fragment:18 空気の底

 弾いた弦が鳴るのを、当たり前と思ったことはない。

 自分の指が思い通りに動く気持ちよさが、当たり前にあると思ったことはない。

 ほんの少し、軽く触れた弦の音が電気信号に変わり、ケーブルを伝わってアンプがそれを奏でる。フレットのうえの指を滑らせればたちまち違う音色に変わる。こちらが望めば音は自在に歪み、うねる。

 ここにいるのは俺だけではない。別の楽器、別のメロディ、別のリズム。自分と違う誰かが発する音と、自分のそれが混じり合い、和音になり、対立し、旋律が厚くなる。

 それはきっと、当たり前のことではない。

 だから、一瞬一瞬が奇跡の連続だ。

 赤いストラトキャスターと対話する。文字通り、打てば響く。俺自身がそのまま反響する。言葉になる手前の、感情になる寸前の、体のなかで波打つものたちがそのまま音になる。月夜に叫ぶ獣みたいに。

 そんな、一部の隙もないギターとの会話。満ち足りた時間。

 今までは他に何もいらなかった。

 気づかれないように苦笑する。何が不満なのだろう。こんなに贅沢な、誰にも邪魔されない会話が他にあるものか。これ以上近づける相手などいないのに。

 わがままになったものだ、と思う。

 弦の音が途絶えた一瞬、窓の向こうに軽やかなエンジン音が聞こえて、じわりと胸が温かくなった。

 もっと話したい、言葉を交わしたい。何よりも、声を聞きたい。

 今日も彼女が、ひらりとやってきた。


「おつかれさまでーす」

 外の冴えた空気が流れ込んでくる。朗らかな声のあとに、ドアを押し開けて現れたのは白い段ボール箱だった。その陰からひょこっと顔を出した蒼衣アオイは、分厚いコートのうえにマフラーを何重にも巻いている。珍しくかけている眼鏡が曇り始めてはいるものの、まだそこまで寒い時期ではないはずなのに。

 楽譜やペンやペットボトルが散らばる机のまんなかに置かれた箱は、ガムテープで頑丈に補強されている。

「ひー重い重い。差し入れですよー」

 ぱかりと開いた箱から、冷たく甘い匂いが流れ出した。

「おお、林檎!」

「いいにおーい。どうしたのこれ?」

「研究室の同僚にもらったんですよ。実家でたくさんとれたらしくて」

 答えながら蒼衣は眼鏡を外し、にっこりと笑う。

「というわけで、休憩しませんか」


 メンバーが煙草を吸いに出かけるのを後目に、箱を抱えた背中を追いかけてキッチンに入った。蛍光灯の灯る寒々しい天井に赤い球体がひとつ舞う。くるくる回って、蒼衣の手にすっぽりと収まる。重みを確かめるように二、三度転がした。

「食べ物で遊ぶな」

「失礼な。選別してるんですよ」

 見かけに対して重いほど甘いのだ、と言う。そうやって宙を舞った林檎のうち、いくつかがまな板のうえに並んだ。真っ赤な、つやつやとした林檎。陶器か何かのオブジェに見えるのに、おもちゃみたいなナイフを当てるとあっさり刃が入る。そこから驚くくらい真っ白な実が現れ、くるくると皮が剥かれていく。

