わらず息災のようだ。せっせと出来立ての飴を店先に並べている。笑顔を絶やさず、昔ながらの製法を守り続ける。いつも同じであるということの得がたさを職人はこの店主に見出していた。

「今日はお出かけかい」

「はい。神社にお参りをしてきました」

 そうかそうか、とますます笑顔を深める。こんなに素敵な雨の日に、大好きな飴屋で立ち話だけというのはうまくない。茶菓子に何か買い求めようかと思ったとき、店主がぽんと手を打った。

「そうそう、ちょっとね、頼みたいことがあってね」

 いそいそと店の奥へ入っていったかと思うと、すぐに引き返してきた。何やら包みをひとつ手にしている。

「試作品なんだよ。食べてみてもらえないかねえ」

 そう言って差し出した包みの中身は、杏飴だった。偶然にも職人がいっとう好んでいるものだ。しかし、一見すると普段売られているものと特段変わったところは見られない。首を傾げる職人に、店主は楽しそうに言った。

「湖の水で作ったんだよ」

 この路地をもうしばらく行くと、広い畑に出る。職人をはじめ、この街に住む人々の食べる野菜はもっぱらここで育てられている。そして畑を抜けてさらに進むと湖がある。岸には糸杉が並び、静かで澄んだ水辺にはピクニックに訪れる人も多い。

「二十四節気の六番目、ちょうど二ヶ月くらい前だね、その頃に湖で水を汲んで、青磁の水瓶に入れておくんだよ。そのまま涼しいところに取っておいてね、夏越の大祓が終わったら封を開ける。そうすると、水分が全部飛んで、砂糖の粒が残っているんだよ。氷みたいに綺麗な結晶の砂糖でねえ」

 その砂糖を熱して溶かし、干した果実に絡めて冷やす。そのようにしてこの杏飴はできたのだという。

「今日来てくれたからね、あなたに食べてもらいたくてね」

 そう微笑む店主は、この日が職人にとってどんな意味を持つのか、しっかりと覚えているのだった。

「ありがとうございます。いただきます」

 職人は深々と頭を下げ、店を後にした。


 工房に戻り、湯を沸かしながら包みを開く。杏飴は全部で六粒あった。みずみずしい橙色はやはり常と同じだ。湖の水から砂糖を作るなんて初めて耳にしたが、あの店主なら魔法だって難なく使えるだろう。さていったいどんな味なのか。

 職人はさっそくひと粒を口に入れた。

 飴と杏の織り成す甘酸っぱさ。ついつい手が止まらなくなってしまう、お気に入りのあの味。

 けれど、何かがほんの少し違う。

 なんだろう?

 味ではない、香りが違う。

 街をすっぽり包み、工房の壁や窓にも沁み通る、慣れ親しんだ香り。

 職人はわずかに目を見開く。


 ああ、そうだ。これはきっと。

 水。

 雨の匂い。


 雨の日。

 誰も訪れない工房。

 物音ひとつ立てない入り口から目を逸らして、真鍮の小さな塊に鑢をかけていた。

 綺麗にきれいに研ぎ上げれば、きっと誰かが来てくれると信じて。

 祈るような気持ちで、必死に手を動かしていた。

 でも本当に削り落としたかったのは、私の心にこびりついた不安だった。


 初めて作品が売れた日。

 私が震える手で箱を包むのを、やさしく見守ってくれたお客さん。

 また来ます、と笑ってくれた顔が太陽のように眩しかった。

 嬉しくて、少しだけ、泣いてしまった。

 窓から射し込んでいた午後の陽射し。

 そのまっすぐな光が、ショーケースを照らしていた。


 家族と言い争ってしまった日。

 仕事も家も、私にとってはもちろんどちらも大切だ。

 なのに、どうしてもお互い言葉足らずになってしまう。

 もどかしくて、歯がゆくて、やりきれない。

 どうしてこんなに難しいんだろう。

 たった一言、大切だと伝えるだけなのに。


 展覧会に誘われた日。

 憧れの作家と同じ舞台に立てるなんて、夢みたいだ。

 今日のために精いっぱい準備してきた。

 楽しみと緊張で胸が躍った。

 どんな人が来てくれるだろう?

 私の作品に出会ってくれるのは、どんな人だろう?


 商店街が静まり返った日。

 行き交う人はまばらで、みなマスクに顔を隠して足早に過ぎていく。

 耐えられず店を畳み、去っていく人を何人も見送った。

 残った私たちもみんなで顔を見合わせた。

 半分を覆ってもわかるほど、曇った顔を見合わせて。

 終わりの見えないことが、何より辛かった。


 契約を更新した日。

 この工房を貸してくれている、親切な大家さん。

 もうそんなになるんだね、としみじみ語り合った。

 ――あなたに使ってもらって良かったよ。

 これからもよろしくね、と笑ってくれた。

 いただいた花束は、お気に入りの花瓶に生けて飾った。


 いろんなことがあった。

 楽しいことも嬉しいことも、悲しかったことも、腹が立ったことも。

 それでも、いつだって私はできることをやってきた。

 一歩を、一日を、大切に歩んできた。

 私は。

「私は、頑張ってきた」


 紅茶を注いだカップはすっかり冷めていて、その温度でふっと目が開く。

 六粒の杏飴は、もうなくなっていた。

 ゆっくり立ち上がる。机に触れる手も床に立つ足も、少しだけ冷えてはいるものの、頼りなさはなかった。

 そのまま誘われるように窓辺へ向かう。

 雨はもうすぐ止みそうだ。雲が切れれば、夕暮れの空に虹が出るだろう。

 それを見届けたら新しいお茶を淹れようと、職人は思った。





登場作品

風景のカード「湖」

https://twitter.com/kokuutokyo/status/1648655678746267648


オープン六周年記念によせて

https://twitter.com/kokuutokyo/status/1674043670243454977



Special Thanks

jewelry&object 穀雨

https://kokuutokyo.com/

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