fragment:17 雨の匂い

 山手線を降りるとイヤホンにノイズが混じった。ついに壊れたかと耳から外してもそれは消えず、ほんの一瞬、壊れたのは俺の頭のほうかもしれないと思ってしまう。

 乗客の流れに弾き出されながら辺りをぼんやり見回す。妙に薄暗く、向かいのホームの景色が妙に霞んでいる。そこでようやく、聞こえていたのは白色雑音ではなく土砂降りの雨の音だったことに気づいた。

 耳の奥に染み込むようなやさしいノイズを聴きながら駅の外へ向かう。JR 新宿駅南口の入り口は人でごった返している。乱暴な、泣き叫ぶような豪雨。おそらくここですれ違って二度と会わないだろう人たちが立ち尽くし、あるいは行き過ぎる。知らない人たち。俺に関係のない人たちが、このひと時同じ雨を見て、同じ場所でそれが止むのを待っている。

 しばらくうろつくと柱の傍らに灰皿を見つけた。待ちきれず一本取り出して咥え、ライターを擦りながらそこへ近づいていく。湿気に駄々をこねるように火は点かない。幾度か繰り返して諦め、だらんと手を垂らした。今日はなんだか、苛立つ気にもなれない。

 ただ空を見る。分厚い雲が低く垂れ込めて、今にもくるくると綿みたいに丸まって落ちてきそうだ。そこから落ちてくる無数の水滴は糸の束のように見える。落下するあいだは糸で、地面に叩きつけられる瞬間水に変わる。アスファルトを打って、水溜まりを束の間揺らして、誰かの肩を濡らして、すぐに見えなくなる。それが何度も何度も、きりなく続く。いつまでも繰り返す。

 目を閉じる。薄闇の向こうから感じるものたち。雑踏が生む喧噪。信号機の自動音声。電車の振動。どこからか漂う埃臭さ。タイヤが水を跳ね飛ばす音。

 洗われる街に充満する空気、そこに沈んでいるものたち。

 あの子は、どうしているだろう。

 どこかでこの雨を見ているだろうか。

 蒼色の、彼女は。

 脳裏に浮かぶ映像を雨音が洗おうとする。

 やめてくれ。それだけは忘れたくない。

 どうせ会えはしないのだから。

 会いたいと望むことくらい、好きにさせてほしい。

 そうだ、どうせ会えはしない。

 こんなところで、土砂降りの新宿駅南口で、偶然に会えるわけがない。

 そっと隣に立った気配がいくら似ているからといって、そんな都合のよい幸せが落ちてくるわけがない。

 いくら、今日が雨だからといって。

「煙草の匂いって」

 ああ、でも。

 もしも、本当だったなら。

「ちょっと、雨の匂いに似てませんか」

 ゆっくりと、目を開ける。

 見えるのは相変わらず、白くけぶる都市の景色。

「そうかもしれない」

 なら、俺はいつも雨の匂いをまとっているのか。

「雨男だからちょうどいいな」

 あはは、と隣の誰かは楽しそうに笑う

「じゃあ、雨が降ったら会えるかもしれないってことですね」

 ほんの少し言葉を切って、今日みたいに、と小さく呟いた。

 ライターを握ったままの手を持ち上げる。今なら、火が点く気がした。

 ちりりと紙の燃える音。甘くて苦い煙を深く深く吸い込んで、空に向かって吐き出した。

 この煙がどこまでものぼっていけばいい。そして雲になって、もっと雨を降らせればいい。

 いつまでも止まないように。

 このまま二人で、雨の匂いに閉じ込められていたい。

「ずっと雨ならいいのに」

「どうして?」

「晴れたらまた行っちゃうだろ」

 俺には行けない、どこか知らないところへ。

 言うつもりのなかったことを零してしまうほど夕立は強く降る。

 一人きりの雨宿りなど平気だったはずの心が、どうしようもなく濡れてしまう。

 呆れたような、笑いを含んだため息。

「いくらこんな天気だからって、湿っぽいこと言わないでくださいよ」

 返事の代わりに煙を吐いて、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。

 言い返したら、今度は俺の目から雨が降りそうだった。

「ねえ」

 袖を引かれて、声のするほうへ向き直る。

 魔法みたいに。

 夢みたいに。

 澄んだ大きな目を細めて、穏やかに笑う彼女がそこにいた。

「綺麗な庭のある喫茶店を見つけたんです。一緒に行きませんか。煙草も吸えるし」

 少しだけ低い、やわらかな声で、唄うように。

「晴れても雨でも、私はどこへでも行きますよ。好きなところへ、どこへでも」

「でも、できるなら、好きな人と一緒に行きたい」

「好きな人と好きなところへ行けるなら、私は幸せです」

 だから、と彼女は笑う。

「一緒に歩いてくれませんか。今日は、雨だから」

 ぽん、と軽い音を立てて傘が開く。

 彼女と雨の音にそっくりな、蒼色の傘。

 今日が終わっても一緒にいてほしいと、ついに言い出すことはできなかった。

 俺のさみしさをこの子にすりつけたくはない。

 雨が上がるのを待つことしかできない俺のさみしさで、手を差し伸べてくれる彼女のやさしさを傷つけたくない。

 それでも今はただ、この瞬間を噛み締めていたかった。

 独りではない、このときを。

「行きましょう」

 ほとんど灰になった煙草を捨てて、白い手を取った。

 踏み出せば、包まれる。

 雨の匂いに。

 二人で、同じ匂いに。

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