 つながったままどこまでも伸びていく皮を見ていたら、どこかで聞いた話がおぼろげに脳裏に浮かんだ。

「地球の空気と」

 手元を見つめたまま、意識をこちらに向けたのがわかった。

「林檎の皮は同じ厚さとかなんとか」

 手が止まった。首を傾げて、右斜めうえを見つめる。別にそこに何かがあるわけではなく、蒼衣が何かを思い出そうとするときの癖だ。

「地球を林檎の大きさまで縮めたとき、その空気の層の厚さは林檎の皮と同じ、ってやつですか?」

「多分そう」

「有名な話ですね。人が生きられる場所は案外広くない、って意味の喩えとして」

 再び手が動き出し、一度も途絶えないまま皮を剥き切った。慣れた手つきで次に取りかかる。さくさくと小気味良い音を立てながら、三つの林檎があっという間に裸になった。

「上手いね」

「昔練習して。数少ない自慢です」

 へへ、と笑って蒼衣は指先で皮を摘まみ上げる。赤と白が交互に現れる螺旋は、だめになったばねみたいにゆらんと弾んだ。

「しかし、よくまあこんな薄っぺらいところで忙しく生きてますよね。戦争したり、ギター弾いたり」

「原チャリに林檎積んで走ったり」

「あれっ、なんで原付ってわかったんですか?」

 きょとんと目を見開いたのを見て、ちょっとだけ満足する。別に俺でなくても、見ていればわかることだ。少しでも蒼衣の驚いた顔が見られればそれでよかった。

「エンジンの音がした」

 それから、と指先で目元を叩いてみせる。

「ん? ああ、眼鏡か。確かに普段はしてませんもんね」

 やっぱりバンドマンは耳が良いなあ、と奇妙な節をつけて唄いながら、剥いた林檎にナイフを立てる。すとんと二つに切られた実の中心、ひと際色の濃くじわりと甘そうな部分が雲みたいに種を覆っていた。

「わぁお、蜜たっぷりだ! 大当たりですよ」

 上機嫌な声を上げつつ手は止めない。半分から四つ割り、八つに切り分け、蜜と呼んだ部分をできるだけ残して種を取り除く。できたスライスを大皿に盛りつける。よく動く手を眺めて、肌の色が林檎とよく似ているな、などとよこしまなことを考える。白くて、みずみずしい。

「おひとつどうぞ」

 鼻先に皿が差し出される。緩みそうになっていた顔を慌てて引き締め、澄ましたふりでひと切れ取る。大口を開けて齧れば心地良い歯ざわり、さくっと軽い音を立てて欠片が口に飛び込んでくる。鼻に抜ける甘い匂い。噛み締めるほどに果汁がふんだんに溢れて、乾いた喉を潤していく。

「美味い」

 蒼衣ももしかして、こんな味。

 ……なんてな。

 さらによこしまなことを考える俺に気づかず、蒼衣も、嬉しそうに頬張る。夏休みの子供みたいに顔じゅうで笑って、大きく頷く。あっという間に食べきって物欲しそうに指を舐めた。

「こんなに美味しいと、独り占めしたいですね」

「したいね」

 独り占めか。

 独り占め、したい。美味い林檎も、きっと美味いだろう蒼衣も。蒼衣と二人で過ごす、美味いに決まっている時間も。

 けれどもちろん、そんなことを言えるはずもない。少なくとも今は、笑って流すふりで拒絶されて終わりだ。

「なーんて、ほんとにそんなことしたら叱られちゃいますけど」

 キッチンを出る前に、もう少しだけ笑顔を見ていたかった。

 そんなことを言ったら、叱られただろうか。


 大通りを歩いていた夜が角を曲がって、スタジオのある路地裏までやってきた。融けたガラスみたいに真っ赤に焼けていた西の空も冷えて固まっていく。今日の練習もここまでだ。

 ギターケースをぶら下げて外へ出ていけば、室外機のそばに原チャリが停まっている。名前のためかどうかはわからないが、持ち物のほとんどを青で揃えている蒼衣だ。おそらくこれもそうなんだろうと思って近づいて、薄闇のなかに浮かび上がるその色を見た。

 赤。

 あれ?

「盗んじゃだめですよう、まだ新車なんですから」

 軽い声で背中を叩かれ、はっと振り返る。脇をすり抜けていく蒼衣は既に眼鏡をかけていて、知らない誰かのようだった。あっという間にエンジンがかかる。ここに来たときと同じ、軽い駆動音。立ち去ってしまえば何も残らない、引き留める間さえない、軽すぎる音。

