fragment:12 アロエヨーグルトの共犯者
徒歩 1 分、走って 20 秒のところにコンビニエンスストアができてから、ちょっとした食事や深夜に襲いかかる空腹の対処には 24 時間煌々と明るい冷蔵庫を頼るようになった。店員ともすっかり顔馴染みで、昼間に行けば世話焼きなおばさん、深夜に行けばいつも眼鏡のずれている大学生が出迎えてくれる。お互い名前も知らないがいつも買うものは把握されているし、レジ打ちの手際がどんどん良くなっていくのも間近で見てきた。そういう奇妙な距離感も心地よいと感じている。
深夜、店を出るとぶわりとぬるい空気に包まれる。陽が沈んでかなり時間が経つのにまだ気温は下がり切らない。過剰なほどの冷房に慣れた体がたちまち混乱して足元がふらつく。電柱に手をついて、腹の底から息を吐いた。
「大丈夫?」
「ん、平気」
T シャツのうえに薄いカーディガンを羽織った坂根が顔を覗き込んでくる。なんで真夏に上着なんか、と笑ったことを深く後悔した。たとえ二の腕の白さが透けるほどの布であっても、あるとないとでは大違いだ。
「竹井はほんと自律神経弱いね。漢方とか飲んでみたら?」
「やだよ、あんな苦いの。前に買ってみたけど、一回で捨てた」
「捨てたの? だめだよそれは」
窘める声とともにひょいと袋を取り上げ、空いた手をつないでくれた。
「とりあえず、家まで戻ろう。アイスも溶けちゃうし」
そうして二人、緩い坂道を並んで家まで歩く。
――じゃあ一緒に暮らそうよ。一人じゃできないことも、二人いればなんとかなるんじゃない?
電気代の滞納の結果真っ暗になった部屋で、坂根はそう言った。自分を助けるつもりなのかと自分は問い返した。仕事に行くのも精いっぱいで、公共料金どころかごみ出しもままならないくせに劣等感に裏打ちされたプライドだけは衰えず、誰かの施しなんか受けないと決めていた。
誰かに助けられるなんて、そんなことはありえない。だから差し伸べられる手は全部嘘だ。本気でそう信じていた。
――助けるなんて大袈裟だよ。むしろ、こっちが助けてほしいくらい。とりあえず
坂根はいつも、にかっと笑う。子供みたいな八重歯を惜しげもなく晒して。
――洗濯物畳むの手伝ってくれないかな。どうしても苦手なんだよ、あれ
誘われてついていったアパートの床に、山と積まれた服や枕カバーを見て嘘ではないとわかった。ふわふわ仕上げと銘打った柔軟剤の良い匂いが残っているのに繊維がぺしゃんこになったタオルや、部屋の隅に転がり落ちて埃だらけになり、いつまで経っても履かれないまま洗濯を繰り返す靴下を見るうち、引っ越す決意は自然と固まった。
大家との話し合いの結果、家賃を少しばかり上乗せすることを条件に同居を許された。上乗せ分とプラスアルファを負担することをはじめとして、掃除や朝食づくりといった担当をいくつか引き受ける。ただ暮らしているだけでもやるべきことは無数にある。けれど、二人で取りかかれば負担はぐんと減った。ぴかぴかになった部屋を眺めて汗を拭えば自然と笑顔になった。
――半熟卵作るの上手くなったよね。竹井がいてくれると助かるよ、ありがとう
とろりと溶けた黄身に醤油を垂らしながら坂根がそう言ってくれるから、苦手な朝でも起きようと思える。
劣等感は今でも死んだわけじゃない。ただ、この暮らしが心地好いから出番がないだけだ。できればこのまま、ずっと出番がないままでいてほしい。
「着いたよ。昇れる?」
やたら足音の響く階段をそろそろと上がって、ドアを閉めると安堵と疲労のあまり玄関にへたり込んだ。
「頑張った頑張った。ヨーグルト、冷蔵庫に入れとくよ」
ひと足先に部屋へ上がった坂根が台所から声をかけてくる。ひとつ深呼吸して応える。
「ううん、出しておいて。すぐ食べる」
「そう? わかった」
スニーカーを脱ぎ捨てて居間に入る。机にはサンドイッチとおにぎり、それと野菜ジュースが並んでいた。お互い定番みたいなものがあって、それ以外のものはほとんど買わない。サンドイッチならハムと卵、おにぎりは鮭と梅干し、アイスクリームだったらチョコモナカジャンボとジャイアントコーン、贅沢したいときはハーゲンダッツ。
そして、ヨーグルトといえば、アロエだ。
「そういえば、竹井ってなんでアロエヨーグルト好きなの」
「なんでだっけ。わかんない」
一緒に買ってきたクリームスープが湯気を立てながら目の前に置かれる。浮かんだクルトンに向かって、嘘をついた。
引っ越した日の夜。まだ、あの最寄りのコンビニができる前のことだ。掃除やら片付けで一日働いて疲れているはずなのにどちらも全然眠くなかった。テレビは通販番組とニュースの繰り返しだけで、twitter のタイムラインも沈黙していて、考えあぐねて外へ出た。適当に歩いているうちに眠くなるだろうと踏んでいたのに、つい話が盛り上がって気づいたら空が白んでいた。
――もう今日は休んじゃおうよ、仕事
――そうだね。そうしよっか
共犯のように笑ったらお腹が空いたのに気づいて、帰り道に遅い夜食のような、早い朝食のようなものを買い込んだ。お金は坂根が払ってくれた。わざと部屋の灯りを点けず音を立てず、なんだか逃亡犯みたいに食事をした。世界に二人きりみたいだった。もちろんそれが錯覚だとわかっていたけれど。
――二人暮らし、楽しもうね
そう言って差し出された、この白と緑の涼しげなパッケージが、夜明けの青色に浮かび上がって見えた。
「いただきます」
開封されるハムサンドを横目に、蓋をぺりぺり剥がす。プラスチックの透明なスプーンも包装を破く。
「デザートから食べるなんてお行儀悪いね」
「行儀悪いくらいじゃ死なないから、平気」
「そりゃそうだ」
屈託ない笑顔も、ふにゃりと頼りないくせに噛み締めると植物っぽい繊維質な抵抗をしてくるアロエの食感も、ややゆるくてとろりと甘いヨーグルトも、何も変わらない。
「坂根」
「んむ?」
「二人暮らし、楽しい?」
頬張ったサンドイッチをコンソメスープで飲み下しながら、坂根はぱちりと片目を閉じてみせた。
「最高だね」
芝居がかった口調がおかしくて、何よりも嬉しくて、誰よりも幸せで、もうひと匙を口に運んだ。
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