「それじゃあ、おつかれさまでした!」

 ヘルメットのしたでそう叫ぶと、ブーツの底がアスファルトを蹴った。そのまままっすぐに夜のなかへ飛び込んでいってしまう。テールランプの赤だけを長く引いて。

折瀬オリセちゃん、なんか急いでたね」

「さっきの林檎も研究室でもらったって言ってたしな。たしか、休学してるはずだけど」

「蒼衣ちゃん、お人好しなとこあるからなー。絶対仕事押し付けられてんだって」

「春くん、どうした? うちらも帰ろうよ」

 遠ざかる背中を呆然と見送っていた俺は、仕方なく踵を返す。駅までの道のりがやけに長い、雑踏が妙に煩わしい。雑談に相槌を打つ気にもなれず、買い物があると言って途中で別れた。道を静かなほうへ、静かなほうへと歩いているうちに、人気のない公園に行き当たる。濃い生垣、静止したブランコ。鈍く光る滑り台を眺めながらスマートフォンを取り出す。通知はない。アプリを立ち上げて画面を叩く。

『帰ったら連絡して』

 送信ボタンを押しかけて、やめた。

 なんだ、その言い草。恋人じゃあるまいし。

 恋人どころか、特別仲が良いというわけでもない。

 たまたま身近にいるだけ、それだけだ。

 それにほら、今は運転中だから。

 スマートフォンの電源を落とす。真っ暗になった画面を少しだけ見つめて、ポケットに押し込んだ。

 俺の寂しさなんて取るに足らない。ぺらぺらの、林檎の皮みたいに。


「あ、芳川さん? おつかれさまです、今家にいますか?」

 息を切らせた早口の後ろが妙に騒がしい。帰ってきてから灯りも点けず寝入ったから、暇なときに数えている天井の染みは既に見えない。

 耳を澄ますと、クラクションと信号機の音。

「いるよ」

「よかった! ちょっと待っててくださいね、すぐ行くんで」

 そのまま返事を待たず電話が切れた。再び部屋に落ちる沈黙。

 耳から離したスマートフォンで着信履歴を見る。

 折瀬蒼衣。

 間違いなく彼女からの電話だった。

 なんと言っていたっけ。

 ……すぐ行くんで?

 ベッドから転がり出て、ローテーブルに脛をぶつけて五秒悶絶。足を縺れさせながら立ち上がって散乱したビールの空き缶を隠蔽する。灰皿に山と積もった吸殻をゴミ箱に放り込み、窓を開けてせめてもの換気。チラシや雑誌をざっとまとめて部屋の隅へ。洗濯物は脱衣所へ放り込む。

 あとは、若い女の子に見せるには忍びないもの。全部仕舞ってはある。仕舞ってあるはずだ。

 ……仕舞ったっけ?

 急に気がかりになって家じゅうを捜索する。結局、全部所定の位置に放り込んであった。きっちり扉を閉めておけばまず見つからないところ。というか、見つからないでほしい。さすがにこれを見られたら立ち直れない。それに、蒼衣なら間違いなくフォローするだろう。これくらい男の人なら当然ですよ、とかなんとか。

 想像するだけで立ち直れなくなりそうだ。

 一気に重くなった体を引きずって掃除機をかけ、流しに山盛りの皿を洗い切り、深々とため息をついて床にしゃがみ込もうとしたときチャイムが鳴った。玄関まで飛んでいく。

 白々と蛍光灯が照らすアパートの廊下、そこに立つ小さな影。

「お届け物でーす」

 なんだか変な気分だった。

 会いたかったのは本当だ。だからもちろん嬉しい。けれど自分の家の前に蒼衣がいることが、なんだかぴんと来ない。こんなところにいるはずがない、会えるはずがない。そう思っていたせいかもしれない。

「いやー、芳川さんち遠いですね。あれからすぐ帰って飛ばしてきたのに、もうこんな時間ですもん」

 疲れましたわあ、と大袈裟に首を曲げてみせ、蒼衣は手に提げていた荷物をずいと差し出してくる。頑丈な紙袋。覗けば、立ちのぼる匂い。つやつやとした赤い皮。

「はいこれ。一緒に食べましょう、まだまだたくさんあるんで」

「……わざわざそのために?」

「そうですよ?」

 当然とばかりに胸を張って、すぐに苦く笑ってみせる。

「なーんてね。口実ですよ、口実。今日は話し足りなかったから押し掛けてみたんです。ごめんなさい」

 まあ林檎をもらって欲しいのも本当なんですけど。照れくさそうに俯く蒼衣を見ていたら、自然に手が動いた。くしゃくしゃになった髪をすいてやる。

 まったく。そんなに急がなくたって、いつでも待っているのに。

「いらっしゃい」

「……お邪魔します」

 だからいつでも、そうやって笑っていてほしい。


 蒼衣はよく喋り、よく笑う。俺が口下手なせいももちろんあるだろうが、もともと話すのが好きなのだと思う。スタジオにいるときはまったく雰囲気が違った。

「あそこは仕事の場ですから」

 こともなげに蒼衣は言う。

「芳川さんたちが音楽活動に集中できるようサポートすることが、私の一番の仕事ですから。バイトでも正社員でも、あのスタジオにいる以上それは変わらないと思ってます」

 仕事熱心だが決して出しゃばらず、けれど冗談が通じないわけでもない。差し入れをするくらいの愛嬌もある。蒼衣はそういうキャラクターであり続けている。それはなかなか上手いやり方だと、俺は感じる。

「信頼されてると思うよ」

「だといいんですけど」

 なので、これぐらい喋るってことは内緒にしといてくださいね。そう言って蒼衣は話を締め括った。

 内緒。秘密。秘密は良いものだ。もちろん、共有する相手に大いに左右されるけれど。

 俺だって、蒼衣と共有したい秘密はある。いつかは打ち明けるつもりでいる。

 いつかは。

 その「いつか」が、一体いつなのかはわからない。拒否されたときの恐ろしさに対して、まだ覚悟ができていないから。

 わざわざ口実まで作って俺の家にやってきて、ちょっと手を伸ばせば届くところに座っている。そこまでお膳立てされてもまだ動けない。

 臆病になったことを歳のせいにするのは、それこそ臆病なやり方に思えた。俺は臆病だから、と言うのは簡単で、でもそれは臆病どころか卑怯なやり方だった。

 蒼衣はきっとどこまでも許してくれる。それがわかってしまうから、尚更嫌だった。

 欲しいのは許しじゃなくて、信頼だから。

「どうしました?」

 いつの間にか床に向けていた視線が、声に導かれてふと上がる。マグカップの向こうから蒼衣がこちらを見ていた。

「何か言いたそうな顔してますね。わたくしめでよろしければ、なんでも伺いますよ」

 そう言って、ご丁寧に片方の眉まで上げた。こっちが散々悩んでいるのをまるで知っているみたいな余裕の表情。焦燥感できりきり舞いしている今の俺に、年下の生意気さを受け止めるだけの余地はなかった。訊かずにおこうと思ったことを口にしてしまう。

「原チャリは青じゃないんだな」

 そうですね、それが何か?

 それくらいのことを言い返してくると思った。なのに、返事がない。血の気の引く音がした。

 ついに地雷を踏んだか。

 おそるおそる蒼衣を伺うと、そっぽを向いている。おまけに不自然にカップを持ち上げて、まるで顔を隠しているような素振りだ。

 よくよく見れば、隠しきれていない耳が赤い。

 ええー。

 なにそれ。

「……えっと」

 うろうろと視線を彷徨わせ、一向にこちらを見ようとしない。戸惑う女の子の図。可愛いか可愛くないかで言えばものすごく可愛い、可愛いけれどいきなりそんな表情を見せられると驚きのほうが大きい。

 誤魔化しかたも思いつかず、言いたくないならいいとかなんとか言って話を切り上げようとしたら、先手を取られた。

「そっちがどう思ってるか知りませんけど、私はその、嘘つきですから」

 そこですうっと息を吸って、相変わらずこちらを見ないまま蒼衣は言い放った。

「芳川さんのギターの色に似ていたから、とでも言っておきます」

 俺のギター。いつもスタジオへ持っていく、そして今日も弾いていた、赤色のストラトキャスター。

 多分俺の顔も同じ色をしている。

 ……ひょっとしたら、それ以上に赤いかもしれない。

 珈琲を二杯、林檎を二人でひとつと半分。煙草を三本。他愛もない話がたくさん、とりとめのない話もたくさん。それから、心地良い沈黙もいくつか。煙越しに見る、穏やかな表情で珈琲を啜る蒼衣はなかなか素敵な眺めだった。こちらの視線に気づいて、何も言わず目をふわっとほころばせるのも良い。

 このままずっと部屋にいてくれれば、なんて欲を出してしまうから、その目が俺ではなく腕時計を見てしまう。

「あーっ! もうこんな時間!」

 大声を上げ、ばたばたと帰り支度を始める。コートを羽織りマフラーを巻き眼鏡をかけて、さっきスタジオで別れたときと同じ格好。でもレンズの奥から笑いかけるのは、さっき俺を見つめていたのと同じ瞳。

「珈琲、ごちそうさまでした。……楽しかったです。たくさん話せて」

 まったく。

 そんな風に笑っちゃだめだよ。抱きしめたくなるから。

 ここに来たときには整えてやった髪を、今度はわしゃわしゃかき回す。ちょっと、とかやめてください、とか抗議するのを無視して、存分に。

「何すんですか、もう!」

 乱暴に腕を掴まれる。綺麗な白い手。そのあたたかさで、今日は我慢しよう。

「気をつけて帰りなよ」

 一瞬の間。掴まれた腕が解放される。開いたままの手のひらに、蒼衣の指が触れた。

 繋いだ手は小さくて、そのまま引き留めそうになる。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 一人になった手を残してドアが開き、静かに閉まった。

 へこんだままのクッションと、空になったカップを眺めると急に部屋が広く見える。いつもの、何も変わらない自分の部屋なのに。やたらに広くて、ひどく静かで、寒々しい。

 さっきまでは、微塵もそんなこと感じなかったのに。

 さびしさというのは厄介だ。しばらく放っておくと必ず復讐しにやってくる。決して忘れたふりを許さず、一番見たくないときを狙って目の前に現れる。

 今回のしっぺ返しは、相当きつかった。

 せめてもの抵抗に、あー、とかうー、とか意味もなく声を上げてみる。そうやって意識を逸らしたまま、もう一度ふて寝しようと思ったとき。

 低く、空気の震える音。

 唸り声に似た、吼える声にも似た音。

 何かを呼ぶ声にも似ていた。

 もしもそれが、気のせいでないのなら。

 開け放った窓、踏み出したベランダ。柵に手をかけて見下ろせば、街路灯が地上を照らしていた。

 白い光を照り返す赤い車体。

 ふかしたアクセル。

 その傍らに、小さな人影。ひらひらとこちらへ手を振っていた。

 得意げな顔をしてみせるから、こっちまでつられて笑う。

 生意気なやつ。

 ほんとに生意気な、くそ生意気なガキ。

 俺なんかのために、バカみたいな真似して。

 どうしようかな。

 どうしよう。

 こんなに、好きになっちゃって。

 最後にもう一度手を上げて、テールランプを長く引いて出ていくのを、通りの向こうへ消えるまで見送った。


 冷蔵庫を開けて、丁寧にラップに包んだ半分の林檎を取り出す。

 なんとなく今は煙草よりこっちが欲しかった。皮ごと齧りながら、またベランダへ出てみる。

 まだ熱い頭と顔を冴えた夜気がゆっくり冷やしていく。風はない。見上げると、名前を知らない一等星が震えるみたいに光っていた。

 甘い欠片を口のなかで転がして、国道を走っていく赤色のことを思う。

 ギターケースに仕舞ったままの赤色のことを思う。

 手のなかのつやつやした赤色のことを思う。

 目蓋の裏に残った、蒼色のことを思う。


 地球を覆う、薄い薄い空気の皮。

 今夜はそのなかにほんの少し、林檎の甘い香りが漂っている。

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